いじめっ子にフルスイングを
俺は木製バットのグリップを力強く握る。
視線の先には勝利を確信している、にやけ面のいじめっ子。
あの、人を見下した顔を泣き顔にしたい、それだけの為にこの二年耐え忍んでいた。
当時のことを思い出しただけで、怒りと屈辱で体が震える。だが、今日のこの震えは武者震いだ。
「この一撃で全てを終わらせる」
憎しみを込めた目で相手を睨みつけ、俺は渾身のスイングで相手の――。
今でも悪夢を見るぐらい、中学一年での経験は俺のトラウマとなった。
きっかけは些細なことだった。クラスで一番の人気者、黒林君の機嫌を損ねた、ただそれだけだ。
彼の母親は日本人なら誰でも知っている名女優で、ドラマからバラエティーまで引っ張りだこ。一週間のうちテレビで姿を見ないのは三日あるかないかぐらいだろう。
そして父親は日本で五本の指に入る大企業の社長。うちにもそこの商品が幾つもある。
そんな両親に何不自由なく育てられた彼は、子役としてテレビデビューも果たし、多くのファンがいるイケメンだ。
中学にはファンクラブも存在している漫画のようなキャラ。文武両道がモットーらしく、優秀な家庭教師がついているので成績も学年トップ、スポーツ万能。非の打ち所がないというのは彼のことを言うのだろう。
――精神面を除けば。
周りにちやほやされ苦労を知らず才能もある黒林君……いや、君なんて敬称はいらないな。黒林は性格が最悪だった。
少々悪いことをしても親がもみ消すだけの権力があるので、学校ではやりたい放題。父親はかなり高額の寄付もしているらしい。
自分のイメージを損なわないように、表面は取り繕っているが陰では弱者を嬉々としていじめるような奴だ。そんな黒林がクラスで目立たない子をいじめている現場を、トイレで目撃した俺は咄嗟に庇ってしまった。
「へえ、てめえ、俺に指図するんだ。どうなるか分かっているんだろうな」
あの冷たい、人を見下した目は一生忘れられないだろう。
その日以来、取り巻きと一緒に空き教室に連れ込まれ、殴る蹴るの暴力。物を隠されたり捨てられるなんて日常茶飯事。
当初は人の目を気にしていたのだが、教師が見て見ぬふりをしていることを知ると、いじめはエスカレートしていった。クラスメイトも誰一人として助けに入ることもなく、半年もの間、俺は中学生が思いつきそうな、ありとあらゆる限りのいじめを受けた。
限界に達した俺は担任に相談するのは無駄だと分かっていたので、校長に相談するが「これを公にしたら、キミがどうなるかわからないよ?」と逆に脅される始末。
両親に心配をかけたくなかったが行き詰まり、父と母に相談をした。
二人とも激怒すると、その日のうちに黒林の家に連絡をして話し合いをすることとなった。俺は会いたくないだろうからと、両親だけが昼過ぎに黒林の家に向かう。
これでようやくいじめの日々から解放されると、安堵して両親を待ち続けていたのだが、帰ってきたのは深夜だった。
疲れ切った表情をしていた両親は「どうだった?」と尋ねる俺に目を逸らしたまま「転校することになった」と呟く。
その言葉を聞いたとき、喜びのあまり踊りだしそうだった。あいつが転校するのだと。
だが、続けて両親の口から零れた言葉は予想外すぎて理解することができず、間抜けな面を晒すしかできなかった。
「私たちが引っ越しすることになった」
――権力に両親が屈したのだ。
俺が密かに証拠として集めていたスマホのデータやパソコンは没収。部屋も家探しされて、いじめの証拠となるものは全て破棄された。
その日以来、俺は二人を親と思ったことはない。正直あまり裕福とは言えない家庭だったのに、引っ越し先は新築の家で最新型の電化製品が揃っていた。
両親は他の家庭と比べて厳しい躾をする人たちだったが、引っ越ししてからは俺に対して甘くなり、子供の機嫌をうかがうようになり小遣いも大幅にアップ。
子供だとはいえ、それが何を意味するのか理解できた。
自分の味方はいないのだと、悟ったのだ。
遠く離れた新しい学校での生活は悪くなかった。友人にも恵まれ、いじめをするような奴もいない平穏な日々。
その場の空気に流され、身も心も一新して学生生活をエンジョイすればいい。何度も自分にそう言い聞かせていた。
だが、家に帰るたびに後ろめたさで俺を気遣う両親を目にすると、吐き気が込み上げ、怒りが再燃する。ダメだ。このままじゃ、ダメだと。
いっそのこと黒林を闇討ちにでもしようと考え、奴の様子を見に行ったことがある。
だが、俺にどれだけ酷いことをしていたのか理解している奴の両親が、既に対策を練っていたようで、奴の傍には常にボディーガードらしき人物が寄り添っていた。
黒林の両親は親バカだが僅かに良識はあった。だからこそ、謝罪のつもりで我が家に慰謝料……違うな口止め料を渡したのだろう。後に分かったことなのだが、父親の勤めている会社は黒林の父親の子会社らしい。
何故か、今までパッとしていなかった父が出世のレールに乗ったそうだ。よかったな。
両親は丸め込まれ、物理的な復讐もほぼ不可能。
手詰まりの俺はそれでも諦められず、自分の部屋で毎日、奴への復讐だけを考えて過ごしていた。
そんなある日、ゴールデンタイムの番組で黒林一家が取り上げられていたのだ。
三か月に一回のペースで放送する番組らしく、内容は息子である黒林が野球で甲子園に行くまでの道のりを追いかけるものだった。
「あいつ、そういや野球がうまかったな……」
父親の会社がプロ球団のオーナーなので、将来自分の息子を入団させるのが夢らしく、小学生の頃から専門の元プロ野球選手とトレーナーを雇い、英才教育をしているという話を聞いたことがある。
ひたすら黒林を担ぎ上げるだけの番組を観て、あることを思いついた。順風満帆な奴の人生に拭えない汚点を残してやろうと。
今日の放送で奴は益々人気者になるはずだ。
恵まれた身体と英才教育で、野球の腕はメキメキ上昇するだろう。中学一年の今でも高校野球で通用すると言われているピッチャーらしい。
中学最後の全国大会ともなると番組スタッフが揃い、ファンも大量に押し寄せてくるはず。
「恥をかかせてやる」
そんな状況で元いじめっ子である俺にホームランでも打たれた日には、どんな気持ちになるだろうか。
それを想像しただけで自分の肌が粟立つ。妄想するだけで心が満たされるのを感じたのだ。
しかし、この復讐劇には大きな問題が幾つもある。
まず、俺は野球がそんなにうまくない。運動神経も普通だ。ずっと野球を続けてきて才能もある奴に挑んだところで、三球三振する自分の姿しか見えない。
本当は高校で奴を打ち崩して甲子園の夢を粉砕するのが、最高の復讐になるだろう。しかし、それは不可能。
今からほとんどの時間を野球に費やしても、悔しいが奴には及ばない。自分を知っているからこそ、現実を認めないわけにはいかなかった。
漫画やアニメじゃないんだ。今まで何もしてこなかった凡人が、二、三年本気を出したところで超一流の選手になれるわけがない。
だから、俺は鍛える際にバッティング以外のすべてを捨てた。
守備や送球、走塁の練習は一切せず、日夜バットを振り打つことだけに集中したのだ。
素振りはもちろん、現代医学を取り込んだ最新の野球技術もできる範囲で学び、親から十二分に与えられていた小遣いは、トレーニング器具とバッティングセンター代に消える。
それだけでは不十分で、黒林の練習風景を自らビデオで撮影しに行き、テレビ放映時は録画して何度も観た。
多くを望んでは追いつけない。自分のバッティングを磨き、黒林だけを研究し続けた。それはもう執念と呼んでも差し支えないだろう。
奴の球を打つため。それだけを目標にして俺の二年は過ぎ去った。
運命の日が来た。
今のところ怖いぐらい、全てが予定通りに運んでいる。
奴と対戦するための小細工は完了した。
俺の予想ではテレビ局とあの両親なら、中学野球全国大会で黒林がどれだけ優れた選手なのかというのを、世の中に知らしめるために手を回すと踏んだ。
息子が目立つように、必ず弱い学校と初戦に当たるよう手を回してくるだろうと。
だから中学三年の春に俺が元々住んでいた場所の近くに引っ越し、最弱の野球部がある学校に転入することにした。
母親に相談すると運よく近くに親戚が住んでいたらしく、頼んでくれるということで、あっさりと了承する。
一年前にオヤジと金銭問題で争い、離婚して俺を引き取った母親は現在恋人がいるようで……ちょうど俺が邪魔だったのだろう。
新しい学校の野球部は部員の人数が足りずに、毎年、他のクラブの生徒や一般生徒を借りて大会に出場しているのも把握済み。
野球部のキャプテンとも仲良くなり、大会の日に参加させてもらう約束を取り付けておくのも忘れない。俺はライトで九番というポジションを得て、予定通り一回戦の相手となる。
球場には中学の野球大会予選とは思えないほどの客が押し寄せ、客席から黄色い声援が飛び交っている。見覚えのある顔が幾つもあるな、当時のクラスメイトたちか。
テレビクルーも来ている。好都合なことに黒林の両親も応援にやってきている。
おまけに今日はこの映像をウェブで生配信しているそうだ。格下の相手なので間違いなく圧勝できると思っているのだろう。
理想的な状況だ。俺は思わず笑みを浮かべそうになったが、感情を押し殺して試合前の挨拶をするためにグランドに出た。
帽子を目深にかぶり、誰にも見えないようにしている。俺の顔を覚えている人がいてもおかしくないからな。両親が離婚して母親の性になっているので、苗字でバレる可能性はないだろう。
こそっと、並んでいる相手選手の様子をうかがうが、こっちとは対照的に見事なまでに鍛え上げられた肉体ばかりだ。その中でも黒林がひと際目立っている。
あれから情報収集を続けた限りでは、既にいくつもの強豪校からお誘いがあるらしく、野球選手として将来を有望視されているそうだ。
それはあの自信に満ち溢れている顔を見れば一目瞭然。人を見下した目と態度も相変わらずで、安心したよ。
「よろしくお願いします!」
元気のいい挨拶と共に選手たちがグランドに散らばっていく。
こっちは後攻めなので、まずは守備だ。相手とこっちの実力差を見極めさせてもらおう。
ようやく、一回表の攻撃が終わった。
スリーアウトを取るまでに四点取られたが……どうにもおかしい。正直、小学生のチームと高校生のチームがやっているぐらいの実力差があるように見えた。だというのに、四点で収まるとは思えない。
それも、点を入れたのは黒林の満塁ホームランのみ。
……そうか。今日は完全に黒林の独り舞台なのだな。奴を引き立てるためだけに用意された試合だ。だから、相手チームはわざとアウトになったのか。
三者三振でこちらの攻撃が終わると、俺の考えを肯定するように、二回表の攻撃は八番、九番、一番があっさり凡退した。
なるほどね……ここの大会のルールは……ええと、何点差が開いていても最低でも三回まではやるのは確か。ただ、七点以上の差があると五回コールド、十五点差があると三回コールドもあり得るのか。
次に黒林がバッターボックスに入りホームランを打ったとしても最大で三点。三回コールドはあり得ないが、たぶん五回コールドになるだろう。
俺は九番なので三回に回ってくる打順が最初で最後のチャンスになりそうだな。
そんなことを計算している間に二回裏も終わり、三回表がやってきた。
前のバッターである七番、八番があっさり三振。球場は沸きに沸いている。一番から八番まで全員を三振で終わらせているのだ、そりゃ盛り上がるだろう。
観客席に向かって帽子を振る余裕まであるのか、黒林は。
確かに凄い野球選手だと思うよ。高校生になりもっと伸びるのだろうな。俺との差なんて広がり続ける一方だろう。
「よろしくお願いします」
頭を深々と下げ帽子を取って挨拶をする。その時に俺の顔がよく見えるように、正面から黒林を見つめた。
「お、お前」
にやけ面が驚きで引きつっている。
おー、覚えていてくれたのか、これは意外だ。俺のような小物なんて道端に転がる石ころ程度の認識だと思っていたよ。
俺は奴に見えるようにニヤリと口元を歪め、バットを大きくぐるりと回す。
それが挑発行為だと伝わってくれたようで、奴の顔に赤みが差した。
偶然に俺がいるとしか思っていないのだろうな。いじめていた時と同じ嫌な笑みを浮かべている。
黒林が大きく振りかぶり、俺に対して剛速球を投げつけた。
徐々に迫る白球。コースは……俺の顔付近かっ!
後ろに倒れるようにして、そのボールをなんとか避けると、観客席から悲鳴のような声が響いてきた。
「大丈夫ですか、すみません!」
こちらの身を心底心配する、善人っぽい表情を張り付けた黒林が慌てて駆け寄ってくる。
俺の手を取り立ち上がるのを手伝うと、置き上がる直前に耳元で、
「くれてやった金で贅沢できたか?」
と囁きやがった。もちろん、俺だけに聞こえるように声は抑えている。
「おかげさまでな」
平然と返したら、黒林が目を見開いて驚いていた。
まずは軽く一矢報いたかな。あの頃の俺なら、今の球にビビって嫌味の一つも返せなかっただろう。
「けっ、調子に乗るなよ」
子悪党っぽい捨て台詞を残して、マウンドへと帰っていく。
一度危険球を投げたことで、次にぶつけるような真似はしないだろう。体裁と自分の人気のことしか考えてないような奴だったからな。
そして、今は冷静さを失っている。黒林の性格なら剛速球を投げ込み、力で俺をねじ伏せようとするだろう……いや、必ずそうする。
ずっと奴の野球を観察して、ちょっとしたピッチングの癖も把握済み。この二年の研究成果と努力を、ここで全て吐き出してやるぞ!
左投げの奴が白いピッチャープレートの端に足を置いた。あの場合、対角線上に右打者の内側へ投げ込む率が八十パーセント以上。
振りかぶる際のグローブの角度で球種が分かる。やはり、ストレートだ。踏み込んだ足の膝の曲がり具合が深いので、狙いは低め。
球種、コース、全てが出そろった状態で、中学三年とは思えない剛速球が唸りを上げ迫りくる。
――何十、何百、何千、何万回、バットを振っただろう。
――親や自分の顔より奴のピッチングを観てきた。
確かに大した球だ。俺が一生かけても投げられないかもしれない一球。だけどな、バッティングセンターにはそれ以上の球速なんて、いくらでもあるんだよ!
この二年間の全てを、この足に、この腰に、この腕に、このバットに込めて最高のスイングを放つ!
渾身の一振り。
手垢が染みついた木製のバットは芯でボールを捉え、手のひらに伝わる剛速球の感触をねじ伏せ、そのまま振り切った。
打ち返された白球は黒林の顔面ギリギリを通りすぎ、そのままバックスクリーンへと飛び込んでいく。
観客席から響く悲鳴が、こちらのチームメイトの歓声を掻き消す。
球の落ちた先を見つめていた俺は、視線を硬くなった豆だらけの手のひらに落とす。
ああっ、俺の二年は無駄じゃなかった。無駄じゃなかったんだっ!
「う、嘘だろ」
ピッチャーマウンドに座り込み、背後を振り返って呆然としている奴を尻目に、バットとヘルメットを投げ捨て、ゆっくりとベースを一周する。
落ち着くんだ。まだだ、まだ終わりじゃない。むしろ、ここからだ。
三塁のベースを踏むと三塁側のベンチと、フェンスギリギリでこちらを映しているカメラと観客が目に入った。
俺の顔に気付いた元クラスメイトが数名いるようで、全員顔色が一瞬にして変わる。人は驚きすぎると、あんな顔になるんだな。
三塁ベースを超えたところで、俺は走る速度を落とし大きく息を吸い込んだ。
「僕は黒林君の元クラスメイトでいじめにあい、転校させられた者です! クラスメイトと担任……そして黒林、クソ親、ざまーみろ!」
拳を振り上げ、大声で言い放つ。
まさか俺がこんなことを言うとは思いもしなかったのだろう。誰もが呆気にとられている。
そのまま、一歩一歩、グランドの感触を確かめるように歩き、ホームベースを踏む。
静まり返っていた三塁側から、ざわめきが聞こえてきた。
「あいつって、一年の時にいじめられてた」
「私も知ってる。噂で聞いたことある」
「うそ、あの人……」
ネットで生放送中だ。この映像をなかったことにはできない。
注目を浴びている人間の極上のゴシップだ。後は勝手に話が広がり、もう誰にも鎮火できない炎となり燃え盛ることだろう。
この後、俺がどうなるかは分からない。
どうなったとしても、後悔は微塵もない。
ようやく過去と心の束縛から解放された。これからは自分の為に生きるぞ。
「復讐、完了だっ!」
爽やかな復讐劇を書けないかと考え、このような感じになりました。