三十四話 彼女の歩みはたどたどしい。
翌日、悠は目覚ましが鳴る前に目覚めた。
寝坊しがちな彼女にしては珍しい。だが、悠は原因に心当たりがあった。
胸を高鳴らせる期待感である。
――楽しみすぎて早起きするなんて、ますます子供みたいだ。
心の中で呟くと、軽く伸びをして、机の上に平積みされた本に目をやる。
先日の恋愛小説だ。
結局一日で五巻まで読んでしまった。
ついに主人公が黒幕の元に乗り込んだところで六巻に続く。
使い古された引きではあるが、それだけに悠は興味を惹かれる。
昨晩は、布団の中でこれからの展開予想をしているうちに自然と眠りに誘われていた。
もし財布に余裕があれば今日続刊を探すのもいいかもしれない。
悠はそう考えて、支度を整え始めた。
◆
それから二時間後、一間家のチャイムが鳴った。
悠はとっくに朝食を食べ支度を終えている。
つまり、それだけ早く目覚めてしまったということ。
いつもの彼女なら出かける一時間前にようやく――それも母に叱られて――ようやくベッドから顔を出すところである。
悠はいつものように足音を立て玄関へ向かった。
母が
「いい加減廊下を走るのは止めなさい!」
と叱咤したものの、投げやりな返事を返すのみ。
特に時間を潰す手段もなかった悠は待ちくたびれてしまったのだ。
◆
どたどたという足音が聞こえて、慶二は苦笑する。
やはり相手は悠なのだ。昨日は散々冷やかされたが、これは友人同士の付き合いである。
安心感と共にどっしり構えていると、程なくして扉が開かれた。
「慶二、おはよう!」
「おう、おは――」
軽く挨拶しようとして、慶二は言葉を失った。
まず目に飛び込んできたのは水色のワンピース。
まるで鮮やかな青空を想わせるそれは、とても悠に似合っていた。
普段より少しだけ短めのスカートからすらりと伸びた華奢な足が眩しい。
胸元には白い花。レースの刺繍である。
あまり膨らみのない個所をカバーするかのようにあしらわれていた。
その上から包み込むのは白のボレロだ。
フリルがチャームポイントなのだろう。少女の清楚なイメージを引き立てていて、つい目を奪われそうになる。
「……どうかな?」
悠が訊いた。
少し心細げな声。
「……」
答えは無言。
「慶二?」
心配するように上目づかいで見上げられ、慶二はようやく意識を取り戻す。
――見惚れていた。
慌てて返事をしようとするのだが、口がぱくぱくとなるだけで、上手く言葉が出ない。
まるで金縛りのようだ。
「似合わないかな?」
「……いや、悪くないと思う」
少女の瞳が揺れているのに気づき、慶二はようやく喋ることが出来た。
否定の否定。
つまり遠回しな肯定を返すと、悠の顔がパッと華やぐ。
「本当!? ありがと」
「ああ……」
どうして彼女がこんなに自信なさげなのか、慶二にはわからなかった。
比喩ではなく、彼女が歩いていれば十中八九の男性が目を止めるだろう。
だが、彼は自身もそうだったとは決して口にしない。
聞けばこういうことらしい。
このワンピースとボレロは夏休みの時点で購入したものらしい。もっとも上等な、余所行き仕様のもの。
だが、残念なことにそれを使う当てはなかった。
一間家の家族旅行はとうに済ませてしまっていたし、彼らには里帰りする親戚もいない。
悠が女の子になってすぐの買い物は実のところ無駄が多かった。
あと一月で夏は暑さも過ぎ去るだろうに夏物の衣服を大量に購入したのだから当然である。
兎に角、このまま一年寝かすぐらいなら今ここで着てしまおう。
そう美楽が提案したのだ。
「だから、似合ってなかったら困るなって」
悠の思考に、慶二は違和感を覚えた。
しかし、ちらりと脳裏を掠めただけで詳細までは辿り着かない。
「大丈夫だろ。……とりあえず、行こうぜ」
よくわからないもやもやと気恥ずかしさを払拭するように慶二は答えると、悠を促した。
◆
「早く出たのにギリギリだったな」
「ごめん、履きなれてない靴だったから」
悠が駅の時計を見ると、電車の時刻まで十分を切っていた。
家を出たのが二十分ほど前だったので、普段の五割増し時間がかかった計算になる。
普段は通学にスニーカーを履いている悠だが、今日は違う。
少しだけ靴底が厚い黒のパンプス。
これもワンピースに合わせて買ったもので、同じく今まで一度も使ったことがない。
ハイヒールほど踵が高いわけではないが、それでも若干歩きづらくて足が鈍ったのだ。
慶二も彼女に合わせゆっくり目に歩いたのか、普段より随分と時間がかかってしまった。
一月前は「女の子の靴は歩きづらそうだなあ」なんて他人事だった悠だが、今となっては実感する立場である。
「ごめんね」
「いや、どうせ早く来ても電車はないんだしいいんじゃないか」
悠が目を伏せて謝ると、慶二はそう慰める。
「言われてみたらそうだね……」
田舎の耶麻町では、一つ乗り過ごせば次の電車まで三十分かかる時間帯がある。それは通勤・通学ラッシュ以外の時間帯で、例え休日でも同じである。
「利用者が少ないとはいえ、もっと増やしてほしいよな」
「来年から一時間に一本になるって噂があるらしいよ?」
ひょんなことから発展した雑談に興じていると、程なくして電車が到着し二人は乗り込んだ。
◆
休日ではあるが、車内の人影はまばらだった。
時間帯が十時と中途半端なことも影響しているのだろう。
二人掛けの席が空いていたので、慶二たちはそちらへ向かった。
必然的に距離が近くなり、少女の香りが鼻孔を擽る。
シャンプーのものだ。
どちらかといえば刺々しい男性用とは違う、甘いもの。
艶やかな黒髪から漂うそれに、慶二はついどきりとしそうになり自分を諌めた。
そして素知らぬ顔で取り留めのない会話を再開する。
部活の先輩の話、最近の授業の話――話題が尽きることはない。
「そうだ。言っておかなきゃいけないことがあるんだよ」
すると、唐突に悠が切り出した。
「ん? なんだ?」
慶二の反応を受けると、悠は語り始める。