八十一話 きっかけはちょっとしたシンパシー。
絶対に負けられない試合。
だというのに、実夏の精神は驚くほど落ち着いていた。
彼女は陸上部。
走るのが本職であり、だからこそ一年生のアンカーに選ばれた。
ばくばくと脈打つ心臓のリズムは速い。
しかし、どこか心地の良いものを感じる。
彼女の視線の先には、バトンを差し出している愛子の姿があった。
もしかしたら、友人であった期間より、険悪だった方が長いかもしれない相手。
蟠りは完全に解消された……とは言い難いかもしれない。
実夏としては話していてたまにカチンとくるときもある。
だが、愛子は――息も絶え絶えなのだが――微笑んでいた。
バトンが実夏の手に渡った瞬間、彼女が叫ぶ。
「任せたぞ!」
――言われなくても!
そう言い返したかったのだが、走ることを優先し、実夏はフルスロットルで駆けだした。
◆
ただでさえ優位からスタートしたこのレース。
実夏の健脚がぐんぐん相手を引き離していく。
二着の相手とはすでに大きく差がついていた。
それでも気を緩めることなく、しなやかな足でしっかりと地を踏みしめ実夏は疾走する。
その姿はまるで豹。
勝利という獲物にまっしぐら。
悠は手に汗握りつつ、応援席でその光景を見つめていた。
「……格好いいなあ」
無意識のうちに感嘆が口をつく。
声援に遮られ、その言葉を耳にしたものは誰もいない。
「そっか」
悠は得心がいったとばかりに誰ともなしに呟いた。
実夏という少女は前を向き続けている。
慶一との恋も、たまに弱い面を見せたものの、自分から行動し突き進んでいった。
そして、今もなお返答を自分の力で勝ち取ろうとしている。
行動的で活発な、前のめりのスタンス。
だから、男の子の悠は彼女のことが好きになったのだろう。
以前悠が読んだ本の中で、人は異性に自分に足りないものを求めると書いてあった。
ちょっとヘタレな悠にとって、それは少女の真っ直ぐで折れない心だったのだ。
今は恋心は失われている。
嫉妬深い彼女が慶一にその感情を抱かないのだから間違いない。
それでも、実夏という少女の生き方は悠にとって理想であり目標だった。
異性としての憧れは、同性のそれとなり、悠の中で生き続けていくはずだ。
欠けていたパズルの最後のピースがかちりと嵌った気がして、悠はどことなくすっきりとした気持ちで実夏へと声援を送り続ける。
◆
あっという間に三年生の最終走者へとバトンが渡り、たった今ゴールテープが切られた。
それから少し遅れて二位の選手がゴールにたどり着く。
――その選手は青いゼッケンをしていた。
『全員ゴールしました。ただいまのリレー。一位、緑組。二位、青組。三位、赤組。四位、黄組となります』
……実夏の願いは叶わなかった。
実夏自身は先達のリードもあって大差をつけてバトンタッチに成功したのだ。
だが、中盤、二年生がバトンを取り落し、その間に差は大きく縮まってしまった。
「ミミちゃん……」
リレーを解散し、応援席へと戻ってくる少女を前に、呆然と悠は呟いた。
「あはは。頑張ったんだけど、ダメだった」
実夏は手をひらひらさせながら笑う。
でも、どことなく泣きそうな顔。
「……そんな顔しなくても。まだ、応援合戦で一位なら逆転の目はあるだろ? 悲観することじゃないと思うけど」
訝しげな愛子。
彼女は実夏の立てた誓いを知らない。
「愛子ちゃん……そういうことじゃなくて」
「ううん、悠。大丈夫だから」
悠は実夏に何か声をかけようと口をもごもごさせる。
しかし、何を言えばいいのだろう。
一度言葉に詰まると、考えがまとまらない。
『十分後、閉会式に入ります。それまでに全生徒はグラウンド中央に集まってください』
結局、アナウンスに遮られ、悠は実夏に気の利いた言葉一つ言うことは出来なかった。
◆
「トイレに行ってくる……」
実夏はそう言って悠たちを後にした。
悠も実夏の気持ちを察したのか、ただこくりと頷くだけ。
校舎に入り、彼女らが見えなくなってから実夏は大きくため息をつく。
「格好悪いなあ、あたし……」
――約束したのに、優勝できなかった。
「うぅっ……」
実夏の口から嗚咽が漏れた瞬間だった。
「……実夏ちゃん?」
約束の相手がその場に現れたのは。
「……慶一さん」
「リレー、見てたよ」
実夏が視線をやれば、彼は困惑した顔をしていた。
多分、自分に失望しているのだろう。
実夏にはそう思えてならなかった。
「……ごめんなさい、変な約束して」
だから、ぼそりと呟く。
「バトンを落とした先輩はそれでも必死に頑張ってたのに、何で優勝できなかったんだろう……って考えちゃうんです」
俯いたまま、視線を合わせることが出来ない。
リレーは団体競技。
決してバトンを落とした二年生を恨むわけではない。
むしろ、一番辛いのは彼だろう。
観衆の前での失敗。
二位という成績だったとはいえ、競技中生きた心地がしなかっただろうから。
それでも悔しさに視界が滲む。
リレーが終わってからずっと涙を堪えていた。
だけど、泣くことは出来なかった。
もし泣いてしまえば、失敗した二年生を責め立てることになる。
二位はなんとか次に繋がる成績だ。
そもそも、約束は実夏個人の問題であって、大多数には関係のない話である。
だというのに、二位という結果に失望している自分の身勝手さが何より醜く思えてならなかった。
陸上はその大多数が個人競技だ。
実夏も短距離走がメイン。
だから、彼女には今回のリレーが団体競技だという自覚が欠けていた。
気心の知れた仲間同士ならまだいい。
でも、今回は上級生の大半以上が顔見知りですらない。
「十二人が一丸に頑張らなきゃいけないのに、勝手に変な願掛けの道具にして、馬鹿だなって……性格悪いですよね、あたし」
「……ううん。俺も、サッカーで似たようなことするよ」
自虐的に告白を続ける実夏
そんな彼女を、慶一は首を横にして否定する。
「試合、練習試合に拘わらずね。この試合勝てたら買い食いしよう……とか。あっちは十一人で一人少ないけど」
「……なんですかそれ。そんなの、可愛いぐらいじゃないですか」
やっぱり子供っぽい。
失意の中にいるはずの実夏は、ちょっとだけそう思った。
でも、そんなこと大した問題じゃない。
買い食い出来ないだけでこんなドロドロとした感情は抱かないはずだから。
「俺も、少し前の練習試合で願掛けしたんだよ。勝ったら……実夏ちゃんに返事しようって。勿論、他の面子に相談なんてせずにね」
「え……」
その言葉に、実夏の顔が上を向いた。
「……返事できてないことからわかると思うんだけど、負けちゃったよ。あそこでパスしたやつが決めてくれたらなぁ、なんて思うこともある」
「……教えてくれたら、応援に行きました」
「負けたらどうしようか……なんて考えたら言えなかったんだ。だから、実夏ちゃんは宣言できただけ俺よりずっと格好いいよ」
ふくれっ面の彼女を前に、慶一は苦笑い。
だが、表情を一変させ、真摯に実夏のことを見つめてくる。
「……ずっと待たせちゃったけど、ようやく決心がついた。俺の話、聞いてくれる?」
「は、はい」
その雰囲気にのまれ、実夏は気を付けの姿勢になってしまう。
「俺も、実夏ちゃんのことが好きだ。こんな情けない俺でもいいのなら、付き合って欲しい」
それは、誰もいない中学校での一幕。
実夏は、叶うのなら目の前の男の子と一緒の中学生活を送ってみたかった。
登下校は勿論、一緒にお昼を食べたりなんかして……。
でも、生まれた年代が違うのだから無理な話。
だけど、ほんの少しだけその夢が形になって今ここにあった。
「えっと、それは嬉しいんですけど」
「え……?」
ちょっと困った感じの実夏。
まさかの返事に、慶一は豆鉄砲を喰らったような顔になる。
「……一つだけ、お願いがあります」
「う、うん」
まさか断られてしまうのか?
そんな動揺が慶一の顔にはありありと現れていて、実夏は笑いをこらえるので精一杯。
「昔みたいに、ミミって呼んでください」
甘えを含んだ声色。
それと同時に少女の顔は綻び、薄暗い校舎に一輪の花が咲いた。