八十六話 そんな未来は辛く苦しい。
「次に、悠の性別のことね」
「え……」
――まだあるの?
悠の顔にはそうありありと書いてある。
そういえば、美楽は最初に「まずは」と前置きした。
だというのに、悠は、二つ目――更に三つ目がある可能性を失念してしまっていた。
そんな彼女を安心させるためか、美楽は軽く微笑んだ。
「性別が変わる条件についてよ。今のところは現状維持のはずだけど、何かあったときのために話しておきたいの」
「現状維持?」
女の子のまま変わらない……ということだろうか。
悠は、なんとなくほっとしてしまう。
「言ったでしょ? 悠はとても燃費が悪いのよ」
「う、うん」
「少量だけど頻繁に魔力が必要になるから、普通の人では負担をかけてしまうわ」
悠は、慶二以外から魔力をもらったことはない。
しかし、以前、美楽はこう言っていた。
慶二は異世界の賢者である平電に勝るとも劣らない魔力を秘めている、と。
つまり、彼だからこそ悠を満足させられるのだろう。
「……意地悪な言い方だけど、悠がこれから生きていくために必要なものはなんだと思う?」
この質問は、当然人間としてではなく、夢魔として。
話の流れから答えを導き出すのは驚くほど簡単だった。
膨大な魔力を持つ、異性。
それも、親密であればあるほど効果的。
例えば、男の子の頃であれば実夏。
そして、女の子の悠にとっての慶二。
――ここまで考えて、悠は母の言わんとしていることを理解した。
「そう……。悠の身体は、近くに強い魔力を持つ異性がいると――いいえ、いないと、かしらね――移ろいやすくなるの。力に目覚めてからは特にね」
――悠が物心ついたときには、二人の強大な魔力を持った幼馴染がいた。
慶二と実夏。
どちらも仲のいい、男女の親友。
だから、悠は物心ついたときの性別――男の子のままで成長することが出来たのだ。
まだ夢魔の力に覚醒していなかったことも関係したのかもしれない。
しかし、悠は夏のあの日、実夏に告白して、夢破れてしまった。
――ずっと、友達でいたい。
その言葉は、あのときの悠としては受け入れがたいものがあった。
結果として、夢魔の身体は実夏を「魔力の供給者」として不適格と判断したのだろう。
運悪く、覚醒と同時だったのか。
はたまた、ショックが目覚めを促したのか。
どちらにせよ、悠の身体は次の供給者として、もう一人の親友である男の子――慶二へと目を付けた。
「勿論、それだけじゃ変わらないわ。多分、悠自身が強く望んだことも反映されたんでしょう」
「……じゃあ」
言外に悠が仄めかすと、美楽もこくりと頷くことで答える。
……悠には、心当たりがあった。
慶二と一緒に出掛けたあの日。
――親友ではいられない。
その言葉が嫌で嫌で仕方なかった帰り道。
失意の中、男の子に戻りたいと念じていたためか、何処か女の子になってしまったあの時と同じような感覚があった。
もし、慶二があそこで来てくれなければ、きっと悠は男の子の姿に戻っていたはずだ。
ただし、魔力の供給者にあてはない状態で。
暗い展望に、悠はすっかり気落ちしてしまった。
夢魔として育っていれば、こんなことに悩む必要はないのだろう。
人間というのは、ただの魔力を奪い取る対象でしかないのだ。
適当にかどわかして使い捨てればいい。
しかし、悠は人間として育ってきた。
相手のことをそのようには思えないし、逆に自分の秘密に対する後ろめたさがある。
多分、彼女はとても幸運だったのだ。
性別が変わっても暖かく受け入れてくれる異性がすぐ近くにいたのだから。
だが、もしかしたら、慶二と今のように笑いあえない日が来るかもしれない。
「お母さん……」
そう考えると、悠は漠然とした不安を抑えることが出来ない。
浮かない顔のまま、助けを求めるかのように母を仰ぎ見た。
どこか、その表情は行き場を失った幼子を思わせる。
すると、彼女は困ったように笑う。
「そんな顔しないの。今すぐ慶二君がどうこうっていうわけじゃないんだから。……それに、慶二君の気持ちもわからないんだし」
――確かに、その日がいつ来るかはわからない。
来年?
それとも高校に入学してから?
とりあえず、今日明日というわけではないはずだ。
気休めかもしれないが、悠は少しだけ心が楽になり、胸をなで下ろした。
「でも、悠。決して周りはあなたのことだけを考えてくれるわけじゃないの。もし、今の話を聞いて何か感じるところがあったのなら、後悔のないようはっきりと伝えなさい。ね?」
そんな悠をあやしながら、諭すように美楽は言う。
――恐らく、彼女は彼女なりにかつての世界で夢魔として辛い経験をしていて、だからこそ娘に厳しい言葉を投げかけたのだ。
夢魔としての生き方は、父親である平電にはわからない。
ある程度の知識は兼ね備えているのだが、彼はあくまで人間であり、この世界ではたった二人だけの種族なのだから。
優しいだけじゃない、母の愛。
悠はそれを実感して、こくり。
「さ、私は夕ご飯の準備をするから、悠は自分の部屋に戻っていなさい」
「……ありがとう、お母さん」
そうして、悠は二階へと戻ることにする。
「この分じゃ、最後の三つ目を話せるのは少し先になりそうね……」
――美楽の呟きはとても小さくて、階段へと向かう悠の耳に入ることはなかった。
◆
悠は部屋に入るなり、自分のベッドに倒れ込む。
シャワーを浴びてリラックスしたせいか、一日の疲れがどっと押し寄せてきた。
同時に眠気まで襲ってきて、ついうとうととしてしまう。
魔力が少ないこともあり、身体自体が休憩を促そうとしているのかもしれない。
彼女は、瞼を瞑りむっと力を入れることで、眠気を吹き飛ばそうと務めた。
……何とか振り払うことには成功したらしい。
そしてふぅと一息。
悠はごろんと仰向けになり、天井を見つめながら、母の言葉を想い返す。
このままでは、そう遠くない未来に慶二とは距離を置かなければならなくなる。
そんなのは、嫌だ。
イメージしただけでどこか鬱屈とした気分になってしまうのだから、相当なものである。
――かといってどうすればいいのだろうか。
伝えろとは言われたものの、何を、どう伝えればいいのか。
どうにも漠然としてしまっていて、考えが纏まらない。
結局、どれだけ時間をかけても彼女の思考が堂々巡りから抜け出すことはなく、美楽に夕飯が出来たと呼び出される前に悠は眠ってしまった。