四十五話 僕に足りないのはプライバシー。
部活を終えた後、悠が図書室で待機していると、ようやく慶二がやって来た。
当初の予定では教室で待ち合わせだったのだが、急遽変更のメールを送ったのは十分ほど前のこと。
今の悠に、階段を登るだけの気力はなかったためだ。
「遅いよ、慶二……」
「わ、悪い」
力なく悠が呼びかけると、慶二は手を合わせて謝罪する。
「にしても、お前今にも死にそうだぞ。本当に少しの魔力で大丈夫なのか?」
「う……」
正論だった。
流石に死ぬは大げさだが、全身を倦怠感が覆っているのは事実。
悠は言葉に詰まるしかない。
だが、慶二はそれ以上追及することはなく
「で、どこで魔力を渡せばいいんだ?」
と切り出してきた。
「うん……ここじゃ駄目かな」
「……駄目だろ」
この時間帯、図書室に殆ど人はいない。
それなら大丈夫とばかりに悠は提案したものの、慶二に否定されてしまった。
図書当番や司書など、それでも常駐している人間はいるのだ。
「むぅ……」
待ちきれなくて頬を膨らませるものの、結局上手く説得することは出来ず、二棟の外れの教室へと向かうこととなった。
◆
散々飢えさせられた状況で与えられるそれは、まるで甘露だった。
他の魔力を味わったことのない悠にはわからないが、美楽が言うには慶二も実夏も極上の魔力の持ち主らしい。
平電には敵わないと惚気られてしまったが。
それは兎も角、悠は全身でこの昂ぶりを表現したい衝動に駆られて、ここが学校だということを思いだす。
もう二棟に残った生徒はほとんどいないだろうが、それでも念には念を入れるべき。
必死に悠は声を抑え、手から伝う魔力を受け入れていく。
「んんっ……ふぁぁ……」
それでも身体が悦びに打ち震える度、自然と喘ぎが漏れてしまう。
最早これは夢魔の本能。
抑圧することで逆に異様な興奮を感じる負のループに、悠の心は苛まれていった。
「こんなもんか?」
が、終わりは呆気なかった。
それだけ言って、慶二は悠から手を離す。
名残惜しくて、つい悠は彼の手を目で追ってしまう。
一年前より少しだけごつごつし始めた手。
自分よりも二回りも太い腕で抱きすくめられたら、どれだけ心地良いのだろう。
いっそ、潰れるぐらいぎゅっとして欲しい。
悠の表情に浮かぶのは、半ば陶酔に近いものだった。
「おい、悠?」
「わぁっ!?」
肩を掴まれることでようやく我に返り、悠は小さな悲鳴を上げる。
「う、うん。大丈夫だと思う」
随分と体は楽になった。
楽になったのだが――
「はぁ……」
物足りなくて、悠は落胆のため息をついた。
彼の魔力を受けたのは五分に満たない。そのためまだまだ満腹とは言い難いのだ。
未だ彼女の手は、熱を持ち続けている。
――もっと彼の身体に触れていたい。
そんな気持ちが沸々と湧いてきて、悠は自分を諌めた。
昨日、彼に負担をかけないため少しでも男の子らしくすると決めたばかり。
それをあっさりと破るとは、意志薄弱にもほどがある。
「……そろそろ帰ろうか」
心を入れ替えるため、悠はそう促すと立ち上がった。
◆
帰り道。
ほんの少しだけ暗くなった道を悠と慶二は歩き続ける。
「今日は転ぶなよ」
「そんなにいつもいつも、転ばないよ!」
軽口を叩きつつ、一日の間会った出来事を話題にしていく。
「そういえば、今日の練習どうだったの?」
「練習? ああ……リレーか。あれはなあ……」
突然言葉に詰まった慶二を訝しみ、悠は横目でちらりと彼の表情を窺った。
苦虫を噛み潰したような顔。
「ど、どうしたの?」
先ほどまで上機嫌だったというのに。
豹変に悠が心配して声をかけると
「青組、負けるかもしれん」
「え……?」
返ってきたのはあまりの弱気な台詞だった。
たまらず悠が足を止める。
「愛子とミミがな、険悪すぎて足並みが全然揃ってない」
組別対抗リレーは、公平さを期すためか順番はある程度固定らしい。
男子生徒二人が走った後は女子生徒二人。これを各学年ごとに繰り返すのだ。
「凄いな。リレーってのはバトン渡すだけだと思ってたんだが、あそこまでちぐはぐに出来るのは才能だと思ったわ」
慶二の言葉は一種他人事だった。悪い意味での感嘆すら含まれている。
もしかしたら、呆れているのかもしれない。
「……僕のせいかな」
悠には原因が自分だとしか思えない。
元から仲の良くない二人だが、場を弁えず周囲を巻き込むほどではなかったはずだ。
「あいつらが勝手にやってるだけだから、悠は悪くねえだろ。もっと言えば、仲の悪さを知っていて選出した鹿山が一番悪い」
「……ありがと」
それにしても奇妙なことである。
確かに、猪田のことを姐さんと慕う鹿山が、何を思ってこのような火種を仕込んだのか。
悠はあり得る可能性を出来る限り想像してみたのだが、結局答えはでなかった。
「今朝はミミちゃん機嫌よかったのになあ」
「ん? 今更だが、一体朝の話、なんだったんだ?」
慶二の疑問はもっともだ。
悠はありのままを伝えようとして――寸前で止めた。
他人の色恋沙汰を、勝手に話して良いものだろうか。
悠は色事に疎い。
恐らく目の前の親友も同様だろうが――プライバシーというものがある。
親しき仲にも礼儀あり。
いや、親しく、相手が慶二の兄だからこそ細心の注意を払うべきかもしれない。
悠はそう考えたため
「慶一さんに訊いてみるのがいいと思う」
とだけ答えることにした。
もし彼が慶二に話したのならば、問題のある事柄ではないのだろう。
「兄貴が? ああ、ミミのやつ、兄貴に相談したいことがあったとか言ってたな」
どうやら納得したようである。
結局そのまま話題は移り変わり、二人がこれ以上実夏たちについて触れることはなかった。