七十二話 自分を見てくれないのは鬱陶しい。
慶一は迷っていた。
――断じて道にではない。
ほんの数か月前までの母校である。
忘れるはずもない。慣れ親しんだ思い出もある。
今の高校生活が楽しいのは紛れもない事実だが、かといって過ぎ去りしあの日を否定するつもりはないのだ。
彼が迷っているのは、目の前の少年の対応について。
「古井先輩! お茶もってきました!」
……主と再会した忠犬のように、彼はご機嫌だった。
鹿山金。
慶一にとっては、弟の友人の兄。
勿論、それ以前に部活の後輩だ。
しかし、久々の再開に目を輝かせる彼とは距離を置きたい。慶一としてはそんな気分。
彼は慶一を崇拝しているらしく――恐らくだが――部活の下級生の前でかつてのOB相手に甲斐甲斐しく世話を焼くという、どうにも情けない姿を見せていた。
――みっともないから止めろ。先輩として示しがつかないだろ?
と一喝してやりたくはなるが、慕ってくる相手には実行出来ないのが人情というもの。
事実、慶一自身彼を振り払えていない。
が、幻滅されているかと思いきや、下級生まで慶一相手に熱っぽい視線を送っている。
……どうやら、金が何やら吹き込んだらしかった。
これは慶二に怒られるな。
と慶一はどこか諦観して、相槌を打つ。
慶一は意中の少女に対し、今日この場で自身の思いのたけをぶつけるつもりである。
道中で決意を決めた。
一意専心。
ここで彼女の心に報いる覚悟を固めたのだ。
しかし、足止めを食ってしまっている。
このままでは決意が砕けてしまいそう。
「……鹿山は、なんでそんなに俺のことを慕うんだ?」
だからこそとっととこの場を離れたくて、慶一はやんわりと尋ねる。
「古井先輩は、憧れなんっす。大人っぽいし……」
――大人っぽい、か。
慶一は内心自嘲する。
実のところ、そんなもの見せかけでしかない。
本音でいえば、高校で出会った仲間たちと一緒のときのように騒ぎたい。
高校生は子供と大人の狭間。
まだまだ子供でいたい気持ちも強いのである。
◆
慶一は、物心ついたときにはもう『お兄ちゃん』だった。
弟の慶二とは三歳差。
ふと気づいたときには兄として振舞うのが当然になっていた。
そうして、赤ん坊だった弟がすくすくと育つさまをずっと見つめてきたのである。
さて、慶一には一つ、決意したことがある。
彼の両親は仕事に忙しく、あまり子供に構えないことが多々あった。
サービス業の宿命か、土日に出かけられないのは一度や二度ではない。
学校行事も同じ。
現に、この日も運動会だというのに自分が弁当を届ける任を受けている。
その分、愛情を注いでくれているのは子供心にわかっていたが、どうしても辛いものを感じていた。
だからこそ、弟に同じ思いをさせたくはない。
そう強く心に決めたのだ。
では、どうすればいい?
慶一の選択は、自分がいち早く大人になることだった。
弟を庇護することのできる、自慢の兄となる。
勉学に励み、運動も欠かさない。大人としての視点で物事を見ようと心がけた。
――ただし、兄の心弟知らず。
結果的に慶二の反発を生むだけだったのだが、慶一はそのことに気づくことはない。
だって彼もまだまだ大人の真似事をしてるだけの子供なのだ。
物事を多角的にみることは出来ても、足元の見落としには気付けない。
しかし、周囲はそんな慶一の想いを知る由もなく、大人っぽい男の子だと尊敬の的にした。
目の前の鹿山のように、畏敬の念をぶつけてくる男子もいた。
同性だけではない。異性の中にも、そこがいいと告白するものは多数。
どれも、慶一としては空虚なだけ。
補足すれば、小学生のころは嬉しかった。何処か優越感を得ていたのも確か。
しかし中学校に上がり、三年も経てば話は別。
ちょうどそのころは慶二も成長し、仲のいい友人がいたのもあって家族より外を優先しがちな年だった。
慶一は、ちょうど思春期だったこともあって、自分の内面を見て欲しいという想いが強まっていたのである。
結局、中学時代はどこか鬱屈としたものを抱え込みながら、卒業を迎えることとなった。
◆
高校デビュー――とはいかないが、慶一は偶然にも今までの学区より離れた地に進学した。
他意があってのことではない。
自身の成績と、部活の実力に併せた選択。
そこで彼は今までの自分を知らない友人を得ることが出来た。
バカをやっても気にしない、親友。
それは今まで慶二が持ち合わせていて、慶一にはいなかった存在だった。
一種の解放感から、慶一は浮かれていた。
そんなある日、幼馴染の少女から、慶二経由であるお願いを受ける。
相談事があるから、その日を開けておいてほしいと。
慶一は二つ返事で了承した。
そして、まさかの告白を受けたのである。
「あたしは、慶一さんのことが好きです」
「……どこが?」
不躾な物言いだったが、口をついて出てしまったのだから仕方がない。
もし、今までの女の子のようなことを言われれば、ばっさりと断るつもりだった。
本質を見てくれない相手などお断り。
幼馴染で弟の友人であろうが、区別するつもりはない。
それが今の慶一のスタンス。
一方、少女は気分を害した様子もなく、真剣な顔で言う。
「……大人っぽいけど、実は子供っぽいところですかね」
息をのむ。
「たまにしか会えませんけど、高校に上がってからの慶一さんはとても活き活きしていて素敵だと思います」
それだけ言って、彼女ははにかんだ。
愛らしさに、心臓を鷲掴みにされたようだった。頭が真っ白になってしまう。
なんて答えればいいかわからない。
何も考えられない。
「幼馴染の女の子だから……いきなり言われても、まだわからない。少しだけ待ってほしい。……前向きに考えてみるから」
――慶一が無意識に答えていたのは、保留の一言だった。
◆
少女――実夏は、喜び九割、悲しみ一割といった顔色で帰宅していった。
促したのは慶一。
一人で考えさせてほしいとか、そんな風なことを適当に言った記憶が彼にはある。
そうしないととんでもない失態をやらかしそうだったからだ。
自分以外誰もいなくなった部屋で、慶一は彼女の微笑みを思い出す。
――半ば、トドメだった。
ドキドキと、全力疾走の後のように脈拍が速くなる。
……嬉しい。
そんな思いで頭が一杯だ。
が、直後に彼は自分のしたことを理解した。
とんでもなく不誠実な返事。
勇気を振り絞り、告白してきた相手への回答保留である。
どの面さげて会うべきなのか。
出来る限りなら、明日にでも会って想いに答えたい。だが、たった一日で返事をして、『良く考えた』といえるのだろうか。
悶々としたまま、日にちが過ぎていく。
そうすると今度は、顔を合わせるのが気まずくなってしまった。
待たせすぎたか。
愛想を尽かされていないか。
どんどん不安が肥大化していく。
――情けないとは自分で感じつつも、それが制御できない。
古井慶一、高校一年生になってようやくの初恋であった。