7・翻弄③
(おんぶかあ。病に蝕まれてたせいで、妹にすらやった事ないんだけど、大丈夫かなあ……)
楽馬の子供らしい要望に安堵するも、やや躊躇う優兎。バランスを崩してお互いに怪我でもしたらえらい事だ。失礼ながら、ジロジロと木の枝みたいな手足を目してしまう。
火事場の馬鹿力が働いたのかもしれないが、花畑にてピンチを脱する際にティムを抱えて走った事があるし、学校の求人募集で荷運びをやるくらいには体力がついてきている。優兎は自分を信じる事にして、うろ覚えながら、楽馬に背中を向けてしゃがみ込んだ。楽馬は近付き、手を優兎の両肩に乗せる。
「……乗った?」
「乗ったよ」
「本当に乗ってる?」
「それじゃあ、まずはこの辺りを一周してもらおうかな、お兄ちゃん」
「ああ、うん、じゃあ出発進行!」
心配していたのがバカらしく思えるほどにすっくと立ち上がった優兎は、背中に楽馬を乗せて無人の廊下を歩き出した。
言われた通りに一周すると、今度は外の庭に連れ出して欲しいと頼まれた。広大な世界に二人きりという感じで、人の手が入れられた庭の中を端から端まで歩かされる。自分達以外の生物が確認出来ない事はもはや気にしなくなっていたし、体力についての問題も失せていたのだが、依然として優兎は浮かない様子だった。
(おぶっている感触はあるけど、やっぱり不自然に体重が軽いよな。見た目とか瑠奈と同じくらいの年齢だとか、そういうのを抜きにしても軽すぎる……)
小さい子供の重量というより、まるで空っぽのリュックサックでも背負っているかのよう。以前から優兎は楽馬を幽霊ではないかと疑っていた。だが優兎の考える幽霊とは、触れる事すらままならないものであるので、現状は人間とも幽霊とも判断がつかず、ますます正体が分からなくなった。取り立てて悪意ある言動は見られないので、いっその事幽霊だと断定してくれた方がラクになれるのだが、その辺りを問うても、「前を向いて歩かないと危ないよ」とはぐらかされてしまうのだった。
「そう言えば、優兎はデスペルの霧夜と会ったんだね」
「デスペル?」
「古代語の『~の兄弟』という言葉から由来する造語だよ。テラという人物は知っているね?」
「先々代のオラクルだよね」
「そう、その人が名付けたんだ。脈々と引き継がれて行くであろうオラクルに対して、親しみを込めてね。ユニと違って他の聖守護獣はオラクルを変えなかったり、そもそも従える気がなかったりするから、世間では浸透していない。テストには出ないけど、覚えておいて」
(僕とユニの関係どころか、テレサから名前を変えた事まで知ってるんだなあ……)
楽馬の気が済むと、次は屋上を案内してくれと頼まれた。魔法台経由で目的地にたどり着くと、かろうじて知覚していた感触がふわっと背中からなくなる。
驚いた優兎はくるくるとその場を回った。そして視界の端に人の姿を捕らえると、心臓を飛び上がらせた。落下防止用の柵に腰掛けているじゃないか!
「そんなところに座ったら危ないよ! 早くそこから降りて!」
「危ない?」
こっちへ戻ろう、とにじり寄る優兎に対し、楽馬は怖いもの知らずといった様子で、言う事を聞く素振りを見せず。楽馬の細い髪の毛や服の裾がはためいていて、ひとたび強い風が吹けば、頭の重さで落下してしまいそうだ。
優兎は危険スレスレを楽しんでいるように見える楽馬に業を煮やし、強引にでも腕を引っ張ろうと距離を詰めた。しかし手が届く前に楽馬は立ち上がると、理解し難い事に、まるで柵から遠くの雲へと伸びた透明の道を渡るみたいに、片足を前に出した――
「行っちゃダメだッ!」
青ざめた優兎は、柵に体当たりする勢いで必至に楽馬を掴もうとする。その手に握り締められたのは、腕でも空気でもなく、「虚無」だった。なぜなら完全に掴み損ねたと思われたはずの楽馬が、優兎のすぐそばでしゃがんでいたからだ。
五体満足でケロッと優兎の奇行を眺めていた楽馬。だが今回ばかりは許容出来る範疇を超えていた。優兎は怒りと苦しみに歪んだ表情を見せつけた後、楽馬を強く抱き締めた。
「何でこんな無茶をするんだ! 悪ふざけにも程がある! 死んじゃったらどうするんだよ!」
「優兎……」
流石の楽馬もこれには驚いたらしかった。飛び降りる真似をすれば取り乱すのも当然だろうに、まったく予想していなかったといった素振りだ。
「出会ってそう経ってないけど、そんなの関係ない。君が死んじゃったら悲しいよ。……無事で良かった」
「そこまで困惑させるつもりはなかったんだ。悪い事をしてしまったね」
楽馬は素直に非を認めると、何か言葉をかけようとして、口ごもった。代わりにそろそろと優兎の頭を撫でて慰める事にした。
「もう充分君の要望に応えたと思うんだけど、そろそろ僕の方の願いも聞いてもらっていいかな……」
振り回されるのに疲れてきた優兎は、ここで本題へ切り出した。とやかく言われる前にポケットから折り畳まれたプリントを取り出して、謎の言語『ンヤ語』について知っている事はないかと尋ねた。
楽馬は一瞬だけ目を落として、優兎に視線を合わせる。
「自分が苦労すれば、相手もそれに見合った報酬をくれるだろうと期待してはいけないよ。今日の僕は気分屋なのだからね」
「うう……」
「だけど、さっきは僕の心ない行動でひどく傷付けてしまったから。――少し待っていて欲しい」
少し、と言っておきながら、さっと消えてさっと帰って来た楽馬。その手にはホコリを被った分厚い古書がある。
「この本を貸してあげよう。使われている言語はその紙に書かれているものと同じだ。四度目の太陽が沈む頃には消えてしまうから、気を付けて」
「あ、ありがとう! 一日だけで充分だよ! だけど、どうして時間制限があるの?」
「現物は別の場所にあるから。魔法をかけたおかげで今は優兎の手元にあるけれど、効果は長くない。……ここにあっても、あまりよろしくない代物だしね」
本を優兎に手渡すと、楽馬は一歩下がり、いつかのように陰りのある笑みを浮かべた。
「話がしたくなったら、また僕を呼んでね。二人きりの空間を作るのに結構力がいるから、いつでもというわけにはいかないけれど、次に会う時は……この屋上で」
「二人きりの空間……」
自分達以外に誰もいないのはそういう事だったのかと、腑に落ちる。
「君は一体何者なんだ? 君の事、もっと知りたいよ! 人間? それとも幽霊? 怖がらないから教えて――」
腕を掴もうと伸ばした手が空を切る。全て言い切る前に楽馬は消えてしまった。
しかしながら、もやもやを抱えると思いきや、優兎の心は少しだけ緩やかになっていた。正体を明確にする事は適わなかったものの、以前よりは楽馬の事が知れたからだ。
「何でわざわざ特殊な空間を作ってまで、僕に会おうとするんだろうなあ。特徴的な外見だから、どこかで会っていれば記憶に残っていそうなものだけど」
思い起こせば、ここ最近ずっと自分の身に覚えのない事に頭を悩ませているような。誘拐未遂があったのも、いつの間にかオラクルになっている事も、霧夜に命を狙われている事だってそうだ。初めて会った人に謂れのない因縁をつけられている。
自分ってこんなにトラブルに巻き込まれやすい体質だったんだな、と苦々しく思いつつ、本に被ったホコリを払い落とした。
すると突然、優兎の目がかっぴらいた。何を思ったか、本を開いてパラパラとめくり出す。そこに書かれていたのは、どこもかしこも翻訳機能が役に立たないページばかりで――
「全然読めないよおおおおおッ! 楽馬くーーーーーんッ!!」
宿題に挙げられていたのは、読み書き用の原本を『ンヤ語』に書き直しなさいというものなのだ。いきなりフランス語で書かれた書物を元手にして『桃太郎』の物語を書けと言われても、一日では到底無理な話。
頼み事の内容を間違えた……。優兎は自身のしくじりに頭を抱えた。
――7・翻弄 終――




