十九話 これが、これからの僕と彼女の関係らしい。
『ううう、悠。勉強教えて?』
他のクラスメイトより随分遅くに帰宅した悠が昼食を終えると、一通のメールが来た。
実夏からだった。
泣いた顔のような絵文字も付け加えられている。
案の定、忘れ物はまだ終わっていなかったようだ。
『わかったよ。テスト勉強も一緒にしよう』
悠は、すぐに返事を行う。
夏休み明けには実力テストがあるのだ。出題範囲は夏休みの宿題から。
実質的に一学期全てからなので、かなり広い範囲といえる。だが、担任の木戸が言うには、ちゃんと自力で宿題を終えていれば問題ないらしい。
悠は早々に宿題を片づけてしまったので、記憶が薄れている部分がある。
それでもさっと目を通すだけで十分だろう。
こういうとき、日ごろの研鑽がものをいう。
一緒に勉強するのは、復習にちょうどいいと考えたのだ。
慶二と理沙にも聞いてみる。
二人の返答はNO。
『疲れたので寝る』
『お稽古があるので難しい』
とのこと。
そうして三十分ほどし、自宅のチャイムが鳴った。
◆
実夏の家は、耶麻中を挟んで悠、慶二の家とは反対方向にある。
小学生のころは二人の近くに住んでいたのだが、実夏の中学入学より少し前に父が昇進。結果、念願のマイホームを購入し、引っ越しとなった。
そのとき悠は、実夏が転校するのではと勘違いし大混乱に陥った。今となっては幼馴染の笑い話である。
結局、学校は変わらなかったものの、通学路は別々になってしまった。
実夏にとって、幼馴染との登校は日常であった。
新築の家は気に入っているが、それが失われたのは少しショックな出来事だ。
代わりといってはなんだが、近くに理沙の家がある。
純日本家屋の豪邸だ。
随分歴史のあるものらしいが、手入れが行き届いているので美しい。
しかし、彼女は毎日、専属の運転手に送迎してもらっている。
当人としては実夏と一緒に登校したいらしいが、防犯上の面で許されないらしい。
まあ、たまに寝坊したときに連絡して乗せてもらっているのだが。
そんなわけで、今では随分と離れてしまった幼馴染の家を目がけて実夏は自転車を走らせていた。
当然のこと、服装は動きやすいパンツルックである。
制服ならともかく、わざわざスカートを履いて自転車に乗るのは面倒くさい。色々捲れないようにするのも面倒だし。
意気揚々と進む彼女の視界は、ある男性を捉え――。
◆
実夏の到着を待つ悠は、少しドキマギしていた。
冷静に考えれば、告白の後二人きりで過ごすのは今日が初めてである。
リバーシティに出かけた日は母がいたし、勉強会には幼馴染たちの姿があった。
すでに想いは破れ、見込みがないのは理解している。
そもそも、女の子になってしまった今では結ばれることはないだろう。
だというのに、どこか浮ついた気分。
恐らく、想いの残滓がほんの少しだけ自分の中に残っているのだろう。
悠はそう分析した。
――ピンポーン♪
――来た!
分析しても冷静でいられるかは別の話。
慌てて悠は階段を下り、実夏を出迎えに行った。
玄関に向かうと鍵を開ける。
夏休み前の一間家なら鍵など開けっ放しだっただろう。
女の子になった次の日
「家に一人きりの場合防犯のため鍵をかけるように」
と母に口を酸っぱくして言われてしまった。
今、美楽は買い物に出かけていていないのだ。
つまり、これから家に二人きり。
それが余計、悠の心をもやもやさせる。
「いらっしゃ――い?」
悠は、元気よく出迎えたつもりだった。
しかし、最後は上ずった疑問形。
理由は簡単。
目の前の少女――実夏が、泣きそうな顔をしていた。
「ど、どうしたの?」
高揚感はきれいさっぱり消え去った。
悠は慌てて訊く。
「……なんでもないわ」
なんでもないということはないだろう。
悠はそう思った。
実夏は、今にも崩れ落ちそうな、危うい雰囲気を纏っている。
「いいから。勉強、教えて」
声は震えていた。
「う、うん」
何と答えればよいかわからず、悠は実夏を招き入れた。
「……落ち着いたら、言うわ」
「……わかった」
悠は、目の前の幼馴染を信じるしかなかった。
◆
結局、宿題の問題集が終わるまで一切の雑談はなかった。
交わされる会話は、数学の方程式といった勉強関連のものだけ。
こんな実夏は珍しい。普段なら悠としても大歓迎。
だが、今の彼女は勉強に集中しているのではない。
何か、想いを振り切るように――
想いのはけ口を求めるように――
普段取り組まない勉学に励んでいる。
悠にはそう思えてならなかった。
「少し、休憩しようか」
いつの間にか湯飲みの麦茶が空になっている。
「……うん」
実夏も了承。
悠は一階に降りると適当な茶菓子を見つくろい、部屋に戻る。
ぱり。
ぱりり。
煎餅の割れる音が部屋に響く。
「あのね……」
実夏が重い口を開いた。
「うん」
「悠に言うのはおかしいってわかってるけど――」
「いいよ。言って」
彼女がまた口を噤みかけたので、悠は促した。
「この間、あたしも好きな人がいるって言ったよね」
「……うん」
悠にとって苦々しい思い出。
そのときから、誰のことなのか気にはなったものの、なんとなく恐くて触れられなかった。
「来る途中、その人が、知らない女の人と……楽しそうに一緒に歩いてたの」
悠は無言。
だが、視線で続けるよう示した。
「『誰?』って声をかけたかったけど、怖くて、言えなかった」
「そう……」
「それで、頭の中ぐちゃぐちゃになっちゃった。ごめんね、悠に……。告白してくれた相手に……。何話してるんだろ、あたし」
あははと自嘲するように笑った後、実夏は俯いた。
その際、目にきらりと光るものが見えたのは、悠の気のせいだろうか。
「ううん、わかるよ」
悠は自分のことを想い返す。
目の前の少女に片思いしている間、彼はとても嫉妬深い男の子だった。
何せ、親友の慶二にすら妬いたのだ。
悠は、ゆっくりと近づくと、震える実夏を抱いてやった。
「悠ぁ……」
「少し、こうしていよう」
悠の体躯は小さかったが、実夏にはとても暖かく感じられた。
実夏の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ、嗚咽が漏れる。
「うん、大丈夫だから」
実夏を慰める悠の胸の内からは、想いの残滓は消え去っていた。
ただ、同性の少女への友情だけが胸にある。
――多分、男の子のままじゃこんな慰め方は出来なかった。
もしこの場にいたのが彼であれば実夏はここまでの弱みを見せなかったであろう。
このとき、悠は初めて、女の子になってよかったと思えた。