クラゲ日和
「越智、今からちょっと付き合って欲しいところがあるんだけど、いいかな?」
教室に入ってきた吉良柊司は出入り口に立ちふさがると、俺を呼び止めた。
ホームルームが終わると同時にカバンを手にして教室から出て行こうとした俺は、突然の足止めに思いっきり顔をしかめて見せた。
「よくない」
簡潔に断ると、吉良を避けて廊下へ出ようとした。
「夏休みの宿題を手伝って欲しいんだ」
俺の返事を無視してさっと足で出入り口を塞ぐと、吉良は用件を捲くし立てた。
「昨日で夏休みは終わっただろうが」
さきほど、二学期の始業式が蒸し暑い体育館内で行われたばかりだ。
「夏休みは終わっても、宿題は終わってないんだよ」
「俺より成績良いんだから、自力で頑張ってくれ。健闘を祈る」
常に成績は学年上位である吉良が宿題を終わらせていないというのは、意外だった。確か、課題のほとんどは俺の方が丸写しさせてもらったので、全部済ませているとばかり思っていたのだが。
「オレの宿題じゃないよ」
吉良は苦笑いを浮かべた。
「悟の自由研究がまだできてなかったんだ。昨日の夜になって、悟が泣きついてきて、明日までになんとかして欲しいって言うんだ」
「小学校だって今日から二学期だろ」
悟は小学三年生になる吉良の弟だ。
「今日は持ってくるのを忘れたって誤魔化すつもりらしい。で、一日時間稼ぎができたところで、明日には提出できるように今から自由研究に取り組まなければいけないんだけど、越智も一緒に手伝ってくれないかな」
「なんで俺が」
「夏休みの課題、全部写させてあげたじゃないか」
ここぞとばかりに吉良は恩を売ろうとする。
「小学生の自由研究だから、今日一晩頑張ればすぐできあがる程度のものにする予定なんだけどさ。やっぱり人海戦術でいかないとできない部分もあって」
「今夜は、明日の実力テストの勉強を一夜漬けでする予定だ」
さらなる俺の抵抗を吉良は無視した。
「テスト対策の勉強をせずにテストを受けたら、自分の実力を正確に把握できるじゃないか」
吉良は一切こちらの都合を考慮するつもりはないらしい。
「とにかく、時間が惜しいから早く悟の宿題に取りかかりたいんだ。それに、早く自由研究が出来上がったら、その分明日の実力テストの勉強に時間が回せるじゃないか」
「まぁ、そう……か?」
吉良の口ぶりから、到底時間が余るとは考えられなかったが、そこまで言われれば借りがある俺は渋々頷くしなかった。
「クラゲの生態を研究することに決めました」
あちらこちらのページにふせんが貼られた図鑑や参考書をダイニングテーブルの上に置き、悟は宣言した。
高校生である俺に対して物怖じすることなく説明する悟は、小学三年生にしてはしっかりし過ぎている。縁のない眼鏡をかけ、常に真面目な態度を崩さない悟は、典型的な学級委員長タイプだ。
さぞかし学校では教師受けが良く、同級生からは一部を除いて煙たがられていることだろう、と俺は悟と話をするたびに思う。
「それで、今からクラゲの写真を撮りに行きたいと思います」
「どこに?」
「小濱海岸です」
無理矢理吉良家へ連れてこられた俺は、途中のコンビニで買った冷麺を食べながら、悟の説明を聞いていた。
「今、小濱海岸ではミズクラゲが大量に発生してるらしいから」
昼食代わりにアイスを食べながら、吉良が付け加える。奴は、暑いとあまり食欲が出ないんだよね、と言いつつ、二個目のアイスに手を付けている。
「まずは海の中のミズクラゲを撮影して、それから観察用に何匹かミズクラゲを捕まえて、持って帰ろうかと考えてるんだ。水槽に入れた方がクラゲの全身写真が撮れるだろうし」
「捕まえるって、もしクラゲに刺されたらどうするんだよ」
小濱海岸では、盆を過ぎた頃からクラゲに刺される事故が頻発している。クラゲが泳いでいる海に自ら進んで入るなんで、愚の骨頂だ。
「海に入るときは長靴をはきます。それに、捕まえるときは軍手をはいてヒシャクですくいますから、刺される心配はまずないと思います」
「悟、君は早くお弁当を食べなさい」
悟が図鑑を開いて俺に見せようとしたので、吉良は麦茶を注いだグラスを弟の前に置きながら注意する。
「越智さん、クラゲの飼い方って知ってますか?」
悟は兄の声など聞こえていないような顔をして、俺に尋ねた。
「知らん」
麺をずるずると音を立てて食べながら、短く答える。
「それより、クラゲ捕りに行くんなら、さっさと弁当食べてしまえよ。お前が食べ終わらないと、いつまでたっても出掛けられないだろうが」
空になったグラスを吉良の方に押し出し、麦茶のお代わりを要求しながら俺は悟を睨む。
「わかりました」
素直に頷くと、悟はすぐさま椅子に座り、兄が電子レンジで温めた弁当を食べ始めた。
相変わらず変な兄弟、と内心首を傾げずにはいられなかった。
俺が知る限り、悟は常に兄を無視している。何か話し掛けられても答えず、けれど兄が用意した弁当を食べ、麦茶を飲む。まるで、家の中に透明人間が存在しているように振る舞う。
仲が悪いというわけではないらしい。悟が吉良に反発しているところは、まだ見たことはない。
八つ年齢が離れたこの兄弟の関係は、他人である俺から見れば奇妙だ。
普段、この二人が会話らしい言葉を交わしているのか、まったく知らない。吉良に訊いたことはないし、そこまでこの兄弟に興味があるわけでもない。
吉良は悟が昨日になって宿題ができていないと泣きついていたと言っていたが、それも実のところ、悟が直接兄に頼んだわけではないはずだ。多分、父親か母親に宿題ができていないことを告白し、吉良は共働きの両親に代わって宿題を手伝うことになったに違いない。
ただ、自分を兄弟の会話の仲介役にするのだけはやめて欲しい、と切実に思うことはある。
冷麺の汁を最後まで飲み干すと、俺は新しく吉良が注いでくれた麦茶も一気に飲み干した。
「で、なんでクラゲなんだ?」
食事中の悟には尋ねず、俺は吉良に問いかけた。
「クラゲって、小学生の自由研究としてはちょっと珍しいだろうし、面白そうだから」
アイスを食べ終わったところで熱いインスタントコーヒーを飲みながら、吉良は涼しい顔で答える。
ダイニングキッチンには冷房は付いておらず、扇風機だけが音を立てて回っていた。
「本当は色んなクラゲについて調べてみて、比較できたら一番良かったんだけど。エチゼンクラゲを実際に見てみたりとか」
「半日では、まず無理だろ」
夏休みの自由研究を夏休みが終わってから取りかかるという現状では、いくら高校生二人が手伝ったとしても限界がある。
「昨夜は近所にクラゲが生息している海岸がないかどうか、ネットでかなり調べたんだ。結局、小濱海岸でミズクラゲが繁殖してるってことくらいしかわからなかったけど」
「一種類で充分だろ」
さきほど悟が持ってきた図鑑や参考書に貼られたふせんの数を見る限り、一晩で調べたとはいえかなり時間をかけたらしく、資料の量が半端でなく多い。
「たかが夏休みの宿題なんだし」
「そうかな」
『たかが』と小学生の自由研究を軽んじられたことが気に入らなかったのか、吉良はわずかに表情を曇らせた。何に対しても常に万全の体制で臨み、手抜きは一切したがらない吉良らしい。
付き合わされる身としては、完璧主義ほど厄介なものはないのだが。
なんとなく俺にも、悟が夏休みの最終日の夜になって、自由研究ができていないと言い出した理由がわかった気がした。
吉良が今日半日かけて取り組む程度で、小学生の自由研究としては充分なレベルのものが出来上がるに違いない。
午後二時を過ぎて、俺たちは小濱海岸にたどり着いた。
砂浜はきつい陽射しを十二分に浴びて熱くなっている。
立っているだけで、全身から汗が滝のように次々と流れ落ちていく。
「暑い」
ぼそりと俺は不機嫌に呟いた。
人影がほとんどない海岸は静かで、寄せては返す波音だけが寂しく響いている。
頭に巻いたタオル越しに、じわじわと太陽が照り付けているのを感じ、それだけで体力が消耗される。
「悟、ちゃんと帽子かぶってろよ。熱中症になるぞ」
かぶり慣れない麦わら帽子を心地悪そうに何度もかぶり直す悟に対して、俺は繰り返し注意する。
吉良も全く似合っていない麦わら帽子をかぶっているが、こちらは気にする様子はない。
Tシャツにジーパン、黒の長靴という格好は、いくら人気がないとはいえ海水浴場ではかなり浮いている。しかも、軍手を履いた手にはバケツとヒシャクを持っているのだから、傍から見れば異様だ。
「おい、どうだ? クラゲいるか?」
真っ先にバケツとヒシャクを手にして海の中に入っていった吉良の後を追って、俺は尋ねた。
俺自身は手ぶらだ。
どちらかといえば、吉良がクラゲ捕りに熱中している間、悟が溺れたりしないように見ているために付いてきたようなものだ。
「いる。かなり」
デジタルカメラを構えた吉良の視線は、海中で漂うクラゲに固定されている。
その真剣な眼差しと、多少上擦った声に、俺は吉良の意識がクラゲに集中していることを悟った。
「あ、そ。じゃ、頑張れ」
多分相手には聞こえていないだろうが、いちおう激励の言葉をかけておくことにした。
結局、弟の自由研究にかこつけて、自分がクラゲ捕りをしたかっただけなのではないか。
「悟、お前も自分でクラゲを捕ってみたらどうだ?」
まだ海の中には入らず、波打ち際に突っ立っている悟に俺は声をかける。
「海の中の方がまだ涼しいぞ」
海水に混ざって、時折クラゲや海草が長靴に絡みついてくる感触は微妙だが、冷たく気持ちいいことに代わりはない。
「はい。……今、行きます」
返事はするものの、悟は立ちすくんでしまい、一歩も動かない。
しばらく俺はそのまま様子を見ていたが、よくよく見れば悟は完全に硬直していた。
「悟?」
砂浜まで上がって悟の額を指で軽く突いて呼びかけると、ようやく悟ははっと顔を上げた。
「気分悪いなら、日陰で座ってろよ」
俺が防砂林として植えられている松林を顎で示すと、慌てて悟は勢い良く首を横に振る。
「大丈夫です。ちょっと太陽が眩しくてぼんやりしただけですから」
「そうか?」
ぼんやり突っ立っているうちに意識が途切れてしまうようになると困るのだが、と思いつつ、俺は悟の顔を覗き込んだ。
顔色はそう悪くない。あまり過剰に心配する必要はなさそうだ、と判断する。
悟が海を苦手としていることは、吉良から聞いているので知っている。
数年前、悟の目の前で吉良が溺れたことがあり、それが悟のトラウマとなって海を怖がるようになったらしい。
吉良自身は溺れた後も特に海を恐れる様子はない。
「越智さん」
ヒシャクとバケツを持ったまま一歩も動けない悟は、真面目な表情で尋ねた。
「クラゲって、海で死んだ人のタマシイだっていうのは、本当ですか?」
「……は?」
思わず俺は素っ頓狂な声を上げ、困惑した表情を浮かべた。
真剣な顔で俺を見上げる悟は、珍しく目が潤んでいる。
「そういう話は聞いたことはないな」
その手の迷信や怪談には全く興味がないんだ、と続けようとして、俺は口をつぐんだ。
「お盆を過ぎて海にいるクラゲは、海で死んだ人のタマシイで、お盆過ぎて海に入るとクラゲになった海で死んだ人のタマシイに連れて行かれるから、お盆の後は海には入っちゃいけないんじゃないんですか?」
まるで胡散臭い都市伝説だ。
が、悟は半ば本気で信じているらしい。
「クラゲは海で死んだ人のタマシイなんだから、絶対に捕っちゃいけないんじゃないんですか?」
誰だ、そんな非科学的なことを悟に教えたのは、と思わず心の中で盛大に文句を垂れた。
「クラゲが海で死んだ人のタマシイかどうかは知らないな」
いくら賢いとは言っても、相手は小学生だ。こういう時は科学的根拠を示して説明しても、納得は得られないだろう。そこそこ穏便な言い回しで誤魔化しておく必要を感じ、俺は曖昧かつ婉曲な言葉を選んでみる。
「大半のクラゲは、人間のタマシイなんかじゃなくて普通のクラゲだから、心配するな。ついでに、今あいつが捕まえようとしてるクラゲもただのクラゲだから大丈夫だ」
「越智さんは、フツウのクラゲと海で死んだ人のタマシイがクラゲになったものの違いがわかるんですか?」
自分が信じていることを俺が全く信じていないことを察したのか、不服そうに悟が問い返してきた。
「見分けなんかつくもんか」
これまで自分の目で実際にクラゲを見たことだってなかったのだ。
「俺には、クラゲは全部同じクラゲにしか見えない」
悟くらいの年齢の頃、自分は怪談や非科学的な話を信じていただろうか、と考えてみたが、もう思い出せなかった。
「それに、お前はまだクラゲを見てないだろ? 自分の目で確かめもせずに、クラゲのことを海で死んだ人間のタマシイだなんて言うのは、おかしくないか?」
「でも、海に入ったらクラゲに連れて行かれるんです」
砂浜に足を踏ん張り、悟は上目遣いに言い募る。
「だって、あの人も一回、連れて行かれそうになったんですから」
『あの人』と他人行儀で自分の兄を指し、悟は泣きそうな表情を浮かべた。
「クラゲのせいじゃないだろ」
俺が否定すると、悟は大きく首を横に振った。
兄が海で溺れたこととクラゲが、悟の中では関連付けられているらしい。
すっかり意固地になって、悟は一歩も海に入ろうとしない。
やれやれ、と俺は溜め息を吐いた。
このまま炎天下で突っ立っていても、無駄に汗が流れるばかりだ。
仕方がないので、松の木陰まで悟を無理矢理連れて行き、根元に座らせた。
すっかり解体された海の家の横にぽつんと残された自動販売機でスポーツ飲料を二本買うと、一本を悟に渡す。
蝉の大合唱と波の音が響く景色を見ていると、まだ夏休みは終わっていないような錯覚を覚える。
一人でクラゲ捕りに熱中している吉良を遠目に眺めながら、俺は悟と二人で小一時間ばかり無言のまま過ごす羽目になった。
砂浜に上がってきた吉良が手に提げたバケツには、大量のクラゲが入っていた。
バケツいっぱいに半透明のクラゲがぐにゃりと詰め込まれている様子は、かなりグロテスクだ。
「そんなに捕ってどうするんだ。水槽に入らないだろうが」
「あぁ、そういえばそうだね」
「一匹か二匹で充分だろ」
俺は吉良からクラゲだらけのバケツとヒシャクを奪うと、悟が持っていたバケツに二匹だけクラゲを移した。
「残りは海に放すからな」
一応は断りを入れたものの吉良の返答は待たずに、ずっしりと重いバケツを持って海に入り、勢いよくバケツを逆さまにして吉良に捕まえられたクラゲを放してやった。
「頑張って捕ったのに」
空になったバケツを差し出すと、吉良が残念そうにぼやいた。
「限度ってもんがあるだろうが」
一時間も陽射しに焼かれながら、海の中でクラゲの写真を撮ったり捕まえたりしていた吉良は、すっかり肌が赤く日焼けしていた。
「それに、時間もないだろ」
「そういえば、そうだったね」
明日の朝までに仕上げなければならないことを、吉良はすっかり忘れていたらしい。
「それじゃ、急いで帰ろうか」
吉良が悟に声を掛けると、悟は無言でクラゲが入ったバケツを手に持った。
捕まえたクラゲ二匹は、吉良家の水槽に海水と共に入れられた。
「本当はクラゲ専用の水槽やエアーポンプがあるらしいんだけど、取り敢えずは淡水魚用で我慢してもらおうか」
水槽の中でじっと浮かんでいるクラゲは、棲み慣れた海から連れ出されたためか、いささか緊張しているように見える。
「早く写真撮れよ」
吉良が海で撮ったクラゲの写真をデジカメからパソコンに取り込み、光沢紙に印刷しながら、俺は急かした。
「のんびりクラゲを鑑賞するな」
真っ白な模造紙が床に広げられている。
これを明日の朝までに文字と絵と写真で埋め尽くさなければならないのだ。
「悟もさっさと下書きを始めろよ」
二人を睨むと、慌てて吉良はデジタルカメラを構え、悟は図鑑を手に取る。
「越智くん。悟くんの宿題、手伝いに来てくれて本当にありがとうね」
夜の六時を過ぎたところで帰宅した吉良兄弟の母親が、切り分けたスイカを部屋まで運んできた。
「すぐにお夕食準備しますから、スイカ食べて待って下さいね」
「いえ、お構いなく」
空腹ではあったので、有り難くスイカにはすぐ手を伸ばしつつ、俺は答えた。
小学生の息子の宿題を、高校生の兄とその友人に任せることに何ら疑問を抱いていないらしい母親は、よろしくお願いしますね、という言葉を残して部屋から出ていく。
やはり吉良家の家族の思考は謎だ。
その後は、ひたすら作業をした。
途中で、夕食として用意してくれた仕出しの寿司を食べたり、アイスや飲み物の差し入れがあったりしつつ、作業はなんとか順調に進んだ。
結局、自由研究が完成したのは午前二時を過ぎた頃だった。
「……できた」
マジックで書かれた文字と絵と写真がぎっしり埋まった模造紙を前に、俺はしみじみと呟いた。
既に悟は床に寝転がって寝息を立てて眠っている。
「大変お世話になりました」
半分寝ぼけ眼で吉良が深々と頭を下げる。
「あー、もう、明日の実力テストは実力以下に違いない……」
眠気に襲われつつ、俺はぼやいた。
すっかり疲労困憊で、明日のテスト中にまともに起きていられる気がしないのだ。目は開いていたとしても、頭は働いていないに違いない。
「こうなったら、サボるのも手だな」
「それはちょっとどうかな」
吉良は苦笑いを浮かべて、床に散らばったマジックやハサミを片づけ始めた。
吉良のことだから、寝不足だろうがなんだろうが、普段の実力ていどは出せる自信があるのだろう。
そんな吉良の頭脳を羨ましがる暇もなく、床に寝転がった俺は、すぐに意識を手放した。
「越智さん! 大変です!」
爆睡していた俺は、耳元で響く緊迫した声で目を覚ました。
うっすらと瞼を開けると、見慣れない天井が目に映ったが、すぐにここが吉良の家であることを思い出す。
「……何?」
床に直接寝転がっていたせいで節々が痛む身体を起こすと、俺は悟が泣きそうな表情を浮かべていることに気づいた。
「クラゲが、死にそうなんです」
悟が指した水槽には、昨夜は海水中でゆらゆらと浮かんでいたクラゲが、底に沈んでぐったりしている。
「この水槽、クラゲを飼う環境になってないから」
悟の声で目を覚ました吉良がゆっくりとした動作で起き上がると、水槽に目をやり淡々とした口調で呟く。
「死んだのか?」
水槽に近寄った俺は、机の上に置いてあった定規を手に取り水槽の底に沈んでいる二匹のクラゲをつついてみる。
刺激に反応したクラゲの一匹が、ゆらりと浮き上がった。
「まだ生きてるみたいだね」
吉良が言うと、悟はほっと表情をゆるめる。
「今のうちに海に帰してやったら、このクラゲも元気になるんじゃないか?」
このままだと間違いなく今日明日中にクラゲが死ぬことは俺でもわかるくらいにクラゲは弱っていた。
「じゃあ、今から」
すぐさま悟は、海までクラゲを運ぶためのバケツを取りに行こうとした。
「悟、もう七時だよ。君は朝ご飯を食べて、学校に行きなさい。せっかく頑張ってやった宿題だって、提出しなきゃいけないんだから」
時計を見た吉良が、弟を止める。
「でも!」
珍しく兄に向かって悟は反論した。ぱっと振り返って兄の顔を見た悟は、すぐさま助けを求めるように俺の方を向いた。
「じゃあ、俺ら二人で今からクラゲを海に帰してくるから、悟は宿題持って学校に行け」
どのみち、今日はもう実力テストを受けに学校へ行く気は失せていた。家へ真っ直ぐ帰って寝直すよりは、瀕死のクラゲを海に放しに行く方が、有意義な過ごし方かもしれない。
実力テストは、諦めることにした。
まだ午前八時を回っていないというのに、気温は三十度を超えていた。
朝からクラゲが入ったバケツを下げて電車に乗るのは格好悪かったが、通勤通学ラッシュが終わるまで待っていると、本当にクラゲが死んでしまうかもしれないからと、すぐさま吉良家を出ることにした。
電車の中では乗客たちから大きな水色のバケツをじろじろと見られた。
制服姿の吉良と俺がふたりで「クラゲが」「クラゲが」と喋り続けていたので、危険物とは見なされなかったようだが、実のところクラゲがまったく無害というものでもない。いまは人を襲う元気がないというだけだ。
水槽からバケツに移したクラゲは、電車に揺られ始めても、相変わらずぐったりと底に沈んだままだった。
「クラゲを飼うのはむずかしいっては聞いていたけど、本当だったみたいだね」
すっかり弱ってしまったクラゲを見て、残念そうに吉良が呟く。
「何がいけなかったのかな?」
名残惜しげにじっとクラゲを眺めては尋ねてくるが、クラゲなんて昨日までまったく興味もなかった俺に訊かれても困る。
友人がこの半透明の海洋生物の何をそれほど気に入っているのか、俺には全く理解できなかった。
「全部だろ」
端的に答えると、吉良は肩を落とした。
「狭い水槽も、澱んだ海水も、全部駄目だったってことだろ。それに、餌だってやってないし」
「餌? そういえば、クラゲたちに餌をやってなかったな。何を食べるのかまだ調べてなくて、餌は用意できてなかったし」
「せめて餌くらいは与えろよ」
生き物なんだし、と俺が注意すると、吉良は軽く首をすくめた。
「クラゲを飼ってみたら、悟のクラゲ嫌いも直るかと思ったんだけど。悟って、オレがクラゲに刺されて海で溺れたものだから、クラゲと海が物凄く苦手みたいなんだ」
「クラゲのせいで海で溺れたのか?」
吉良が海で溺れかけた話を本人から聞くのは久しぶりだったが、クラゲが原因だという話は初めて耳にする。
「ちょうどお盆が終わったばかりの頃で、かなりの数のクラゲが波打ち際までいたんだ。でも、クラゲに刺されるのは蚊に刺されるようなものだろうって甘い考えで泳いで、クラゲに刺されて、しかも同時に足がつって、それで溺れたんだ。あの頃は、今と比べてちょっと慎重さが足りなかったものだから」
「お前が溺れたのはただの自業自得じゃないか。クラゲのせいにするな。クラゲが迷惑してるぞ」
悟も可哀想に、と俺は同情した。
無鉄砲な兄のせいで海とクラゲがトラウマになってしまったとは。
「だから、今年の夏休みのオレの密かな目標は、悟の海嫌いを直すっていうのだったんだけど」
「全く達成はできなかったようだな」
昨日の悟の態度を見る限り、まだしばらくはあいつの海に対する苦手意識は克服されそうにはない。
「まぁ、地道に頑張れ」
努力や根性でどうにかなる問題ではないので、応援だけすることにした。
「実は、オレも一度海で溺れて以来、海は苦手なんだけどね」
「……?」
意外な吉良の一言に、目を丸くする。
「昨日は、自分から進んで海に入っていってたじゃないか」
「あれは、悟が見てるから、かなり必死に頑張ってみたんだ」
「そんな風には見えなかったぞ?」
「あまり感情が顔に出ないタイプだから」
平然とした顔で吉良はほざく。
「まぁ、そういうわけだから、このクラゲを海に放すのは、越智がやってくれるとありがたいんだけど」
「――もしかして、昨日俺が海まで付き合わされたのは」
単に、兄弟仲だけが問題ではなかったことに、俺はようやく気づいた。
「オレがクラゲを捕るために海に入れなかったら、越智に捕ってもらおうと思ってたんだ。なんとか頑張れたから、頼むのはやめたんだけど」
「だったら、クラゲなんて自由研究の課題にするなよ」
なんでこの友人はこうも自虐的な行動に走るのだろうか、と呆れ返った。
「クラゲの生態を詳しく調べたらクラゲが苦手じゃなくなるかも、と思ったりもしたから」
「そんな簡単なわけないだろうが」
変なところで吉良は単純過ぎる。
仕方なく俺はクラゲが入ったバケツを吉良から受け取った。
電車が軽く横に揺れる。
慌てて俺は手すりを強く掴んだが、バケツも揺れて、中の海水がぱしゃんと軽い水音を立てた。
海水がこぼれたのか、と焦ってバケツに目をやる。
振動に刺激を受けたのか、底に沈んでいたクラゲがゆらりと浮かんできたように見えた。
まだなんとか生きてはいるようだ。
海に帰せば、また人を刺す元気が戻ってくるかもしれない。
「ま、次にクラゲを捕るときまでには、専用の水槽を用意しておくことだな。クラゲ捕りくらいなら、またいつでも付き合ってやるから、さ」
来年の今頃、この兄弟が海を苦手にしているかどうかはわからないが、どうせまた自由研究に付き合わされていることだろう。
来年は、夏休みに入る前から悟に自由研究の計画を立てさせて、もっと壮大な研究をさせるのも面白いかもしれない。
「たかがクラゲを飼うにしては、水槽がまたなかなかいい値段するんだよな」
半透明のミズクラゲから目を逸らしつつ、吉良はぼやく。
「値段の問題か」
「そう、金がない」
「じゃあ、来年はメダカにしろ」
「メダカは川の魚だよ」
次第に話題がクラゲから逸れ始める。
ぽちゃん、とバケツの中で水音が響いた。
車窓から差し込む陽射しが水面に反射し、バケツの中のクラゲは水に溶けてしまったように、小さく水飛沫だけが上がった。