五十九話 兄の情けなさが嘆かわしい。
慶二は、自分の机の前で本日何度目かのため息をついた。
彼の席は窓際ではなく、ちょうど教室の中心あたりに位置している。
前の席には悠が他人の椅子を借りて座っていた。
彼女は話し合いをすると言ったきり、中々戻ってこない実夏と愛子を案じて
「大丈夫かな……」
なんてそわそわ。
慶二は何度も落ち着けと宥めているのだが、幼馴染の少女はどうにも心配でしょうがないらしい。
実夏も相当気の強い少女だが、決して謝る相手を熾烈に責めるような性格ではない。
相手が本当に悔いているのなら受け入れるだろう。
勿論、悠もそんなことはわかっているはずだ。
しかし、あまりに戻ってこないと不安になるのも道理である。
「悠ちゃん、はろ~!」
独特の間延びした調子で声をかけてくる影。
一香である。
実は慶二の前の席は彼女なのだ。
だから悠も気兼ねなく他人の席を使っていた。
「おはよう、一香ちゃん」
最近、悠と彼女は仲がいい。
その伝手か
「慶二くんもはろ~!」
「……おう、おはよう」
このように彼女は慶二にも元気にあいさつ。
授業の合間合間に話しかけられることもあるのだ。
まあ、元より明るくて社交的な彼女は、席が近ければ誰にでも話しかける印象があるが。
「席代わるね」
「ん。いいよいいよ~。鞄置いたらちょっと席外すし」
悠と一香がそんなやりとりをしてるのを横目に、また慶二はため息。
……別に、目の前の少女たちが原因というわけではない。
彼のため息の原因は、昨晩のことに遡る。
◆
悠を無事、家に送り届けた慶二が帰宅すれば、すでに靴が一足揃えてあった。
サービス業の両親は祝日なこともあって遅くにしか帰らないので、兄であることは明らか。
慶二は、彼も遊びに行くと聞いていたので、自分より遅くに帰ると思い込んでいたのだが。
「兄貴、帰ってたのか」
「慶二。お帰り」
リビングに向かって声をかければ、ソファに寝転んでいた慶一は身を起こしながら答える。
そのまま小説にしおりを挟み、眼鏡を外してこちらを向いた。
その流れがどことなく様になっていて、慶二は少しいらっとする。
たった三歳しか違わないのに、妙に大人びて見えたためだ。
が、すぐに、聞いたばかりの情報を思い出し溜飲を下げる。
「おい、馬鹿兄貴」
「……いきなりどうした?」
慶一は怒らず疑問形。
何故罵倒されたか心当たりがないとでも言いたげ。
そして慶二が二の句を継ぐ前に一言。
「まさか、三日前の悪戯に気づいたのか……?」
「なんだそりゃ」
三日前……何があっただろうか。
慶二は慌てて記憶を辿る。
――心当たりは、一つ。
「……あ、まさかあれは兄貴が!?」
実は三日前、自室の机の上に、ベッドの下に隠したはずの本が平積みされていたことがあった。
母親が勝手に掃除をしたのかと考え問い詰めたのだが、全く話が通じず却って恥をかいてしまったのだ。
不可解な現象だと思ったが、まさか兄の仕業だとは。
慶二は驚愕する。
なんて恐ろしいことをするんだこの男は。
「いや、金本――高校の友達が教えてくれた悪戯でな。実際傍から見ていて面白かった」
慶二の動揺に構わず、慶一は真面目な顔をして頷いている。
された方はたまったものではないというのに。
「それにしても慶二、お前女の子の趣味変わったか? どっから手に入れたのか知らんが、隣の――」
「……兄貴!」
いけない。
完全に兄に主導権を握られている。
というかさらっと流してしまったが、この兄は高校で何を学んでいるのか。
慶二はツッコミが追い付かない。
なので、いったん全て無視して攻勢に出ることにした。
「兄貴こそ、ミミと仲がいいらしいじゃねえか。高校で友達に惚気てるとか」
「うっ……」
図星のようである。
狼狽える兄に内心、愉悦を感じながら慶二は追撃。
「つい数日前、『幼馴染としか見れないからまだ回答保留』とか偉そうに言ってたくせに。もう変わったんだな」
随分早くに心変わりしたものである。
ならば、最初から承諾してやればいいだろうに。
そのあたりの気持ちを込めてつついてみたのだが――。
「実はな、慶二……」
何故か慶一は深刻そうな顔。
慶二が疑問を感じる間もなく彼は続ける。
少し低い声色。
「まだ、当人には返事してないんだよ」
「……なんだって?」
あまりの答えに、慶二は頭痛がしてきた。
もう二週間ほど経っているはずだというのに、この男は保留のまま動かないのだという。
「……告白されたときは、格好つけて『そういう風に見れない』なんて言ったけど、日が経つにつれじわじわ嬉しくなってきてな」
「誰かに告白されたのは初めてじゃないだろ……?」
兄の初心な姿など見せられても、弟としては全く嬉しくない。
それどころか気持ち悪いだけである。
自然と冷たい声色での応対となる。
「正直、自分から告白したことがないから、なんて返事をすればいいものか……わからん」
「んなこと言われても、俺にだってわからねえよ」
「勇気を振り絞って告白してくれたのに、上から目線じゃないかと考えたら堂々巡りにな」
――上から目線。
慶二としては耳の痛い言葉ではあった。
以前の部活の昼休み中に、相手から告白してくれれば考えなくも――なんて思いを抱いたこともあったのだから。
流れ弾は予測不能な方向に着弾し、結局、二人して頭を抱える事態に陥ったのである。
◆
「慶二、どうしたの?」
「な、なんでもない」
至近距離からくりくりとした瞳に見つめられ、慶二は慌てて飛び退いた。
以前、注意したはずなのだが、それでも悠はナチュラルに距離が近い。
多分、これは自分限定――そう彼は思いたい。
回想しているうちに、どうやらホームルームの時間になってしまったらしい。
予鈴が鳴り、実夏たちも教室に戻ってきた。
「どうだったか、後で聞いとけよ」
「うん。じゃ、慶二もまた後で」
そしてホームルームが始まった。