八十四話 母が語るのはあらまし。
家に帰るなり、美楽は悠にシャワーを浴びるように言った。
昼までしか参加していなかったとはいえ、今の悠は十分に汗臭い。
他にも砂ぼこりのせいか、少しだけ体操服がじゃりじゃりする。
自発的に入ろうかと考えるほどだったので、ありがたい申し出と考え、悠は二つ返事で同意した。
悠は元々お風呂は好きな方。
暖かい湯船に浸かっているだけで安心感に包まれるためだ。
その嗜好は女の子になってから益々強まっている。
なんだか不思議なものだと悠は自嘲する。
ほんの一月とちょっと前は、鏡で自分の姿を見るのもおっかなびっくりだったのに、それが当然のように思えてしまうのだから。
そうして風呂上りで火照った肌のままリビングに戻ると、美楽がよく冷えた麦茶を注ぎながら出迎えてくれた。
「ありがとう、お母さん」
「お風呂上りだし、飲みたいかなと思ってね」
受け取るとコップを傾け一息で飲み干す。
キンキンに冷えた喉越しに、まるで生き返るような心持。
ふぅ、と一息ついたところに美楽が訪ねる。
「どう? 楽しかった?」
「うん。とっても。みんな楽しそうで、参加できてよかったって思うよ」
美楽が言っているのは応援合戦のことだろうと察し、悠は答える。
出来ることならまた来年も、級友たちと同じように楽しめたらいいと素直に思える。
もしかしたら別のクラスになってしまうかもしれないけど、そのときはそのとき。
きっと、先輩である水島と火野のように競い合うことで笑いあえる。
そんな確信が悠の中にはあるのだ。
「そういえば、お母さん。どうして、呪歌が心配ないってわかったの? 失敗しないってわかってたってこと?」
なんて話していて悠は思い出す。
美楽はお昼休みの際、呪歌の発動を不安がる悠に対し、大丈夫だと保証した。
そして、家に帰ればその理由を教えてあげるとも。
事実、応援合戦は大成功だったのだが、後学のため知っておくのも必要かもしれないと悠は考えたのだ。
「ああ、それはね……悠はショックかもしれないけど、それでも聞く?」
「え?」
しかし、どことなく不穏な香り。
悠の口から疑問の音だけが出たのも当たり前かもしれない。
自分は上手く制御できていたはず。
だって、親友の実夏はとても元気づけられたと言ってくれたから。
そう考えていた悠は恐る恐る聞いてみることにする。
「……どういうこと?」
「途中まではちゃんとできていたけど、最後のあたりは完全に呪歌だったわ。相手を誘うための……ね」
――制御できてなかった?
美楽の言葉に、悠は頭を殴られたような衝撃を受けた。
だが、すぐに立ち直る。
もし美楽の言葉が真実だというのなら、もっと自分に注目がいってもおかしくはない。
それが呪歌の特色のはず。
しかし、実際はそうはならなかった。
美楽の勘違いではないのか。
そんな想いが悠の中に湧いてくる。
悠の考えを読み取ったのか、美楽は続ける。
「悠は最初、実夏ちゃんのことを考えて歌っていたのよね?」
「う、うん」
「途中から誰のことを考えてた?」
「……?」
母の言葉に対し、彼女は首を傾げる。
思い返してみれば、途中から記憶がない。
一種のトランス状態に陥ってしまっていたような気がする。
「私が言っているのはその間のことよ。でも、実際は予想通り問題がなかったわけだけど」
「……わからないよ」
ちょっとすね気味に悠。
意識のない状態だったので、そのように曖昧に言われても理解できるはずがない。
「悠は、気になってる異性はいる? ずっと一緒にいたい人とかね」
「え……?」
だというのに、話がいきなり変わってしまった。
虚を突かれ、悠は素直に知り合いの男の子を頭の中に浮かべていく。
鹿山に蝶野、慶一やマーク、火野――そして――。
気のいい友人と、尊敬する人。
一緒にいるのはとても楽しい相手だが、気になる異性ではない。
恐らく、悠が男の子だった頃の繋がりの延長線上にいる人たち。
決して悪い意味ではないのだが、四六時中常に一緒にいたいとまでは思わない。
今となっては異性なのだ。
駆け出しの女の子とはいえ、気を遣うこともある。
特に慶一と火野はすでに恋人のいる相手。
そのように思うはずがない。
でも、最後の一人。
幼馴染で、親友。自分のことをずっと守ってくれていた男の子。
その男の子と一緒だと――たまに距離感を図りかねることもあるけど――なんとなく、いつも自然体でいることが出来る。
と、慌てて首を振る。
これじゃまるで誘導尋問だ。
自分はその男の子と親友なのだと、顔全体が火を噴きそうになるのを必死に抑えた。
「……いないよ?」
「……そう?」
美楽の目はちょっと二やついている。
全部を見透かされてるみたいで悠は膨れてしまう。
「まあ、無意識のうちにその子へ呪歌の効力が集中したのよ。決まった対象がいないから手当たり次第になるんであって、目当てがいれば自然とそうなるものなの」
「……その人は大丈夫だったのかな?」
「多分ね。強い子だから。現に、悠はなんともなかったでしょ?」
確かに美楽の言葉は筋が通っている。
そうでなければ、悠はその少年から熱烈なアプローチを受けているはず。
釈然としないものはあるが、悠はひとまず置いておくことにする。
「それで、私からも悠に教えておくことがあるの。……悠の身体について、ね」