5・ナタリア①
六人分の視線を集める中、マントを揺らし、ブーツの靴音と水音を交えさせながらきびきびと前進する女性。教室で起こった顛末を知らぬ者の大多数がまず「なぜ教室中が正体不明の白い粘着物に塗れているのか」、「なぜ子供達全員が一言も喋らずに黙りこくっているのか」について言及すると思われるのだが、教卓に立った彼女は違うらしい。卓上にへばりついたベトベトをさっと甲で拭い去っただけで、そのまま棒立ちの生徒達に向けて自己紹介を始めた。
「ナタリア。新任教師の教育って名目で、ここに一時送り込まれる事になった」
優兎達は困った様子で顔を見合わせる。そしてとりあえず、両脇にどかしていた机を定位置に戻して着席しようと動く組と、誰か何か言えよといった無言のやり取りをする組とに別れてやや忙しくなり始めた。
「ああ、自己紹介は結構だよ。名前だの不幸自慢だの、敵国の大将をぶっ殺したエピソードだの語られても、こっちには覚える気なんて更々ないからね」
「ちょっと待てよあはーん。初日早々その態度はどうかと思うぜ、あはーん」
新任らしからぬ無遠慮な態度にもの申したくなったアッシュが、恥を承知で口を出す。ふざけにくい空気が取り巻く状況でよくぞ言ってくれた! 片付けをする者を含め、五人が素直に勇気を讃える。
ナタリアは小バカにするように鼻を鳴らした。
「あんたに言われる筋合いはないね」
確かに。アッシュはピクッと口の端を吊り上げた後、優兎がささっと用意したイスに座り込み、机を持って来たジールに背中をポンポンと叩かれた。
(それにしても、リブラ先生はどうしたんだろう。休むっていう話は耳にしてないけど)
予定表ではリブラがこのクラスの授業を担当するはずなのだが、ナタリアはこちらが質問しないせいもあってか、当然のように授業を始めようとしている。
優兎が疑問ともどかしさを抱いたまま着席すると、不意に黒板方面から鋭い視線が差し込んでくるのを感じた。しかし優兎が顔を向けた瞬間にぷつりと途切れ、視線の送り主らしき人物は教科書と一緒に持って来たファイルに目を落とし、ページをパラパラめくった。
「読み上げの授業……学習内容と目的は……記述内容を正確に発音・理解させ、日常生活に困らない程度の教養を付けさせる……? ハァ、魔法の学校って事で多少は期待してみりゃあ、実体はこんなつまらないものかい。養成学校でもここまで幼稚じゃないだろ」
ナタリアは赤茶の長い髪を耳の後ろに引っ掛けると、教科書の目次の次ページを開いて優兎を睨みつけた。
「そこの、端っこの席の白服」
「!」
「あんたがトップバッターだ。四ページの見出しからあたしが良いと許すまで読み続けな」
「!?」
「惚けた顔してんじゃないよ。ほら、さっさとやりな」
ナタリアは優兎を指名すると、教壇から下りて窓の方へ移動する。優兎はなかなか踏ん切りがつかなかった。罰ゲームの影響がアッシュに現れているとするなら、ボール破裂の際、最も近場にいた自分にもふざけた語尾がくっついているのは明白。
皆がそろりと優兎に注目する中、当人は恥ずかしい気持ちを泡立たせながら席を立ち、教科書を手に取る。
最初に読む一節を目で攫うと、ますますカーッと体温は上昇した。
「……ち、……よう、……ん」
「聞こえないね」ナタリアは壁に寄りかかり、校庭の景色を眺めながら言った。
「……ぽいんといち……」
「イライラする子だねえ、もっとデカい声でハキハキ喋りな!」
強い口調で言われて、優兎はぐっと腹に力を入れた。
「ポイント1、文章に感情を込めて読みましょう! あっはーーんっ!!」
こうなりゃヤケクソだ! といった気持ちを言葉に乗せて、思いっきり炸裂させた優兎。各所で笑い声を堪える音が薄ら聞こえる中、せめて羞恥心で茹で上がった顔だけは隠そうと、教科書を寄せていった。
無論、ナタリアは良い顔をしなかった。優兎の座席まで早歩きで接近するや否や、机を拳で叩き、驚いた優兎に眼を飛ばした。
「口を開けばどいつもこいつもふざけた事抜かして、どういうつもりなんだい。気に食わないから楯突いてもいいだろうって事かい? それとも真面目にそういう種族なのかい」
「す、すみませんあはーん! 僕達、親睦を深める為に、直前までゲームをしていて――」
「ゲーム?」
「ははははい、その罰ゲームでこうなっちゃっただけで、先生をからかうつもりは一切、これっぽっちもないんです、あはーん!」
これでもかと眉間にしわを寄せ、食い気味に覗き込んで来るナタリアに対し、尻込みし、手の平で壁を作りながら懸命に訴える。な、何か滅茶苦茶距離が近い……! 視界いっぱいに整った目鼻立ちや艶めいた唇がアップになっているので、目のやり場に困って変にドギマギしてしまった。
やがてナタリアは溜息を漏らして、目線を外した。
「まあいいさ、どうでも。――あんた達、十分ごとでも二十分ごとでも何でもいいから、交代でこいつを読んでおきなよ。戻って来るまでに一人でもサボってるようだったら、連帯責任で引きずり回して、魔物のエサにしてやるからね」
出入り口へ向かい始めたナタリア。「先生、どこへ行かれるのですか?」とミントが慌てるが無視。優兎も彼女が完全に行方をくらましてしまう前に疑問をぶつけた。
「先生、一つ質問させて下さい! 本来授業をする予定だったリブラ先生について、何か聞いていませんか?」
「はあ? 何て?」
「リブラ・エスティード先生です。前の授業でも来ていなかったんです。寝坊とか風邪だとか、不在理由をご存知であれば教えて下さい」
仕方なく応じてやったという感じで、ナタリアは半開きのドアの前で立ち止まる。質問が通った事に一瞬安堵する優兎だったが――
「リブラなんて奴はもうここへは戻ってこない。退職してったよ」
衝撃的な言葉を残して、ナタリアはさっさと教室を後にした。




