7・日々に新たなり⑦
時計塔の針が十二時を指し、〈ガルセリオン王国〉内に鐘の音が響き渡ると、店外の賑わいは一層高まった。飲食店が多く並ぶエリアに店を構えているので、鐘が鳴る前からある程度の時間が分かる。
昼時になっても、〈日々に彩りを、華やかに(ミスティ・アナーゲンシィ)〉には絶えずお客が入って来ていた。飲食が目的の店ではないのだが、単純に人の目につきやすく、行列が大人しくなるまで見て行こうだとか、腹ごなしにその辺で買い物して行こうだとか、そういう人までもが集まってくるのだ。飲食店の恩恵を授かっていると言える。
てっきり昼になれば休めるものだと思い込んでいた優兎は、思わぬ繁盛に面食らった。接客するには知識が足りないので、裏方としてプレゼントのラッピング作業を手伝う。ようやく休憩を貰えたのは、一時を大幅に過ぎた頃だった。
(ハァー……。学校でやってた仕事とは、忙しさのレベルがえらい違うなあ)
優兎は裏口の階段の端っこで軽食を取っていた。学校の朝食のおかわりをパンでサンドしたものを食べ、店長から貰った瓶ジュースで流し込む。
(体力使うし、水は氷水のように冷たい。覚える事もたくさんだ。間違えないよう気をつけるのに苦労するもんだ)
道具の洗浄作業で未だ冷え切っている手を広げ、熱の籠った息を吹きかけた。
でも。
(不思議と、まだ頑張れる。これはやりがいを感じてるって事でいいのかな。僕には物書きぐらいしか将来の道はないって思い込んでたけど……リヲをカットした時といい、他にも向いてるものってあったんだなあ。自分の事なのに全然知らなかった)
閉じた小部屋のような世界で生きているのだと思っていた。だけど隔てている壁は実は紙ペラであって、それを突き破れば外の世界に直通していたのかもしれない。そんな気がしてきた。
「さてと。昼食も食べ終わったし、気分転換にブラブラしてこようかな!」
昼食の時間も含めて、四十分間は好きに過ごしていいと言われていた。優兎は店内に入ってつぼみのそばで日向ぼっこをしていたベリィを連れ、町へと出かけた。
僅かな間、暇つぶしになるものを求めて彷徨う優兎。ふと、通りにハンカチで一生懸命汗を拭いながら瓶ジュースを飲んでいる男性を見かけると、その足取りは明確な目的を持ったものへと変化する。
「そう言えば、店長さんから帰りがてらに水飲み場の水を汲んでいったらいいって言われてたんだよな。この国は地下に最新鋭の浄水施設があるから美味しいんだって」
優兎が飲むのではなく、つぼみ用にだ。買い物しようにもお金に余裕はないし、どうせなら話に聞いていた水飲み場を探しておこうと思い立ったのだ。案内板の地図によると、水飲み場はエリア内のあちこちに設置されているらしい。次の通りを右に曲がったら直進して……と、迷路のようになっている道のりを確認しながら、北部の住宅地エリアに近い場所へ向かう。
「あ、あったあった、これだ!」
目的の水飲み場は、人の賑わいから隔絶された静かな場所にあった。石の杯から水が沸き出しているタイプのもので、杯から溢れた水が、下の広々とした水盤へと溜まっていく。まるで小さな噴水みたいだが、広場の方にある噴水と違うのは、植え込みの緑に囲まれているところやその場に人っ子一人いないところか。
「わあ、確かに澄んでいて綺麗だな。どれどれ……」
ゴミ捨て場に捨てようとして、ポケットに入れっぱなしになっていたジュースの空き瓶を水中に沈める。差し入れた手が冷たい。頭上に瓶を掲げてみると、快晴の青をそのまま閉じ込めたような、見事な透明度であった。
早速瓶に口をつけて飲んでみる。ごくっ、ごくっ。おおっ! ごくごくごく……っ!
冷たい水が喉元を通っていく。あっという間に飲み干してしまった。
「っぷはあ! 本当だ、美味しいや! 雑味が一切ない感じ。ほら、ベリィも飲んでご覧」
優兎は水盤に腕を伸ばして、橋を渡したようにした。ベリィはそこを伝ってジャンプすると、水中にダイブした。水しぶきが光の粒となって飛び散る。まあ確かに小さな手を使ってすくうよりは効率的なのだが、それにしてもダイナミックな水の飲み方だな、と優兎は笑った。
「まったく、服がちょっと濡れちゃったじゃないか。すぐに渇きそうだからいいんだけどさあ」
背中や頭、素肌に浴びせられる光が暑いし眩しい。秒単位で体の水分が奪われていくような気がした優兎は、もう一度水を飲もうと、屈み込んで瓶を浸す。
その時、何者かが背後に迫ってくる音がした。
タッタッタッタッタッ!
ドンッ!
「あちょっ、ええッ!?」
軽やかに地面を蹴る音がしたかと思えば、その音の発生源と思しきものに背中を強く押される。まったく身構えていなかった優兎は、そのまま上半身を水の中にザブンッ! 泡を吹いてゴボゴボッ!
「ゲホッ! な、何するんだ! 死ぬかと――うわあっ!?」
叱りつけてやろうと振り返ると、正体を確認する前にまた体をドンとど突かれ、危うく転びかける。
やけに行動に容赦がないかと思えば、それもそのはず、人ではなくオオカミみたいな獣がそこにいた。きりりとした眼差しと顔つきで、灰色の中に藍の混ざったブチ模様の体は大きく、人一人なら背中に乗れそうなほど。
水を少々被ったらしい。さっと体を揺らして水気を飛ばし、オオカミは温もりの感じられる体毛を取り戻す。「わー、かっこいいな!」と優兎は怒りも忘れて見入った。
「町中だし、何となく気品があるから、誰かのペットとかかな。ひょっとして君も水を飲みに来たのかい?」
片膝を立ててしゃがむと、何の躊躇いもなく頭を撫でようと手を伸ばす優兎。オオカミみたいなと表した要因である、ピンと立った長い耳――片方が虫食いのように千切れている箇所がある――目掛けるも、次の瞬間には生暖かい口の中に手首が入っていた。バクリとやられたのだ。優兎は「あ、これ死んだ」と自分の行く末を悟った。
しかし、オオカミはその生え揃った牙で噛み千切ろうとはしてこなかった。パッと口を開けてあっさり解放すると、額を使って優兎を押しやったり、服の端を噛んで引っ張ろうとしている。じゃれている――にしては、落ち着き払っている。優兎はこの動作を、どこかへ連れて行こうとしているのだと判断した。
こっち、今度はこっちだ、と額で押されるままに歩いて行く優兎。どこまで連れて行く気なのだろうと疑問を抱いていると、前方に人の姿を見つけた。灰色一色の裾の長いローブを身にまとい、フードを深々と被っている人で、塀を支えにして座り込んでしまっていた。気分が優れないのだろうか? これは大変だ! オオカミに導かれている最中だというのに、優兎は脇目も振らずに駆け出した。
「あの、大丈夫ですか! どこか具合が悪いんですか?」
ローブの人物のそばまで近寄り、様子を窺う。他者の声に気付いたその人物――フードの影で、こちらから顔は見えない――は、優兎の方を見上げた。
「……あ」
「?」
「……き、きゃあああああッ!!」
おっと、第一声で叫ばれたのはこれで二度目だったか?
ショックを受けながらも漠然とそんな事を考えていると、フードの中から声の若い女の子のハッ! という息づかいが聞こえた。
「あ、す、すみません! あなたが知らない方なので叫んでいるのです! どうか気を悪くされないでくださいね。――きゃあああああッ!!」
「ちょ、ちょっと待って! 落ち着いて! 悪巧みしようなんて考えてないから! 本当に!」優兎は周りをキョロキョロとしながら弁明した。幸いにも、駆け付けてくる足音は聞こえない。
「一体こんなところでどうしたの? 転んで怪我したから動けないとか?」
親身になって尋ねている事が窺えたのか、やがて緊張が解けたように女の子は項垂れた。
「その、町を歩いていたら、突然フラフラと気分が悪くなってしまって、このような有様に……」
「気分が悪い? 何か思い当たる事や持病は?」
「持病は……ないです。思い、当たる事は……あうう」
「辛いんだね。水は飲める?」
優兎は先ほど汲んできた水入りの瓶を差し出した。女の子はチラリと優兎の背後で大人しくしているオオカミを見やる。
両手で恐る恐る瓶を受け取ると、女の子は少しずつ水を飲み始めた。
(とりあえず、会話が成り立つくらいには体力があるみたいだ。よかった。後は応急処置の方法だけど――状況からして、多分原因はこれとあれだ)
優兎は厚手のローブと、それから頭上にて輝く太陽に視線をやり、その眩しさに目を細めた。
「僕が思うに、君は軽度の熱中症だ。仲冬とはいえ、こんな暑い日にこの格好はまずかったね。その水でハンカチか布を湿らせて体を冷やそう。ローブも早く脱いじゃった方がいいよ」
「ぬ、脱ぐ!?」女の子はバッ! と勢いよくローブごと自身を抱きしめた。
「う、うん。出来れば自分からそうして貰いたいんだけど……」優兎は思わずたじろいでしまった。
「ダメです!」
女の子は語気を強めて叫ぶ。
「この下、わ、わ、ワンピースなんですっ!」
「ワンピースううううう!?」
――って、大げさに驚いてしまったが、ワンピースって、あの?
そろりと女の子の足元を忍び見ると、ローブより丈のある、ピンク色のスカートが見られた。ギリギリ踏んづけないかぐらいに長い。細い足の形が分かるようにたゆんでいるのだが、特に透けている素材でもなさげだ。
「脱いじゃった方が涼しくてラクになると思うんだけど……。あ、ひょっとして男の僕がいるから脱ぎづらいとか? 背中を向けていればいい?」
「すみません、違うんです、でもすみません。腕が出てしまっているもので、脱ぐのはどうしても、あの、えっと、何と言ったらいいのでしょうか……」
拒む理由がちょっと理解出来ないのだが、とても嫌がっている様子。
本人の意志よりも人命を優先すべき場面なのは承知している。だがそこに余計な気遣いを挟んでしまうところが優兎の甘さであり、子供であるが故の若さであった。優兎は悩んだあげく、花屋に一旦戻ってローブの代わりに纏えるものがないか探しに行く事に決めた。
(僕の世界のワンピースとこの世界のワンピースじゃ、認識に齟齬があるんだろうか? いやあでも、『ワンピース』って翻訳されてるしなあ)
走りながら考え込むうち、何だかワンピースというものが下着に相当するものに思えて来て、優兎はブンブンと邪念をかき消すように頭を振った。




