二十九話 母は種族について詳しい。
「ただいまー」
いつものように慶二と一緒に下校した悠が玄関を開けると、普段と異なり靴が二足出ていた。
片方は女性用。母のものだろう。
もう片方は男性用、恐らくは――
「悠。おかえりなさいっ!」
「お父さん!?」
盛大な出迎えをしたのは、父・平電だった。
悠へ抱き着こうとしたのを、寸でのところで悠は躱す。
子煩悩な父が、いきなり飛びついてくるのは悠にとっていつものことである。
ただし、女の子になってからは初めて。
思わず身の危険を感じ、全力で回避したのだ。
……もちろん、男の子のころでも甘んじて受け入れていたわけではないが。
「お父さん、どうしたの?」
塾講師である父が六時過ぎに帰宅しているのは珍しい。
落ち着いた雰囲気から問題があったわけではなさそうだが、怪訝に思い、悠が問う。
「あれ、言ってませんでしたか? 今日はお休みだったんですよ。おかげで随分ぐっすりと寝られました」
平電も子供と同様、朝は弱い。
しかし、仕事の都合上、出来る限り早起きしているだけなのだ。
休みの日、父が昼過ぎまで起きてこないことがあるのを悠は知っている。
「うーん、聞いてないと思うけど」
そういえば今朝はバタバタしていて玄関の様子なんて気にしていなかった。
悠がそう考えていると
「あなた、悠。二人とも、そんなところで話してないで入ったら? 少ししたらご飯にしましょ」
母から声がかかる。
その言葉に悠は空腹を意識し始めた。
いくら少食といえど、この時間になれば腹が減る。
むしろ、食べ盛りの学生であれば買い食いをしていてもおかしくない時刻なのだ。
「うん。その前に制服から着替えてくるね」
それだけ答えると、悠は自室へ向かった。
◆
夕飯は刺身だった。
近所のスーパーで売っている様々な種類の盛り合わせ。美楽にしては珍しく手抜き気味の夕食である。
今日は色々(・・)して疲れたのだとか。
「今日、体育祭の練習をしたんだ」
TシャツとGパンとラフな姿になった悠が言う。
部屋着なので取り合わせは適当。ちゃんとそういうのも意識しなさいとよく美楽に叱られているのは秘密の話。
「ああ、そういえばそんな時期ですねえ」
一間家は日常的に家族の会話が多い。
食事時なんかは積極的に一日の出来事を報告し合うし、出かける時も和気藹々としている。
ドラマで家庭の不和のシーンを見るたび、悠には別世界としか思えなかった。
いつか自分にも反抗期が来るのだろうか?
悠にはまるでイメージできない。
「この時期、体育祭の思い出話を生徒にねだられたりして困るんですよ。私たちはこの世界で学生をした経験がありませんから」
苦笑しながら平電が言う。
ビール片手に、烏賊刺しにわさびをたっぷりつけて頂いていた。
「そうね。小学校のPTAなんかも、ところどころ常識がわからなくて困った記憶があるわ」
「……授業参観のとき、二人とも来たのはちょっと恥ずかしかったよ」
悠は口を尖らせる。
他の生徒の家庭は大抵片方だけなのに、一間家だけ両親勢ぞろい。
気合が入りすぎで流石に浮いていた。
「それだけ悠を愛しているということですよ」
対して平電は臆面もなくそう言い切る。
彼の愛の深さは生来のものなのだろうか。それとも異世界人だからなのだろうか。
悠は疑問に思ったが口には出さない。
「ところで、どんな練習をしたの?」
「応援合戦だよ。今年はあんまり動かなくていいみたいで楽なんだ」
「どういうこと?」
美楽は理由がわからなかったようで、再び悠へと尋ねた。
「一年生だから、とか?」
「ううん、パフォーマンスとして一部の子だけで歌うんだって。僕はそれに選ばれたから、その間踊らなくていいんだ」
オーディションについては触れないでおいた。
「悠は歌上手いですからね。幼稚園のお遊戯のときも……」
「……その話はやめて」
悠は一変して渋い顔になる。
幼いころを話のネタにされるのは、いくら両親といえど穿り返されてるようで恥ずかしい。
「まあ、夢魔って種族自体が上手いのよね」
「そうなの?」
美楽の言葉に悠は興味を惹かれた。
言われてみれば、彼女は自分の種族をほとんど知らない。
異性の魔力を吸わなければ生きていけないとしか聞かされていないのだ。
今更とはいえ、無関心すぎたかもしれない。
悠はそう考え母に問いかける。
「うーん。そのあたりは、ご飯のあとに話してあげるわ。さ、手が止まってるわよ。ちゃんと食べなさい」
「う、うん」
促されると、悠は好物の鮪の刺身に手を付け始めた。
少量のわさびを乗せ、しょうゆにつけて口の中へ放り込む。
そうしているうちに、元から少なめだった白米は消え、御飯茶碗はあっという間に空になった。
◆
「じゃあ、ご飯のときの話の続きをしましょうか」
食後からしばらくして、悠がお茶を啜っていると美楽が切り出した。
一家の大黒柱である平電が風呂へ入ったタイミング。今、リビングには悠と美楽二人しかいない。
「それって、夢魔について?」
「そうよ。もっと早くに話してもよかったんだけど、悠がその姿に慣れてきてからの方がいいと思ったのよ。……それが裏目に出たかもしれないわね」
悠は、美楽の言葉に疑問を覚えた。
そんなに自分は順応しているだろうか。そんな気持ちが湧きあがってくる。
「まだ、慣れてないと思うよ……?」
先日、同性と一緒に着替え、赤面したばかり。
悠としては、自分は今女の子でも男の子でもない宙ぶらりんな状態だと思っている。
「それにしてはスカートに抵抗なくなってきたみたいじゃない?」
美楽の返しを受け、悠は言葉に詰まった。
いつの間にか平然とスカートを履くようになっている。
初日はあれだけ抵抗があったのに、だ。
椅子に座るときはスカートを敷くよう注意しているし、足も極力開かないよう気を付ける。
ごく自然に、女子としての動作が身に付きつつある。
それに、今日の応援合戦の準備のときも、迷わず自分は女子の列へ並んだ。
壇上で歌うときも、女の子の歌声であることに喜びを感じても、抵抗はなかった。
「でも、昨日、女の子と一緒に着替えたときは恥ずかしかったよ?」
――そうだ。僕は、まだ完全に女の子になったわけじゃない。
「そうね。そのあたりはまだまだ「慣れてきた」止まりってことなんでしょ」
反論をあっさりと母に肯定され、悠は拍子抜けしてしまう。
もっと手厳しい返しが来るかと思っていた。
――いや、別に否定されたかったわけじゃないはずだ。
何もおかしくない。
そう悠は自分に言い聞かせる。
「それで、夢魔についてってどういうこと?」
「悠はキンカチョウって鳥を知ってるかしら?」
突然話題に挙げられても聞いたことのない鳥だ。
悠は首かしげ、「知らない」とだけ答えると次の言葉を待つ。
「歌声で求愛するタイプの鳥なのよ。私もこの世界に来て初めて知ったんだけど」
「それと何か関係があるの?」
話が見えなくて、悠としてはもどかしい。
だが、美楽は気にした様子がなく続ける。
「夢魔も似たところがあるのよ」
「えっと、もしかして」
「――異性を誘惑する時に、自分の歌を使うの。呪歌っていうんだけど……だから種族の特徴として上手いのよね」