5・ナタリア②
「リブラ先生が辞めた? どういう事なの??」
まず一番に切り出したのはミント。彼女だけでなく、ナタリアが出て行った後、優兎達は一斉にイスを傾けて話し合いの態勢になった。交代で教科書の音読をしているようキツめに指示されたはずだが、誰一人として言いつけを守る様子が見られない。ナタリアが置いていったのは、それほどまでの爆弾発言であった。
ジールは真剣な眼差しで首を振る。
「俺も知らないよ。口振りからして、もう済んだ後みたいだったけど、アニキは何か小耳に挟んでる?」
「いんや、寝耳に水だ。これまで普通に授業してたし、昨日ちょろっと見かけた時も、エルゥの奴が植え込み作業してた花壇に思いっきり蹴つまずいて、またやってんなって呆れて……精神的に参ってたとか、そういうふうには見えなかったんだが……何もかんも馴染みの光景で片付けちまってたからなあ」
「アタシ達が先生置いてけぼりでやりたい放題に騒いだりしちゃったから、教師を続けていく自信をなくしちゃったのかしら。すっかり甘えていたけれど、まさかそこまで追い詰められていたなんて……」
「待って待って! 一身上の都合も考えられるわよミントちゃん! 親のどっちかが入院しなくちゃならない程の大病を患っただとか、家業を継ぐ為に戻って来てくれって頼まれたとか。あたしはここへ来て間もないけど、カルラちゃんは何か思い当たらない?」
「……私、先生の家族関係、何も知らない」
「え?」
「出自も、私情も聞いた事ないわ。多分他のみんなも」
細い声で言うカルラにキョトンとしたシフォンが、同じくリブラと付き合いが長いであろうアッシュ、ジール、ミントを順に見やると、彼らは気まずそうに黙していた。
「みんなの反応は割と普通だと思うよ」 優兎が横から口を出す。「大人達がどんな思いで子供と接してるかなんて、教えたがらないものだよ。何て事ないように振る舞う事で、僕らを安心させようとしてくれているんだ」
優兎の中で、自身の両親が内密に取り計らっていた出来事が断片的に呼び起こされた。優兎に気を使わせないよう薬代や治療費の書かれた紙を細切れにし、居間のゴミ箱ではなく、ゴミ袋に直接捨てている事や、テレビで医療・学校関係のニュースやドラマを放送している最中に優兎が現れると、さりげなくチャンネルを変えたり、反応を窺って来ること。診察室から出た時に見かけた、看護師に慰められている姿……。
両親だけでなく、たくさんの大人達に囲まれて過ごして来たからこその気付きであった。今でこそ余裕も出るようになったが、病に苦しめられるようになった初めの数年間は、自分も周りも張り詰めていた。優兎が影を落としながら瞼を閉じる余所で、シフォンはなるほどねと頷く。
「でも……」
「でも?」
「先生だったら、きっと僕達に何かしら事情を話してから去っていくと思うんだ」
優兎はリブラと二人で学校の見回りをした時の事を思い出した。あの夜がリブラと過ごす最後になってしまうなんて、当時は想像もつかなかった。
――永遠などありはしない。されども、想いはその限りではない。
倉庫組の教室を眺めながら零したあの言葉を、今も覚えている。思い返せば、最後を予期した発言とも解釈出来るのだが、それでも、この教室を「一番気が休まる場所」だと評したリブラが、このクラスの誰にも相談せずに学校を出て行ってしまうなんて、考えられない。やむを得ない事情があると信じたかった。過ごした日々がどれだけであろうが関係ない。優兎にとってリブラは優しくてのんびり屋で、ちょっととは言えないくらいにドジだけど、そんなところも愛嬌として受け入れられている、とても良い先生だった。
「優兎の言う通りだな。事前連絡も無しにナタリアって奴が入って来たのもひっくるめて、まるで一日飛んじまったみたいに唐突だ。何がどうしてこうなったのか、オレらには補完しなくちゃいけねえ情報が山程ある。そうだろ?」
「賛成。頃合いを見て、アタシとカルラちゃんは下級生の子達に、リブラ先生が退職した事について、どんなふうに伝わっているか調査して来るわ」
「ハイ! あたしもミントちゃんに倣って、仲良くなった子達に聞いてみる!」
「生徒だけじゃなくて、先生達にも聞き込みしないとだよ。アニキ、リブラ先生が退職願いを出したとして、それを受理するのは校長先生と副校長、どっちだと思う?」
「校長は最近ずっと外に出ずっぱりらしいからな。その辺の事は副校長に丸投げしてんじゃねえの? まあ念の為に校長室と、ついでに職員室でも話聞いて来るわ」
「じゃあ俺は副校長の方をあたってみる。優兎は? どうする?」
「そうだな……ジールに付いて行っても?」
「いいよ」
授業時間外にどう行動するのかがするすると決まった優兎達。気を抜いた矢先、ガタガタッ! と物音がして、一同はギクリとした。ナタリアが帰って来たのかと思ったのだ。
しかし、すぐに音の正体は、風が廊下方面の窓ガラスを叩いたものだと判明。一斉に気の抜けた溜息を吐き出す。アッシュはジール相手にドアを示す仕草をすると、ジールは頷き、教室の外を注意深く確認した上で一人抜け出した。
「あんたジールちゃんに何をさせるつもり?」じろりとするミント。
「すぐ戻って来るっつーの。――そんな事よりも重要なのは、今後どうするかだよな」
「今後?」
「ナタリア……先生だよ。現状、あんまし先生って付けたくねえくらいだ。新任のくせに、生徒への興味ゼロ、終始上から目線で口が汚い、授業もロクにせずほっぽり出す。あまつさえ平気で罰を与えようとしてきやがる。一、二年組なんか、はしゃぎたい盛りの奴らがわんさかいるんだぞ?あんなんじゃあ三年組だって任せられねえぜ。本当にやる気あるのか?」
問題点を指折り列挙して嫌気がさしたのか、面倒くさそうに頬杖を突くアッシュ。
「もう! その為のクラスじゃないの」 ジールが戻って来たと同時に、ミントは尻尾で机をたんたん叩きながら意見する。「気に入らないとか、相応しくないなんて決めつけるにはまだ早いわよ。どんな人が来ようとも、立派な教師として人前に出せるようにしなくちゃいけないの」
「そりゃあまあ、頭では分かっちゃあいるんだがな……」
「あ! 国を守る女戦士って感じの格好だったから、こっちに来る前はそういう規律のビシッとした環境にいたりして?」
「シフォンちゃんの予想が正しければ、それである程度説明がつくわね。きっと染み付いた気風がここでも通用すると思っていて、何が間違っているのか分かっていない段階なのね。いろんな種族がいるのと同じで、世の中リブラ先生みたいに最初から学習に積極的だった人ばかりじゃないのよ」
「遅刻魔な部分とか改善出来てねえ時点で、偉そうに言えた口じゃないけどな」
「うにゅ~、いずれにせよ! 素人同然の未経験者を矯正するのも、アタシ達の勤め。こっちとしても良い勉強になるわ。だから教える立場として、襟を正しましょう。分かった?」
「ハァ、頼むから宿題を大量に出すってのだけは勘弁してくれよ……」
まったく、どっちが先生なんだか分からなくなってくるな、なんてぼやきたくなるアッシュであった。




