九十五話 きっとそれは好ましい。
昨晩の出来事である。
泣いているところを美楽に発見された悠は、半強制的にリビングへと連れて行かれた。
悠としては放っておいてほしい気持ちでいっぱいだったのだが、子供が泣いていれば気になるのが親というもの。
優しい口調であれこれ訊かれてしまう。
だけど、悠はどうしても相談することが出来ず、口を噤み続けた。
元より、悠という人間は恋愛ごとを家族に相談する気になれないのである。
事実、実夏のときも悠は想いを秘匿し続けてきた。
教えたのは、本当に信頼できる同性の親友、ただ一人。
そのあたり、美楽も察しているのか、すぐに諦め無理に訊きだすということはしなかった。
多分、娘が自分から話してくれるのを待つつもりなのだろう。
しかし、せめてでもということなのか、彼女はホットミルクを悠に振舞ってくれた。
芯まで温まる、砂糖とはちみつをたっぷり入れた一杯。
大分甘口なのだが、今の悠にはちょうどいい。
火傷しそうなほど熱いそれをちびちびと飲んでいたら、ほんの少しだけ心が落ち着いてきて、悠は少しだけ眠ることが出来た。
それでも何度も目を覚まし、あの有様になってしまったのだが。
◆
すでに友人たちが帰ってしまった夕方。――人恋しい気分の悠としては名残惜しいのだが、見舞いに来てくれた彼女たちに無理を言うわけにもいかない。
とはいえ、相談したことでどこか悠の顔は晴れ晴れとしている。
ひょんなことから秘密を暴露してしまい、それが受け入れられたことも大きいのだろう。
ずっと担いでいた重荷をおろしたような心持である。
そして、悠はリビングで美楽と対峙していた。
ちなみに、今回は悠から声をかけた。
夢魔の先達でもある母に、どうしても聞きたいことがあったためだ。
悠の表情は昨日とは一変して、決意を固めた風に見える。
そんな娘をじっと見つめると、美楽は満足げに口の端を吊り上げた。
「……決めたの?」
「……何が?」
向かい側にいる母の問いかけに、悠はとぼけてみせる。
「さあね」
言葉とは裏腹に見透かしたような美楽。
やはり、実夏のときと同様にバレバレなのだろう。
なので、悠はとっとと本題に入ることにした。
――したのだが、どう伝えればいいのか、悠は頭の中で上手く言葉にすることが出来ない。
告白された途端、魔力が我を忘れるほど気持ちよくて仕方がなかっただなんて、親に対してどういえばいいのか。
ただでさえ慶二とのことは隠しておきたいのだから尚更だ。
言い出せずもじもじする悠を見て、美楽が言う。
「――夢魔であることが、嫌になった?」
「えっ!? いや、そういうわけじゃないけど……」
美楽の言ったようなことを考えなかったわけではない。
もし、自分が普通の人間の女の子だったら、多分ノータイムで快諾していただろうから。
とはいえ、その場合、悠は男の子のままだったし、慶二とはずっと親友として関係は変わらなかったはず。
完全に無意味な仮定である。
そもそも、今聞こうとしていることとは全くの無関係なのだが――
「言っておくけど、私はあるわよ?」
「……そうなの?」
母親にそう言われてしまうと、悠としては興味を持たざるを得なかった。
「まあ、ろくな生き方はしてなかったから。大分前、昔話をしたでしょう? 力が弱いから村からは出してもらえなかったし、無理に脱出したらひもじい想いをする羽目になった。ようやく平電さんと結ばれたと思ったら、夢魔だからってだけで追い立てられたんだから」
思い出すように語る美楽。
口ぶりに反し、そこまで忌み嫌っているようには思えない。
むしろ――悠には想像もつかない――異世界を懐かしむかのよう。
恐らく、彼女の中ではすでに消化しきった出来事なのだろう。
だから辛い記憶でも平然と娘に語ってしまえる。
――いつか、自分もこのように良き思い出だったと語れる日が来るんだろうか?
悠は自問する。
そして、すぐに答えは出た。
そんなもの、行動してみないとわからない。
誰もが大小にかかわらず、辛い出来事を笑い話に変えるため生きていくのだから。
昨晩散々悩んでいたとは思えないほど、悠は前向きだった。
……悠という人間は、どうにも振れ幅が大きい傾向にある。
一度ネガティブな考えに取りつかれるとどこまでも沈んでいくし、逆に良い展望が見えればひたすら我武者羅に頑張ることが出来る。
脆いが真っ直ぐ。それが悠の本質。
「でも、夢魔として生まれてきて良かったこともあったんだけどね」
だからこそ立ち止まっているわけにはいかなくて、悠は美楽の昔話を妨げた。
「えっと、その話はすごく気になるけど、聞きたいことがあって」
「あら? 何かしら」
「……気になったんだけど、同じ人でも魔力の質って変わることってあるの?」
しかし年頃の子供にとって、気恥ずかしいのは変わらない。
よって、悠はどう変わったのか明言するのは避けることにする。
美楽は少しだけ考え込む素振りをする。
「普通は変わらないわね」
「……そっか」
当てが外れてしまった悠はしょんぼり。
だとしたら何が原因だというのだろう。
「――でも、心当たりならあるわ」
「本当!?」
美楽はこくりと頷いて続ける。
「感情の乗った魔力。それは、夢魔にとって何よりご馳走なのよ。特に好意的なものの場合ね」
美楽が言うには、だからこそ呪歌というものは存在するらしい。
適当な異性から魔力を奪うのではなく、対象に特別な感情を抱かせることでより高純度のものを得る。
力ずくではなく、相手から献身的に捧げさせる力が備わっているのはそのためなのだとか。
「言ったでしょう? 夢魔として生まれてきてよかったことがあるって。……それは、好きな人の想いを確かに感じることが出来るってこと。この人は本当に愛してくれてるんだ――ってね」
それだけ言って、美楽は目を細めた。
きっと、夫である平電のことを考えているのだろう。
慶二から送り込まれたのは熾烈で荒々しい情熱的な魔力。
つまり、それほどまでに慶二は悠のことを想っているということで――。
悠は、真っ赤な茹蛸となってしまっていた。