六十六話 彼女の体が気遣わしい。
二人三脚の走者となった悠と理沙は、軽快な――ただし二人にとって――滑り出しを見せていた。
お世辞にも速いとは言えないスピード。
現に、他のクラスの選手には大きく水をあけられてしまう。
だが二人は焦らない。
意図せずも相手に合わせることが上手い悠と、バックアップが得意な理沙の組み合わせである。
元より鈍足であることは自覚済み。焦燥に駆られる必要などないのだ。
一歩一歩確実に進み続ける。
二人三脚のコースは百メートル。
つまりトラック半周分。その中盤に差し掛かったあたりで、先頭――A組の足並みが乱れ始めた。
どうやら、背後から迫るC、D組の選手を意識しすぎたらしい。
弧を描く地点だからなおさらである。
加速しようと強引にペースを速めた結果、却って減速していくのを抑えられない。
これはチャンスと考えたのか、C、Dの両者も同様にラストスパートをかけ始める。
悠と理沙は、そんな追走劇を背後から見守っていた。
そして、コースの七割を越え、先頭がC組の選手に交代したタイミング。
――ここに来て、チャンスが訪れた。
追い抜かれたことにショックを受けたようで、A組の片割れが無理に足を速めた結果、転倒したのだ。
そのあおりを受け、C組は大きくバランスを崩した。
転倒した生徒をよけようとしてのことである。
続けて後続だったD組は減速しての蛇行を強いられる。
文字通り足の引っ張り合いが始まっていた。
「……チャンスですよ」
いくらマイペースに進んでいるとはいえ、二人三脚は中々神経を磨り減らす。
それでも、息を切らしながら理沙が促した。
悠は無言でこくり。
ゆっくりと、じわじわスピードを上げ追い上げる。
A組はもはや戦力外。
C、D組共に差はあれど足を止めたのが響き、加速を完全に失っている。
まさかの大番狂わせ。
横目に、応援席の同級生たちが盛り上がっているのが伺えた。
悠たちが他チームを追い抜くのも時間の問題と思われた。
そして、実際、最前列にいたC組に並び立った瞬間――。
「危ない!」
「え……?」
その叫びは、女のものだった。
女子生徒ではない。成人はしているのだろう。低い女性の声。
不意を突かれた悠が外周を見たところ、転がるサッカーボールと、それを追いかける小さな――それも三、四歳ぐらいの――男の子。
恐らく、トラックに入り込んだことなど気づいていないのだ。
もしこのまま悠たちが走り続ければ、間違いなく蹴飛ばしてしまう。
理沙も気づいたのだろう。
一気に急停止を行う。
が、残念なことに加速の絶頂にいたタイミングだった。
必然的に二人も大きくバランスを崩し、転倒する憂き目となる。
前のめりのまま倒れそうになる。
このままでは二人ともが頭を打ち付けるだろう。
そう考えた悠は、身を捻ることで理沙を庇おうとした。下敷きになることによってである。
――そこで一端悠の意識は途切れた。
◆
「危ない!」
慶一が未だ来ていないことを気にした慶二が、空き時間を利用して保護者席を観覧していたときのこと。
誰とも知れない叫び声にグラウンドの方に目をやれば、横たわる悠がそこにいた。
――悠!?
思わず頭の中が真っ白になって、慶二は駆け寄る。
少なくとも行方知れずの愚兄のことは一瞬で掻き消えていた。
急いで駆け寄ったところ、すでに人だかりが出来ていて、慶二は狼狽えながらも見知った顔を探した。
中心には――二人三脚で足を繋がれているため当然なのだが――理沙が存在し、目を覚まさない悠に対し
「大丈夫ですかっ!?」
と揺さぶっている。
普段の冷静さを失い憔悴の色濃い理沙に反し、悠は無表情のままピクリともしない。
慶二は強引に人だかりの中に入り、理沙を制止する。
こういう状況で頭を揺さぶるのは却ってよくないと聞いていたためである。
「何があったんだ?」
「トラブルがあって……悠さんが私を庇って……」
慶二は傍目に小さな男の子が泣いているのが見えた。
状況的に彼がトラブルなのだろうと察する。
「……保健室の先生は?」
「い、今、誰かが呼びに行ったみたいですけど……」
それじゃ間に合わないかもしれない。
慶二の頭に過ったのは不安。
「俺が運ぶ」
「え、ちょっと待ってください! 私も足が」
慶二が悠を抱きかかえるのと、理沙が慌てて足を括り付けた紐を外すのは殆ど同時だった。
理沙は冷静さを失っている。
自分が行動せねばと考えた故のこと。
あくまで慶二が感じたことであり、傍から見れば互いに冷静さを失っていることは間違いない。
だが、呆気にとられてしまい、意を挟める人間はその場に存在しなかった。
所謂お姫様抱っこのような形で――ただし出来る限り揺らさないように――慶二は保健室へと駆けて行った。
◆
結局、悠は昼休みになっても目を覚まさなかった。
保険医の安本曰く、軽い脳震盪であり心配するほどではないらしい。
事実、それを裏付けるように悠の顔は寝ているようにしか見えない。
だが、慶二としてはどうにも胸騒ぎが止まらないのだ。
昼食を取ることなくここにいる。
先ほどまで実夏や愛子、理沙もつきっきりだったのだが、彼女たちには先に食事を済ませるよう申し出た。
そもそも、食事を配達するはずの慶一が行方不明なのである。
どうやら、心配性になっているようなのだが、当人としては気づくはずもない。ここ数日気を失ったりへたり込む悠ばかり見てきたせい。
結局、安本は、過保護な幼馴染に呆れたようにして保健室を出て行った。
体育祭に怪我は付き物。彼女としても他の仕事があるようだった。
「ん……」
小さく悠が身じろぎしたのを見て、慶二は期待を込めて顔へと視線を動かす。
が、寝返りを打っただけらしい。
その過程でシーツから手がはみ出ている。
これならば平気そう。
ようやく慶二は気を緩める。
とりあえず、はみ出た手をベッドの中に戻そうと考えたところ――むんずと悠に手を掴まれた。