七十三話 二人の空気は重苦しい。
そうこうしている内に、随分と時間が経ってしまった。
元より慶一は弟に食事を届けるためにやって来たというのに、完全な道草を食ってしまっている。
記憶の中の進行プログラムと照らし合わせてみれば、すでに昼休みの半分ほどか。
「鹿山。俺は弟のところにいかなきゃならないから」
「あ、そうですね。すいませんっした!」
意を決した彼が切り出せば、驚くほどあっさりと鹿山は身を引いた。
「そうだ。お前、慶二がどこにいるか知らないか?」
だが手がかりなしでこのまま探すというのもどうにも面倒。
実のところ、先ほどから弟のスマホに連絡を取っているのだが、遺憾なことに一切反応がないのである。
「あいつなら、保健室にいると思います」
「……保健室? 怪我したのか?」
「いや、付き添いかなんかで」
「そうか……ありがとう」
なるほど。道理で見当たらないわけだ。
「また、暇なら家に遊びに来てくれ。多分弟が歓迎するから」
慶一は胸をなで下ろすと、軽く挨拶し保健室へと歩を進める。
◆
あと少しで保健室へと辿り着く曲がり角。
昼休みの真っただ中とはいえ、殆どの生徒や父兄は体育館で食事を取っている。
校内に人影は殆ど見当たらず、慶一はようやく人心地つくことが出来た。
慶二に弁当を与えてから意中の彼女の居場所を聞くことにしよう。
そんな算段をしながら歩いていく。
……別に先延ばしにしているわけではないはず。
だというのに、曲がり角から飛び出してくる少女が一人。
「あ、実夏ちゃん……」
「け、慶一さん」
ひょんなことから二人は出会ってしまった。
完全に不意を突かれた慶一にできることは、ただ茫然と名前を呟くことだけ。
奇遇にも目の前の少女も同じのようで、何と言っていいものか、戸惑ったような表情を浮かべている。
「こんにちは」
とりあえずの挨拶。
浮足立つ気持ちを必死で抑えつつである。
「お、お久しぶりです」
「……元気だった?」
「はい……慶一さんは?」
「まあ、元気かな」
場を持たせるための一言に、慶一は自嘲してしまう。
ここ最近疎遠だったのも関係しているとはいえ、どうにも空虚なやり取り。
慶一自身が緊張のさなかにいるのだ。
相手の緊張を解すような気の利いた言い回しなんて思いつくはずがない。
「……あの、百メートル走見ててくれましたか?」
「あ、ごめん。さっき来たばかりなんだ」
……居心地の悪い沈黙が二人の間に流れた。
互いが互いの出鼻をくじく。まさにそんな感じ。
次はなんて切り出そう。
慶一は必死に思索する――が、そこで沈黙を破るものが一つ。
きゅるるるる。
実夏の腹の虫の音であった。
当然ながら赤面して俯いてしまう少女が一人。
「もしかして、お昼まだ?」
「……はい」
実夏は沈痛な表情を浮かべていた。
慶一としては、空腹なのは健康な証であり好ましく感じたのだが、どうにも彼女にとっては違うらしい。
「さっきまで悠のところにいたので……」
どうやら恥ずかしさのあまり意気消沈してしまったようで、実夏はぼそぼそと答える。
その様子に、慶一は出来る限り触れぬよう努めた。
「ああ、もしかして慶二が保健室にいるのもそれで?」
「は、はい。それで、お母さんを探してたんですけど、少し来るのが遅れてるみたいで。折角だから保健室に戻ろうかなって」
空腹を堪えるためか、お腹を押さえる彼女を見ていると、慶一の左手にある風呂敷包みがやけに主張してくる気がした。
……いやいや、これは可愛い弟のためのものだ。
慶一は必死で自制する。
が、腰ポケットから一定の振動が伝わってきた。
ついそちらに注意が向いた。
微妙な雰囲気から逃れたいという意識が働いたのかもしれない。
「ごめん、実夏ちゃん。ちょっと待ってて」
断りながらもスマホを操作。
実夏が気分を害した風でもないのが救いか。
着信アリ。
それも、ちょうど頭に思い浮かべていた慶二からである。
「あー。兄貴か?」
「どうした? 今、保健室に向かってるところなんだが、悠ちゃんは大丈夫なのか?」
電話の向こうの彼は落ち着いた受け答えをしている。
とどのつまり、大した問題はないのだろう。
そのあたりは推測できているものの、とりあえず確認を取る。
「さっき気が付いたところ」
「そうか。……実夏ちゃんにも伝えとくよ」
「ミミ……? 一緒なのか?」
「ああ。ついさっきばったり会ったところだ」
心底意外そうな口ぶりだった。
まさか、兄が実夏と対面していたなど夢にも思わなかったのだろう。
慶一としては反論したいところ。
だが、情けなくも思い悩んでいたのは事実なので黙り込む。
「悪い、弁当いらなくなった。悠のところでご馳走してもらうことになったから」
そんな慶一の心境など知る由もなく、慶二は続けた。
まさかのお役御免である。そして、一方的に通話を終える。
……慶一は、風呂敷包みが重みを増したような錯覚にとらわれる。
彼も健全な育ちざかりとして大食らいな方だが、それ前提での二人分。
流石に一人で完食は不可能だ。
となれば。
「悠ちゃん、気がついたって」
「本当ですかっ!?」
先ほどまでの気まずさはどこへやら。
実夏が食いついてくる。
目と鼻の先の距離である。慶一としては気になってしまって仕方ないのだが、実夏にとっては妹分の無事の前では些細なことのようだった。
「よかったぁ……」
安堵からか、実夏は微笑んだ。
不謹慎ながら、慶一としてはやっと笑顔が見れたと感謝してしまう。
「うん、元気そうで心配ないみたいだよ。それで……」
「?」
慶一は左手を上げて、風呂敷包みを強調する。
そうして、出来る限り自然な笑みを心がけながら言った。
「折角だから、これ、一緒に食べてくれない?」