三十七話 甘い香りが芳しい。
昼食を終えると、悠たち二人は鹿山たちと別れた。
彼らはこれからゲームセンターに向かうらしい。そこで“姐さん”こと猪田と合流するのだとか。
「二人に会えてよかったね」
ショッピングモール内を歩きながら悠が言う。
次の目的地は映画館。
海外資本の系列会社で、リバーシティ四階のほとんどを占めているのだ。
「ああ、日曜日とはいえあんなに混んでるとは思わなかった」
悠の少し前を歩きつつ慶二が答えた。
モール内も少し混んではいるが、フードコートと比べれば随分快適といえる。
慶二の答え以外にも、悠としては含みがある。
どうにも二学期になってから彼女と鹿山たちは疎遠だった。
勿論猪田が目を光らせていることも関係しているのだろうが、それにしても話す機会が少なくなったと悠は思う。
「慶二、今何時?」
ふと気になって悠が聞いた。
今日、悠は腕時計をしていない。
というより持っていないのだ。
理由は単純。スマホで確認すれば十分だと考えているから。
実際、男子のころは適当にポケットから取り出せばすぐに確認できた。
しかし、今日の服装にはポケットがない。
仕方がないので、財布やハンカチといった必需品は小さなバッグの中に入れている。
先ほど購入したゲームも同様だ。
ふと確認したくなった時――それも歩きながら――カバンから取り出さなければならないのは手間で、悠は生まれて初めて腕時計が欲しいと思っていた。
「一時十分だな、急ぐか」
どうやらフードコートでは昼食だけでなく時間も食ってしまったらしい。
慶二は立ち止まり、腕時計を悠に見せながら答える。
カラーはブラックで、歯車のような意匠が施されている。当然のことながらメンズ。
シックな質感のそれは、誕生日プレゼントとして買ってもらった自慢の一品らしい。
「……いいなあ」
「どうしたんだ? 悠にしては珍しいな」
少年は怪訝な顔をしていた。
思い返してみれば、自分が彼の腕時計を羨むようなことを言ったのは初めてだと悠は気づく。
「ええっと。……歩きながら話そっか」
確か映画の時間は一時半からだったはず。
悠は、立ち話をしている間はないと考えて、再び歩み始めた。
◆
「なるほどな」
券売り場前の行列で慶二が呟いた。
腕時計の件についてである。
最初は早歩きをしながら話していたのだが、それでは間に合いそうにないと慶二が告げた。
次第に駆け足気味になると、早々に悠の息が切れ、やっぱり後で話すことにしたのだ。
慶二の判断は正解だった。
券売り場には長蛇の列。早歩き程度では間に合わなかったかもしれない。
今までの状況を考えれば当然のことなのだが、休日の映画館の混雑は悠の予想以上だったのである。
時刻は一時二十分前ぐらい。
二人の現在地は列の中腹。この分ならなんとか間に合いそうだと安心し、雑談を再開したわけだ。
「ポケットがないって不便だよね」
悠はワンピースの腰のあたりをひらひらさせる。
決して丈は短くないのだが、それでも衆目を引く行動だった。
しかし彼女はそれに気づくことはない。
「こほん……俺にとっては、女子のスカートにポケットがあること自体驚きだ」
咳払いをしながら慶二。
「うん。僕も。着てみてわかったけど、ミミちゃんとか胸ポケットにスマホ入れてないのにどこから取り出してるんだろうって思ってた」
普段好んで着用するジーンズは、丈や腰回りの違いはあるものの、男性用とあまり変わりがない。
二番目に着る機会の多い制服のスカートにはポケットが存在した。
そのため、完全にポケットのない服は今日が初めてのこと。
悠は今頃になって女性がバッグを持ち歩いている理由に気づいたのである。
「まあ、普通は自分が履くなんて思わないしな……」
「なんなら、慶二も一度履いてみる? 意外と新しい世界が開けるかもしれないよ?」
しみじみとした慶二に、悠はおどけるように返す。
「履かねーよ!」
「あはは、冗談冗談。腰のあたりが破れそうだし」
二人は雑談に興じているうちに、随分前の方に進んでいた。
恐らく次ぐらいには順番が回ってくるだろう。
慶二が切り出したのはそんなタイミング。
「そうだな……映画終わってから時計見に行くか?」
「うん!」
ひょんなことから空白の予定が埋まったのだった。
◆
なんとかチケットを買えた悠たち。
トイレを済ませ、それでもほんの少しの余裕があった。
券売り場に反して空いているフードコーナーで飲み物を買おうとなったのだが、思わぬ伏兵が待ち構えていた。
ポップコーンである。
実は、行列に並んでいるときからぷーんと甘い匂いが立ち込めていて、気にはなっていた。
――食べたいなあ。
心惹かれるものはある。
しかし、彼女は昼食を済ませたばかりなのだ。それに映画館のポップコーンは最小でもやけに量が多い。……だというのに値段は割合高め。
もし空腹だったとしても悠には食べきれないだろう。
こんなことなら昼食は抜きでもよかったかもしれない。
でも、無性に甘いものが食べたい気分。
後悔先に立たずというやつだ。
食欲と理性の狭間で少女は立ち往生。
館内の時計はすでに二十五分を指していた。残念ながら迷っている時間はない。
「もしかして、ポップコーン食べたいのか?」
その様子で慶二は察したらしい。
悠はこくりと頷いた。
「でも、多分食べられないと思って……あ。そうだ!」
妙案が思い浮かび、少女は手を叩く。
「お金は僕が出すから、慶二も食べてくれない?」
流石にタイトルネタがなくなってきて辛い。