三十一話 母のカレーはスパイシー。
「ふぅ……面白かった」
小説の三巻を二巻の上に重ねると、悠は思わず呟いた。
気が付けば窓の外は薄暗く、時計は七時を回っている。
思いのほか没頭してしまったことに気づき、悠は驚いた。
悠は本を多く読む方だが、決して読むスピードは速くない。
良質な作品であればあるほど、頭の中で情景を浮かべ、文の一つ一つをかみしめるタイプ。
つまりこの小説、実際に読み進めてみればとても面白かったのだ。理沙に勧められたとき敬遠していたのを後悔するほどに。
ファンタジー世界の騎士と没落貴族のお嬢様の物語なのだが、非常にさっぱりとした作風だった。
そこでまず悠の固定観念は崩された。
てっきり、恋愛が主題のマンガや小説は、三角関係とかドロドロしたものばかりだと思い込んでいたのである。なので、今までの悠は基本的にファンタジーや推理系の作品を好んでいたのだ。
作風の理由として、主人公のお嬢様が非常にアクティブかつコミカル。
生活が苦しいにもかかわらず困っている人は見過ごせないし、目の前の理不尽には立ち向かっていく。
それが行き過ぎて暗躍する黒幕の屋敷に一人で乗り込むのだから、ハラハラドキドキだ。つい、手に汗握ってしまう。
――もちろん危なくなればヒーローである騎士が危ないところに駆けつけるのだが。
そんな彼女だが、意中の騎士の前ではつい弱気になってしまう。
騎士は何のために自分を守るのだろうか。ただ、過去に交わした口約束に縛られているだけなのではないだろうか。ふとした時に不安がついてまわる。
悠は、少女の蛮勇ともいえる強さに好感と憧れを抱いた。
それと同時に、時折見せる弱さに対して、共感と胸を締め付けられるような切なさを覚える。
まだ三巻。
ここからどう話が展開されるのか、悠はワクワクを隠せない。
今回借りてきたのは五巻まで。背表紙を見ればまだまだ続刊があるようだが、残念なことに図書館には所蔵されていないらしい。
流石に昼食やトイレの度中断はしたものの、それでも九時間近くぶっ続けで読んでいたことになる。
読後の満足感と、それに伴う倦怠感。
これは決して気持ちの悪いものではない。しかし、込み上げてくる空腹感は別。
もう少し世界観に浸っていたいと思いながらも、悠は一階へと降りて行った。
◆
「あら。えらく静かだからまた寝てるのかと思ったわ」
「ううん。本が面白くてずっと読んでたんだよ」
美楽はキッチンで何やらコトコトと煮込んでいる。
独特な香辛料の匂い。
「もしかしてカレー?」
「アタリよ。最近、どうにも食材が余り気味だから、一気に消化しようと思ったの」
悠は母のカレーが好きなので、内心ガッツポーズを取る。
口ぶりだけならば適当に放り込んだように思えるが、実際はスパイスから創り出したお手間いりのものである。玉ねぎが飴色を通り越して、原型を留めなくなるほど煮詰めるのが秘訣らしい。
「そろそろ、悠も料理を覚えて貰おうかしら」
視線に気づいたのか、振り返った美楽が言う。
普段、悠は皿洗いや洗濯物を手伝うことがあっても、料理は調理実習ぐらいでしかしたことがない。
少し唐突だと思い、
「それは、僕が女の子になったから?」
「いいえ。違うわよ」
と聞けばあっさりと否定されてしまった。
「あなた、全然料理できないでしょ? 男の子のころから気になってたのよ。大分先の話だけど、もし一人暮らしした時に心配だし」
悠は、母の言葉を正論だと思った。
いつまでも両親と一緒に暮らすことは出来ない。進学先次第では、この町を出て別の県に引っ越す可能性もあるのだ。
割かし舌の肥えた悠にとって、スーパーやコンビニ頼りの生活は辛い。
他にも自炊の方が経済的だし、健康にもよい。
そう考えたのである。
「それに、どっちの性別にしろ、料理の出来る子ってのは魅力的なのよ。私が平電さんを射止めたのも、まずは胃袋からだったわ」
「そうなの?」
言われてみれば、両親のなれ初めについて悠は聞いたことがなかった。
少し前までは興味もなかったのだが、先ほどの読書の影響か、面白そうに思える。
「子供に言うのは恥ずかしいのだけど、私は夢魔の中でも落ちこぼれだったのよ」
「え……?」
美楽の言葉に悠は驚いた。
彼女の中の母は、常に堂々としているイメージ。
家事もてきぱきとしていて、ご近所付き合いも欠かさない。立派な専業主婦だ。
そんな母と、落ちこぼれという言葉が重ならない。
美楽は悠を見つめ、くすりと笑う。
恐らく、娘が何を考えているのか推測がついたのだろう。
「もう後は煮込むだけだから。それまで少しお話しましょうか」
美楽はタオルで手を拭きながらリビングのソファへと向かった。
そして悠にも座るよう促してくる。
悠としても自分の中に生まれた疑問を解消したい。
促されるまま座ると、美楽が告げる。
「そのおかげで平電さんと会えたのよ? 私、頑張ったんだから」
図りかねる悠を余所に、美楽は語り始めた――。
タイトルネタとして思い浮かんだだけでカレーは全く関係ありません!