四十三話 これが、これからの僕と彼の関係らしい。
それ以降、お互いに無言だった。
ただただ、夕暮れの中を歩き続ける。
もう十分もかからない帰り道のはずなのに、悠には時間が永劫のように感じられる。
何か、他愛のない世間話でもいい。
釈明も説明もいらないから、声が聞きたかった。
しかし、彼が言葉を発することはない。
そうして二人が一間家に辿り着いたとき、日は完全に沈んでいた。
◆
慶二が器用に悠を背負ったままインターフォンを押すと、美楽が現れた。
「悠が足を挫いて……」
先ほどまでの沈黙が嘘のように慶二は事情を説明し、悠を美楽に託すと、そそくさと自宅へ帰っていく。
悠は引き留めたい衝動に襲われたが、喉が塞がれたかのように声が出ることはなかった。
「大丈夫?」
「うん……」
心配そうな美楽の声に、悠は一言だけ答えた。
地面に立ってみれば、すでに痛みは引いている。軽い捻挫だったらしい。
「足、安静にしてなきゃ駄目よ?」
「わかってるよ。……疲れたからちょっと部屋に戻ってるね」
悠は手すりに力をかけ、ゆっくりと階段を登る。
運動会が近いのだ。
参加する種目は多くないとはいえ、組の仲間に迷惑をかけるわけにはいかない。
◆
悠は自室に戻るとベッドへ倒れ込んだ。
何もする気になれず、ただぼけっとうつ伏せで寝転ぶ。
このままだとワンピースに皺がよってしまうかもしれないが、今の気分では些細なことだった。
『このままだと、もしかしたら俺とお前は親友じゃなくなるかもしれない』
悠の頭の中を、何度も同じ言葉が駆け巡る。
『俺たちの関係が変わらなければ、ずっと親友ってことだよ!』
夏休みのあの日、そう言ってくれたのは慶二ではなかったのか。
「意味わかんない……」
悠の口から漏れたのは、偶然にもあのときと同じ言葉だった。
しかし、込められた感情が大きく異なる。
以前の言葉には、喜びが込められていた。
不器用ながらも、精一杯答えようとしてくれる彼への親しみ。
だが、今回のそれは失意。
十年来の親友が、どうしてそんな酷いことを言うのかわからない。
――僕はそんなに彼の気に障ることをしていたのだろうか。
虚ろな心に、そんな思いが紡がれていく。
もしかすると、魔力供給も気持ち悪いと思われてたのかもしれない。
思考がどんどん悪い方向へ流れていくのを頭では理解しているが止められない。
親友に嫌われてしまったらどうしよう。
悠の心の中に澱みが溜まっていく。
――こんなことなら、女の子にならなきゃよかった。男の子に戻りたいよ……。
ぽろぽろと涙が零れ、シーツを濡らしていく。
止めようと思っても止まらなくて、このまま意識を手放そうかと思った瞬間――
窓をこんこんと叩く音が響いた。
◆
「ひぃ!?」
先ほどまでの気分はどこへやら、悠は悲鳴を上げ、飛び起きると扉の近くまで後ずさった。
時間が時間なので、窓にはカーテンが閉められている。
布に遮られ、何も見えない。
こんこんという音は続いていた。怖い。
まさか、お化けではないのか。
悠は自分の想像に慄き、身を竦める。
それが良いのか悪いのかはわからないが、不審者という発想はない。
悲しみが恐怖に上書きされ、涙が止まっていることに悠は気づかなかった。
悠が恐怖に取りつかれていると、ようやく音が止んだ。
ほっと一息――つくことが出来たのは束の間だけだった。
それから少しして、バッグの方から振動音が聞こえてきた。
びくりと悠の身体が跳ね上がる。
恐る恐る、バッグを開けて、悠はようやく原因に気づいた。
スマホである。
そういえば映画館に入るときにマナーモードにしていたのだ。
着信名は――慶二。
逡巡したものの、悠は意を決して通話ボタンを押した。
『あ、悠か?』
「う、うん……」
『すまん、窓開けてくれ』
「え……?」
急いで悠は窓際へ向かう。
無地の青いカーテンを開けると――そこにいたのは慶二だった。
一間家のベランダに仁王立ちし、悠と視線が合った途端、彼にしては珍しくいたずらっ子のような笑みを浮かべる。
殆ど反射的に悠は窓を開けてしまっていた。
帰り道の言葉に思うものがあったはずなのに。
「何年振りだろうな、こうやってお前の部屋に入るの」
「……どうして?」
「昔は、よくこうやって遊んだだろ? 夜、ベランダから悠の家に入って――」
お互いの会話が噛みあっていない。
しかし、それを構わず悠は半ばヒステリックに捲し立てた。
「どうして親友をやめるなんて酷いこと言うの!? 僕は、ずっと親友だと思ってたのに! 嫌だ! 僕は慶二とずっと親友がいい!」
「……やっぱり、勘違いしてたか」
「勘違い……?」
意味が分からなかった。
何が勘違いだというのか。
「すまん、言葉足らずだった。詰ってくれてもかまわねえ」
「どういうこと……?」
だからちゃんと言葉にしてほしい。
悠はそう問い詰めたい衝動に駆られる。
「俺は、悠と親友をやめたいわけじゃない。ただ……」
「ただ?」
「悪い……。今は無理。これからずっと悠が女の子のままだったら言うわ。それまでは、もうちょっとこのままで頼む」
流石の悠も、若干の理不尽さを感じなくもない。
でも、それ以上に
「本当?」
安堵の気持ちの方が強かった。またぽろりと涙が落ちる。
「本当だ」
「本当に本当?」
「だから本当だって」
悠は何度も子供のように繰り返す。
慶二は呆れたように苦笑し
「言ったろ? 現状維持だって」
ぽんと頭を撫でた。
その感触に、悠は微笑み――
「うん、僕も、もうちょっとだけ男の子らしくする。慶二に嫌われたくないから」
と言う。
何か関係性を変えようとしている親友に負担をかけぬよう、自分を律しようと考えたのだ。
「いや……だから、そういう意味じゃないんだが……あ」
「?」
慶二は何かを言いかけようとして、止めた。
「……お邪魔してます」
意味が分からず、悠が振り向くと――そこにいたのは、般若のような顔をした美楽。
「慶二君、夜遅くに遊びに来るのはいいのよ? いつも悠がお世話になってるんだし」
優しげな声が余計に恐怖を煽る。
怒りの矛先が向いていない悠でも竦み上がるほどである。
「でも、心配した近所から通報されるようなことは慎んでほしいのよねぇ。入るならちゃんと玄関から。わかる?」
急いで正座になり、こくこくと何度も頷く慶二。
どうやら、慶二は近隣の住民に泥棒と間違えられたらしかった。
それも対岸の火事ではない。
今度は悠の番だった。
「悠も、ちゃんと慶二君にそう伝えなさい! 新しいゲームで遊びたいのはわかるけど、もう中学生なんだから……」
悠にとっては冤罪なのだが、正座のまま二人並んでいると妙に懐かしい気持ちがこみあげてきて、ふふっと笑ってしまう。
結果反省の色なしと見られ、この後二人は無茶苦茶説教された。