5・ナタリア③
「! みんな私語禁止! 先生が戻って来たかもしれない!」
耳に木の実を入れたジールが注意を呼びかける。室内に再び緊張が走り、各々ズラしたイスを正面に向き直し、閉じていた教科書を開き始める。
「出て行ってから十分も経ってねえな」 アッシュは壁掛け時計をチェックする。「なら、順番的にオレ辺りか。厄介なまじないも解けたみてえだし、一番手に指名されなくてラッキーだったな」
「誰のせいで赤っ恥を掻いたと思って……」声を抑えながら睨む優兎。
「おいおい、恨み言言ってる場合じゃねえだろ? 真面目にやってるフリしねえと連帯責任だぜ」
「うぐぐ……何ページ目?」
「七」
アッシュは立ち上がって音読を開始した。ページの冒頭部分ではなく、最後の辺りから読み始めるのが、この手の事に慣れているといった感じである。
筆記具にうっかり肘が当たったり、イスの位置が気に入らなくて動かしたりといった、方々からの雑音が治まり、音読者の声だけが響くという状態になると、ジールの報告通り、ドアの向こう側から何者かが接近して来る物音が聞こえるようになった。それはかなり小さく、ドア越しではそれが靴音なのかどうかが判断しづらい。ナタリアは西洋の装甲を連想させるブーツを履いていたと思うのだが、それでこんなにも音を最小限に削ぎ落として歩行出来るものなのだろうか。
アッシュがページの終わりまで読み終えたので、それに合わせてページをめくる。そこからピタリと歩行音が聞こえなくなった。
――今……見ているんだろうか……? 真面目に取り組んでいないと発覚され次第、魔物のエサにしてやると言ったのが、本気か脅し文句であったのか定かでないが、今はそんな事よりも得体の知れない不気味さがある。戻って来たなら早く入ってくれば良いのに。魂を体から切り離して、背後を確認したい衝動に駆られた。
「おいジール、オレもそろそろ疲れて来たんだが。次のページ読んだら交代してくれよ」
「え~? まだ読み始めてそんなに経ってないじゃん。あと二ページくらいは頑張りなよ」
「つれねえ奴だなあ、ったく」
「あっははははっ! アッシュ君ファイトー!」
アッシュ、ジール、シフォン演ずる呑気と言える会話を差し込んだ事で、参加していない優兎や彼ら自身も嫌な緊張感が少しだけ解された。
そうして二分程が経過した後に、再びジールから大丈夫だとの許しが出て、彼らは盛大に溜息を吐いた。
「おっかねーっ! 何だこの緊張感!?」
「あたしもとっくに限界! 息苦しさ満点の三ツ星級! 死ぬッ!!」
堰を切ったようにアッシュとシフォンが全体重を机にぶつけてぐったりとする。優兎も教科書に頭がくっつきそうなくらいに項垂れた。
「ハァー、これと言って何もしてない僕まで疲れたよ。あれ、本当にナタリア先生だったのかな?」
「本人かどうかは分からないけど、人はいたよ」 ジールは握っていた拳を開いて、それを見せる。「カラクルミが教えてくれた。これ、小さな穴を開けて地面とかに置いておくと、震動や風が吹いた時に中でカラカラ音を立てる奴なんだよ。あちこちに置いてやれば、伝達するみたいに他のカラクルミの音を拾える」
「へえ、普通のクルミとそこまで変わらない大きさなのに、案外バレないもんだね」
「いや、途中で一つ蹴飛ばされた。授業の真っ最中で誰もいないんだから、廊下の端っこに置いても気付かないだろうって思ってたんだけど、甘かったな」
「うーん、リスの落とし物だと思ってくれればいいけど……」
「リスって。――ミントは何かしら情報掴めた? 俺のやり方じゃあ、音の正体までは把握出来ないからさ」
「ナタリア先生で間違い無いと思うわ。まさに何かを――あれはカラクルミだったんでしょうね。蹴飛ばした際に、ブーツに使われている素材と同じ音がしたわ。外からアタシ達を監視していた時も、アタシの毛やヒゲがビシビシ視線を感知してたわよ。それにしても、どうして――」
「ん?」
「ああ、何でもないの。ごめんなさい」
何でもないと済ませながらも、一人考え込むミント。優兎とジールは視線を交わす。
「――てか、あいつがオレらを監視しに寄ったのが事実ってんなら、まーたどっか行っちまったって事じゃねえか。どういう思考回路してんだあいつはよおおおおー……」
不満を滲ませながらアッシュはぼやいた。以降、二時間目内にナタリアが戻って来る事はなかった。
――5・ナタリア 終――




