濃紺の宙に、溶けてゆく
東京を離れてから二度目の冬を迎える。
長野の山奥、とある老舗の旅館。来た時から変わらず空気はいつも新鮮で、夏は涼しく爽やかな風を全身に浴び、冬は凍てつく寒さを体の芯まで味わう事が出来る。季節と共に野生の息吹が巡り、澄んだ夜空には月と星が美しく舞う。
雄大な自然の中で営む生活に身を置いてから、一年と少しが経過しようとしている。
それでも。
この胸に空いた穴は、一向に塞がらない。
時刻は深夜二時を回った頃。山頂近くとあって気温は氷点下十五度。
食事の仕込みを済ませ一日の仕事を終えた私は、厚手の防寒着に袖を通し玄関の戸を開いた。
『生』を感じさせぬ無音の世界は真っ白に塗り尽くされ、足を踏み出す度に新雪の押し潰されるギュッという音だけが心地よく鼓膜を震わせる。
月明りを頼りに降り積もった雪塊から緩やかな斜面を見つけ、ゆっくりと純白の絨毯に腰掛ける。少しばかり沈み込み、丁度良い収まりに安定した。
吐いた息が闇へと薄れゆくのを眺め、手を擦り身体を縮込ませる。
灯り一つない暗闇の観客席から見上げれば、地球を覆う美しい神秘の幕が瞳を奪う。
宙は視界全てを覆い、彼方まで広がる。埋め尽くす星々は光を溢し絶えず瞬いている。
音は無くとも煌めきは聴覚に届き、眩しさは身体を貫いていく。
東京では見られない、満天の星空だ。
この空を見ている時だけ、私はあなたを感じられる。
『花にはそれぞれ、花言葉ってあるだろう?』
私の頭の中で何百と再生された、あなたの声が聞こえる。
『同様に、宝石もそれぞれ意味を持っているんだ』
『そしてそれは――』
「……星もそうなんだ」
あなたはそう言って、星を指さした。
何も知らない私は、ただその先を目で追うだけだった。
あなたは星座の知識を語り、私をその景色の虜にさせた。
でも半分くらいはあなたを見つめていたから、話半分であまり記憶に残っていなかったのは内緒だ。
今では私が旅館を利用するお客さん達に星空の案内をする立場なのだから、人生何があるか分からないものだ。
……本当に。
あなたを事故で失ってから、私はろくに仕事も手が付かず辞めてしまった。
それから精神科にしばらく掛かり、ふらりとあなたとの思い出の場所を巡った。
やはり私は、宙を見上げ夢を語るあなたの姿が好きだったのだろう。気が付けば私はこの場所に立ち、涙を流していたのだった。
それから色々あって、星空が綺麗に見えると有名なこの旅館で私も働く事となった。
あなたとの思い出の場所で。
そして時折、誰もいなくなった時間にこうして宙を眺めるのだ。
あなたの愛した、そして私の大好きなこの景色を。
『あれが北極星だ。地球にとって、すべての中心。つまりは俺みたいな星だ』
自分で言ってて恥ずかしくなったのか、あなたは苦笑いを浮かべる。
私は肘で小突きながら、「じゃあ、私はどれ?」と尋ねる。
『ひときわ美しい…いや、織姫の…んー…』
彼はしばらく考えあぐねた後、
『こぐま座の"コカブ"かな。僕の近くにいるからね』
そう言って笑った。
静かに、静かに、時が流れた。
目を開ければ、あなたが見える。
私はあなたに向かって手を伸ばす。
闇に咲いた白い手は、やがて胸へと戻る。
「――ねぇ、"北極星"」
私は今、よく晴れた夜空にあなたを見ている。
あなたの優しさは光となって私に届いている。
私の言葉あなたに届いただろうか。
返事をするかのように、星が瞬き一欠片の輝きが尾を引いて流れた。
その軌跡を、私は目で追い掛ける。
やがて景色はぼやけ、頬を熱い何かが伝い落ちた。
「……会いたいよ」
一人で泣く夜は、あなたが傍にいる。
胸の内で淡く焦げる想いが、濃紺の宙に溶けていった。
今日も宿は賑わっている。
夜になり、澄んだ空を指さして、私は人々に紹介する。
ひときわ輝く自慢のあなたを。
「泣かないで。さぁ、立って」