二十三話 あの思い出が懐かしい。
昼食を終え、一しきりお喋りを楽しんで悠たちは教室に戻った。
それと同時に予鈴がなったので、各々は自分の席に着く。
ちなみに、悠は窓際の一番後ろの席だ。隣には理沙。
席順はくじ引きで決まった。偶然とはいえ、親友と隣接した配置だったのは幸運である。
開け放たれた窓からのそよ風が気持ちよくて、彼女は目を細める。
程なくしてチャイムが鳴り、先生が入室すると、授業が始まった。
◆
五時間目は英語だった。
教師の名は山科 寛人。
三十代過ぎぐらいの、落ち着いた物腰から生徒に評判の良い教師だ。生徒指導も受け持っていて、頭ごなしに叱りつけるのではなく、学生の言い分をちゃんと聞いてくれる。
そのあたりが人気の理由。
二学期最初の授業ということで、まずは軽いおさらいから始まる。
文法のルールを解説しながら板書していく。
それが一区切りつくと
「えーっと、では例文を読んでもらいましょうか」
山科は生徒たちを見渡した。
……明らかに一人、目立つ生徒がいる。
悠である。
ここ数日の間、職員室でも話題の少女だ。
やれ、「配慮を」だの「性差別を起こさないよう」だの、連日、職員会議の議題の一つとなっているのだ。
山科としては、そこまで心配することではないと見守る方針。
彼は、自分なりに生徒間の人間関係は把握しているつもりだ。例え、少しの問題があっても友人たちの手助けが支えとなるだろう。
教師が余計な口出しをする方が、話をややこしくするのではないか。
そう考えている。
とはいえ、現在の彼女はとてつもなく目立つ。
出来る限り身を縮ませながら、教科書で顔を覆い隠すスタイル。
明らかに「当てられたくないです」と全身で主張している。
皮肉なことに、却ってそれが教師の目を引いていると、悠は気づいていないのだろう。
山科は苦笑しながら
「では、一間さん。お願いします」
容赦なく少女を指名した。
◆
「は、はい」
慌てて悠は席を立った。
――うー、どうしてこういうときに限って当たるのかな。
なんて内心ぼやきながら、悠は一度大きく深呼吸をした。
そして、教科書を構え、発声する。
「はうめにーどっぐすどぅーゆーはぶ」
――恐ろしいほどの棒読みであった。
一切の抑揚がなく、まだカタカナ英語の方がマシと言えるレベル。
山科は一瞬呆気にとられたものの、すぐに
「……ありがとうございました。着席していいですよ」
と促した。
悠は着席と同時に緊張が緩み、一息。
単語を覚えるのは得意だが、発音は苦手なのだ。
生来の恥ずかしがり屋も相まって、流暢な発音が出来ない。結果、ただただ平坦なそれとなる。
当人としては早々に治したい欠点ではあるが、一学期を終えた今でも改善の見込みはない。
「次の例文は――そうですね、隣の仁田さん、お願いします」
「はい」
隣の友人は朗々とした発声を披露した。
外国人顔負け。文句なしの満点であろう。悠が聞いたところ、理沙は夏休みの旅行中、通訳を要せず自力で地元のスタッフと会話していたらしい。
彼女の将来の夢は世界を股にかけ活躍することで、その一環だとか。
以前、悠は理沙に指導を頼んだことがある。その際の返答は
「慣れですよ、慣れ。場数を踏めば自然と上達します」
……残念なことに、悠はまだまだその境地に辿り着けそうにない。
――憧れるなあ。
悠は羨望の眼差しで、隣の少女を見上げる。
才色兼備でおしとやか。まるで大和撫子のような彼女は、全ての女性にとって一つの理想ではないだろうか。
「どうしました?」
そんな悠に、席に着いた理沙が小声で話しかけた。
「あ、ううん。凄いなって思って」
「ありがとうございます。悠さんも、私には真似できない朗読でしたよ」
「あはは……」
――こういうところだけは問題だけど。
悠は苦笑いでお茶を濁しながら、授業中なので会話を打ち切った。
◆
五時間目の終わりを告げるチャイムが響いた。
木曜はこれで授業は終わり。楽しい放課後の幕開けである。
「今日は久々に部活だね、慶二」
「おう、テスト習慣はかったるくて困るぜ」
悠がそういうと、慶二は肩を回し、ぼきぼきと音を立てながら答えた。
放課後だからといってすぐに部活に向かう必要はない。いつも、二人は五分ほど会話を楽しんでから各々の部活へと向かう。
一学期から続く日常である。
「夏休みもそんなに練習があったわけじゃないしな」
耶麻中サッカー部は県内で強豪なのだが、独特の気風を持つ。
それは、過度の練習が学業や青春の妨げになってはならないというスタンスである。
そのせいか、部の雰囲気も緩い。
勝利よりも楽しむことに重きを置いているのだ。
和気藹々とした雰囲気がチームの好プレイを呼び、それが勝利を引き寄せる好循環が生まれていた。
慶二は兄からそれを聞いていたものの、当初は困惑していたらしい。
が、入ってみればあっさり順応してしまった。
練習量が物足りないのは不満だが、一年生でも伸び伸びプレイできるのは楽しい――なんて溢していたのを悠は知っている。
先輩たちも――兄の評判込みで見られるのは癪みたいだが――後輩だからと差別することなく、接してくれているようだ。
「悠も、サッカーやればよかったのにな」
「うーん、僕は体力ないから足引っ張っちゃうよ。それに、今はこんなだしね」
悠は、スカートを視線で示し困ったように笑った。
「……そうだな、すまん」
詫びる慶二。
だが、彼女は優しい目で幼馴染を見つめていた。
悠は、慶二にサッカーに誘われるたび、幼いころの出来事を思い出すのだ。
◆
幼稚園のころの話である。
あまり外で遊ばない悠を、慶二がサッカーに誘ってくれた。一緒に遊ぶのは慶二の友人の男の子たち。
普段話したことのない子供たちに、悠は少し緊張気味でゲームに加わった。
運動音痴の悠は何度もボールをとりこぼしてしまい、その度ゲームが中断される。
自然にテンポが悪くなり、遊ぶ時間が削られていく。
「……もうこんなやつ誘うなよ」
誰かがそんな心無い一言を呟いた。
彼としては、ゲームの邪魔でしかない悠が目障りでしかなかったのだろう。次第に、他の子供たちも同調していく。
気の弱い悠は言い返せず、ズボンの裾を掴み、唇を噛むしかなかった。
子供は時に恐ろしいほど残酷だ。
異物を容赦なく排除しようとする。多数決の前に、悠には抗う術はなかった。
「ごめん、……僕抜けるね」
涙を堪え、震える声で断り、悠が背を向けようとした――そのとき、慶二が言った。
「なら俺も抜ける。お前らとはもう遊ばねえ」
そのとき、悠が見たのは、顔を真っ赤にした幼馴染の姿だった。
彼の手は震えている。いつもなら、いじめっ子への義憤に駆られてのものだ。
だが、悠はすぐに、今回の震えの原因が怒りでなく恐怖だと理解した。
慶二は同年代の男子のリーダー格だった。いつでも遊びの中心には彼がいたし、その役割を担うだけの力があった。
それでも、多数に対し立ち塞がれば、一瞬で立場を失いかねない。
今回の相手は、仲の悪いいじめっ子ではなく、慶二にとっての友達である。下手をすれば、自分も異物として扱われ仲間外れにされる。
だというのに、慶二は悠のために立ち上がった。
悠の頬から涙が零れる。悲しみではなく、嬉しさから。
それが、彼らが本当の意味で親友になった瞬間だった。
◆
それから、何度も悠と慶二はボール遊びをした。
たった二人なのでサッカーとは到底言えないものだったが、悠にとってとても楽しい記憶。
小学校に上がると慶二は町のサッカーチームに所属し、悠はインドア趣味の少年に育った。
以降、二人が同じチームでサッカーをプレイしたのは体育の授業ぐらい。
それでも二人の友情は変わることはなかった。
悠は思う。
二度と二人でチームを組んでサッカーをすることはないだろう。悠が女性化し、機会は永遠に失われてしまった。
――こんなことなら、もっと真面目に授業受けておけばよかったかな。
そんなことを考え、幼馴染をちらりと見る。
「どうした? 悠」
「ううん、僕部活に行くね。じゃ、また帰りに」
なんだか悠は無性に恥ずかしくなり、照れ隠しも兼ね教室から飛び出した。
ちなみに悠を仲間外れにした子とは慶一の介入もあって仲直りしました。
慶二にとっては兄貴すげえと同時にちょっとしたコンプレックスを抱いた一幕。