8・零れ落ちた、心の涙③
「ああ! 見つけましたよ、ロードリッテ!」
人の集まりが捌けていって、優兎達も動き出そうとしていた時。向かい側の人ごみの中から手を挙げ、誰かに呼びかけている女性がいた。優兎は一度スルーしてこの中に混じっていないかなと、散っていく人々を見渡していたのだが、オルハは女性を見てギクリとした。
「オルハの知り合い?」
「えっと、彼女がクレアンです……」
「てことは、僕らが探してた人だね?」
捜索するにあたってある程度の情報は聞いていたのだが、それでも友人と言うからにはオルハと同世代を想像していた。オルハより背丈があるというのも、その人の特徴だとばかり。だがこちらへ駆け寄ってくるのは思ったより年上のようだった。飾り気のない婦人服や全体の雰囲気からして、二十どころか三十歳前後かもしれない。
「この方は?」
探している最中に虫に刺されたのか。腕まくりをして赤く腫れた箇所を掻きながら、クレアンはオルハに尋ねる。
「優兎様です。私が体調を崩していたところを助けていただきました」
自分の事が話題に上がったので、優兎は「初めまして」と礼をした。クレアンはやや訝しげな目を向けてから頭を下げた。
「ロードリッテが世話になったようで。どうもありがとうございました」
「いえ、当然の事を――」
「さ、買い物へ参りましょう」
クレアンはオルハの背中に手を回して、強引に連れて行こうとする。彼女の態度があまりにも素っ気なくて、優兎、そしてオルハまでもが戸惑いを見せた。
「クレアン! そんなに冷たくしなくても……!」オルハは優兎の顔色を窺いながら、踏み止まろうと抵抗する。
「い、いや、いいんだオルハ。ちょっと時間を過ごしただけのよそ者に違いないから」
「オルハとは? この子はそのような名前ではありませんよ」
「え?」
「違います! 正真正銘、私の、名前です!」
オルハはクレアンの手から逃れ、優兎の前に出た。
「優兎様も、私達と一緒にお買い物出来ませんか……?」
透き通った綺麗な瞳がしっかりと優兎の顔を見つめる。ただ頼んでいるのではない。これは懇願であると誰の目にも――クレアンやウサギ達にさえ――明らかな悲痛の表情をしていた。
「ああ……でも、無事に合流出来たし、僕もそろそろお店に戻らないといけないから」
残念ながら、優兎には届かない。
優兎が自身の都合を口にすると、オルハはようやく折れたようだ。
「……このご恩は一生忘れません。どうか……どうかお達者で……」
「うん。それじゃあ気を付けて」
後腐れなくさっさと退散した方がいいと考えた優兎は、ローブを返してベリィをウサギの頭上から取り上げた後、友達と別れるようなノリで去った。時計塔を見上げて、「うわ、まずい!」と零し、速度を上げて駆け出す。
……ああ、行ってしまう。顔を見る事も見られる事も苦痛としていたはずの人なのに。今はこんなにも寂しいと思ってしまう。意見が変わったと、振り返って戻ってこないだろうか? 戻って、は……、ああ……。
もっと話しておくべきだった、嫌がらず顔を合わせるべきだった……と、オルハの中にはそんな後悔ばかりが浮かんでくる。自分から遠ざかっていく優兎をオルハはいつまでも見つめて――いたかった。クレアンが目前に立ち塞がるまでは。
「説明して下さい。これは一体どういう事です? あなたのお名前はロードリッテですよ。二人で練習しましたよね?」
クレアンは少し屈んで、悪い事をした子供を窘めるように問いかける。言葉にはすっかり刺々しさが抜け落ちて、優兎に向けていた時とは比べ物にならない。
「それが、その……」 口ごもったが、オルハは迷いを振り切るように見上げた。「クレアンには悪いと思ったんです。けれど、あの方にはどうしても、私の本当の名前を知って欲しくなってしまったんです」
布を握り閉めた手を胸に当てると、頭まで被さっていた布がズレて水色の髪の毛の一部が流れた。背中までかかる程の長い髪は、風に攫われると水明な小川のようにたゆたう。
本来はその髪の色も、名前同様あまり公にしてはならないものだった。なのに頭が回らず、流れていくのを止められない。
口を歪め、辛そうな顔で俯くオルハ。ウサギはそんなオルハの心を汲み取ったように、そっと寄り添った。
ーー8・零れ落ちた、心の涙 終ーー




