一章その4
虹原学園には三つの文化棟がある。
どの文化棟も三階建てで、外観は淡い水色の横長長方形。第三校舎に近い方から順に、第一文化棟、第二文化棟、第三文化棟と横並びで建っている。
建物の大きさは同じだが、部室の広さや設備の充実度はまるで違う。
第一文化棟の文化部は、全国に『ニジハラ学園』名を轟かせているのもあって、最良の環境が与えられている。冷暖房完備の部室は、防音性に優れた造りに加え、教室二つ分の広さを持つ。
次に優遇されているのが、第二文化棟の文化部だ。部室の広さと設備は普段使っている教室と同じで、天井の端にはエアコンがあり、騒がしい時には話し声が外に漏れる。
第三文化棟の文化部においては、環境面での優遇は一切ない。
教室を薄い木板で二つに割った部室は、耳を澄まさなくても隣の部屋から声が聞こえてくる。室温は気温に近く、夏は暑くて冬は寒い。
そこで活動する部は四十八もあり、それぞれが好き放題にやっている。
綺麗な言い方をすれば『主体性のある学生たちによる、独創的な活動』になるが、人によっては『大迷惑な活動』でしかない。
少なくとも、シンにとってはそうなっている。
違っていれば、今のような状況にはならない。セーラー服姿の双子、『同性愛研究部』の〝男子部員〟に追われることもなかったはずだ。
――ぬおおおおぉ!!
「まってぇ! アタチの王子様ぁ!」
「ちょっとぉ! シンちゅわんはアタチの王子様でしょぉ!」
「王子様なんていねーです、いねーんで巣に帰って永眠しやがれです!!」
首だけで振り返って怒鳴るが、後ろの二人は止まる気配を見せなかった。
故にシンも、必死に脚を動かす。
行かないと決めていた第三文化棟の三階、その廊下を全力で駆け抜ける。
〝攻める〟の対義語は〝守る〟だと言いたくなる部、『攻受を実現する会』の部室から顔を出した女子に、
「あ、空野くん! 今日は沢下君と一緒じゃないの? てか、いつになったらツキアウの?」
と声を掛けられたが、全力で無視してひた走る。
――鳴海の助けを待つより、かくまってもらった方がよさげな感じだよな……!
今も二階の踊り場で行われているだろう、女子たちによる井戸端会議。
それに参加させられている彼女が、友人たちに断りを入れ、助けにきてくれるとは到底思えない。
――いい加減、脳内辞書に〝断る〟って言葉を加えろよな……!!
鳴海ミナの申し訳なさそうな顔を頭の中から消し、テンポよく階段を下りていく。彼女がいる反対側、南側の踊り場を抜けて二階の廊下を猛然と進む。
そうしてシンは、『探偵部』の部室へと飛び込んだ。
後ろ手に引き戸を閉め、コタツから立ち上がった少女に叫ぶ。
「服部ッ! 頼みがある!!」
「御意!」
そう言うと、忍び装束姿の女子はコタツ布団をめくり上げた。
「サンキュ!!」
部屋の中央に敷かれている畳の前で靴を脱ぎ、鞄を抱えたままコタツの中に滑り込む。この時ばかりは、自分の小ささに感謝せざるを得なかった。
直後、引き戸を開ける音が聞こえてきた。
荒く呼吸する追っ手が、無理に甲高くしているだろう声で問いかける。
「はぁ……、はぁ……。アタチの……、アタチの王子様は!?」
「だからぁ……、アタチの王子様だってばぁ!!」
「王子様? 誰のことを言っているのでござるか?」
『同性愛研究部』の双子は二年生で、『探偵部』の彼女は一年生だったが、臆することなく冷然と問い返していた。
「空野ちゅわんよ、空野シンちゅわん!」
「ここに入るのを見たわぁ! いるんでしょぉ!?」
「気のせいではござらんか? それはそうと先輩方、風の噂で聞いたのでござるが、殿方のアルトリコーダーを新しい物に交換し、それを自分の部屋に――」
彼女が話し終えるのよりも先に、引き戸が閉まる音が鳴った。あとに続いたのは、ドアの鍵を閉める音と彼女の明るい声だ。
「任務完了でござる!」
「ありがとな、マジで助かった」
畳の上で正座して軽く頭を下げると、彼女はブンブンと首を横に振った。
「これも顧問忍者の務めである故、礼など不要なのでござる!」
何度聞いても慣れない、顧問忍者という言葉。
それを自然に発した小柄な女子は、部屋の奥でお茶を入れる準備に取りかかっていた。
一年五組の級長、服部ハンナ。
イギリス人と日本人のハーフであるため、垂れ目がちの瞳は青い。鼻は高くて綺麗な形をしており、白みが強い金色の髪は、三つ編みにして頭の後ろでまとめている。胸元は盾に使えそうなほど平らだが、見た目のステータスは高い。
そんな彼女とは今現在、主従のような関係になっている。
暗い気持ちで迎えた夏休み初日に、
『しょ、小生を顧問忍者にしていただきたいのでござる! 『夏の陣』での空野殿の策は誠に見事であり、主君に仰ぐべきお方、小生が仕えるべきお方だと考え、お願いに参ったのでござる! 何卒ッ、何卒よろしくお願い申し上げるのでござるッ!』
と土下座で頼まれ、逃げても逃げても追いかけてくる彼女に根負けし、自分が首を縦に振ってしまったからだ。
第一印象は当然のように悪く、〝理解に苦しむ変な奴〟だった。
しかし今は、〝定期的に学園内の裏情報を持ってくる有能な情報屋〟になっている。
「ささっ、お茶にするでござるよ!」
電気ポットと茶筒が乗っている机を離れ、ハンナはスリッパを脱いでコタツの上に二つの湯飲み茶碗を置いた。シンの横にあった座布団を軽く手で払い、手のひらを上に向けて座るよう促す。
「助けてくれた上にお茶まで出してくれるとか、どんだけ優しいんだよ……」
コートを脱いで座布団の上に移り、緊張と疲労で乾いていた喉を緑茶で潤す。それから、ゆっくりと室内を見回した。
畳のスペース以外は、廊下と同じ深緑色の床がむき出しになっている。壁際にある木製の本棚は『探偵』もしくは『忍者』のマンガや小説で、反対側の黒板は同作品のポスターで埋まっていた。
「茶菓子も用意したかったのでござるが、留守の時に来てしまったらと思い、結局、買いに走れなかったのでござる……」
しゅんとするハンナを見て、シンは焦りを帯びた笑みを浮かべる。
「おっ、お茶だけで十分! これだけで十分ハッピーだ! 誰かにこの喜びを伝えたいっつーか……、あの白い悪魔に『少しは見習え』って言いたいくらい喜んでる!」
「白い悪魔……?」
「あ、鳴海のことな。あいつにはいつか、『服部から優しさを学ぼう講座』を週五、いや、週八で受けさせてやりたいと思ってる」
シンが腕を組んでうんうんと頷く一方で、ハンナは首を捻っていた。
「ミナ嬢は優しいでござるよ?」
「いや、優しくはねーだろ。正義感は強いかもだけど」
「否、優しくて正義感が強いのでござる! 小生が初めての級長会で困っていた時、声を掛けてくれたのはミナ嬢だけでござる。助けられたのはその一度に限らず、これまでにもたくさんあった故、優しくないなどあり得ない話なのでござる」
「さっ、さいですかー……」
「ふふっ、全然納得していないようでござるな」
ハンナは言いながら笑みを零していた。
清らかな心から生まれたその表情は、一瞬、見とれてしまうほどに綺麗だった。
心情を隠すための道具になっている自分の笑顔とは、今も顔に貼りついているそれとは、何もかもが違っている。
「無理に納得する必要はない故、この話はこれで終わりにして……。主に『冬の陣』の件でご報告したいことがあるのでござる」
『冬の陣』という言葉を耳にして、シンはすっと笑みを消した。