完結集
異様な旅人
『ゲンゴ!もう行くよ』
コミューンのガーデンに置かれたベンチで
仲良くなった西洋人のマ・の膝を枕に
まるで彼女の飼い猫のように身を預けているオイラに
バンドマネージャーを担当している
スワミ・スンドラムが
疎ましそうな表情で告げた。
(あっ!そうだ、バンドツアーがあったな)
パチッとスイッチが入り
彼女の膝からムクッと起き上がった
彼女はその様子をしばらく観察していたが
黙って遠くの空を見ているオイラを見て
アバンチュールが終わったことを察し
あっさりと去って行った
そのあとには何の恋の痕跡も残っていなかった。
見事なもんだ。
その日の夕方、バンド仲間と共に
三年目のOSHOコミューンをあとにした。
マイアミ、ジャマイカとバンドの旅を終え
単身でニューヨークに向かい
友人のアパートなどでしばらく滞在し
一文なしで日本に戻った頃のオイラの風貌は
一般の社会人から見ると、かなり異様であったみたいだ
『これはなんや!』
『タバコです。』
大阪国際空港の出口を出ようとすると
取調室に連れて行かれ、
リュックの中身を念入りに物色していた係員が
ポリ袋に残っていた巻きタバコの葉っぱを片手で持ち上げ
マリワナでも見つけたかのようなトーンで尋文したりしたが
違法な物は何も出ず
『しかしあんた、土産も何もないんか?』
『えぇ、まぁ。。』(大きなお世話だ)
今でこそバックパッカーなどと呼ばれ
リュック一つで安宿やドミトリーで寝泊りしながら
海外を旅する者のことは認知されているが
まだ日本じゃそんな奴は希少だった時代だ
取調員は不思議そうな顔をしながらも
取り調べをあきらめ、無事日本に入国できた。
空港出口を出ると、兄が車で迎えに来てくれていた
電話でお金がないことを伝えていたからだ
ちょっと待ちくたびれた様子の兄はオイラを見つけると
一瞬、安心したように微笑みかけたが
すぐに顔色が変わった
彼の運転する車で
大阪の下町に着くまでの間、兄はほとんど口を開かなかった
『まさか!あんな奴、弟やない!』
後年、兄と飲み明かす機会があり
その時の心境をこのように告白していた。
なんとか所帯でも持ってオイラを落ち着かせたいと
親は家を一軒買い与えてくれていた
その家には住んだり住まなかったりで
放浪が始まってからも
しばらく大阪に戻った時はその家で滞在していたが
何年か戻らないうちに放棄したと見なされ
売却されてしまい、マジで帰る家はなかった。
放浪も架橋に入っていたその頃
大阪・寺田町の六畳一間のアパートで
部屋の真ん中に立てたローソクに火を灯し
その炎をじっと見つめていた。
ボーカルとギター
ジャマイカの音楽イベントに
初めて日本人バンドが出演したことで
日本の音楽雑誌や新聞が取り上げて記事にしたので
業界関係では快挙としてちょっとしたニュースになり
バンドに仕事の依頼が来るように成っていたが
ボーカルのイザバはバンドを抜けて東京に行ってしまい
ベースのオイラがギターとボーカルを受け持つことになり
作詞、作曲もやることになってしまった。
そんなある日、
浪花のグレゴリー・アイザックこと
レゲエ歌手のスワミ・シーラグに大阪の繁華街ミナミにある
レゲエバーに連れて行かれた。
『ボーカルのゲンゴ!』
シーラグは店の経営者と思われる女性に
片手をオイラの方に差し出し紹介してくれた
『アキです。』
と名乗るその女性は
京都出身でニューウェーブ育ちながら
レゲエに魅かれてレゲエの店までやってしまったと言うが
オイラにしてみれば
いままで接したことのない雰囲気を持った女性で
(こっ、この女いったい何者?)
というのが初対面の印象であったが
おっとりとニコやかに振舞う彼女からは
オレンジ色のオーラのような光が放たれている。
磁石に吸い寄せられるようにその店に足を運んだ
なんか居心地が良かった
何時間も空気のように過ごしているオイラに
タイミング良く彼女は飲み物や軽食を振舞ってくれた。
それから一ヶ月も経たないうちに
店の近くで一人で暮らしている彼女のマンションに
リュック一つで転がり込んでしまい
驚きと困惑が混ざった様子の彼女を呆れさせてしまったが
仕方なくしばらく滞在させてもらうことになって
ミナミの遊び仲間の間では
オイラが彼女の寝込みを襲ったなんて
噂も流れていた。
『録音してみれば』
彼女のマンションでギターを弾きながらボーカルの
練習をしている時に
ポツリと彼女がささやいた
音楽の成績が良くなかったオイラは音感が悪く
高校時代からバンドを組んだりしていたが
だいたいがドラムとかベースのリズム隊をやっていたのだ
そんな奴がバンドの事情とは言え
ボーカルを人前でギャラを貰ってやってるもんだから
バンドスタッフから唄の音程が外れることをよく指摘されていて
どうしたもんかと彼女にも洩らしていた
彼女は音楽をとても愛していた
幼いころからピアノも習っていたらしく
音感も良かったので
オイラの唄の音程が外れていることは
前から気づいていたのだろう。
『そうか!録音かぁ』
部屋にあったラジカセにカセットテープを掘り込み
吹き込んだギターと唄を再生して愕然とした
こんなに外れていたのか!!
自分で思っていたより遥かに音痴であった
音痴という病気を心底自覚した
しかし、しっかりと自覚された病気は
半分治ったようなものでもあったのだ。
ギターアンプを使わずペタペタの音がするエレキギターで
練習しているオイラを見て
彼女は一台のアコースティックギターを買ってくれた
そのギターは、渋く乾いた響きと成って
数十年後の今も奏でている。
魂の犯罪者
夏が来た。
最後のオレゴンOSHOコミューンでの
サマーフェスティバルになる事などつゆ知らず
世界中からコミューンに訪れた沢山の人達と一緒に
ブッダホールの中央に座っている。
OSHOが喋り出している。
OSHOはこれまでの三年間
公の場ではずっと沈黙しているが
ついに講和を再開し始めている
このことが、この半年後に政治家とも共謀している
アメリカの聖職組織による闇の権力の圧力により
OSHOが刑務所に数週間拘置され
権力側はなんの罪も立証できないにも関わらず
OSHOに国外追放処分を下し
コミューン閉鎖に到るのを加速させたと
オイラは視ている。
そもそもオレゴンにOSHOコミューンが出来た頃から
聖職組織はアメリカのテレビ、新聞などを使って
OSHOの誹謗・中傷キャンペーンをでっち上げていて
年々白熱していた。
OSHOはホントに反逆者だ。
若き頃から
聖職者らの馬鹿げた戒律や因習などをテーマに
真っ向から議論したり
講和でインド中を廻るように成ってからは
度々、人々の魂を巧妙に搾取する犯罪者として
政治家と聖職者の
執拗な手口を論理的に暴露している。
搾取する者にとって
真実に目覚めた者ほどの脅威はない
人々は翼を広げ飛び始めた
コミューンでは死さえも祝っていた
それは彼らの教義にはそぐわず
許しがたい反逆であった。
そこへもってきてOSHOが喋り出している
(何を言い出すか分らない)
それに輪をかけて
アメリカ中から花束を持ってOSHOコミューンに
訪れるアメリカ市民が増えてきた
テレビ局が来て
ブッダホールのOSHOの講和を全米中に放映している
テレビキャスターが講和の後OSHOにインタビューしている
『レーガン大統領のことは
どう思われますか?』
OSHOはあっさりと
『うん、彼の顔は猿ににているね』
ブッダホールに笑いがドッと沸く。
(全米に放映中。。オリャ知らねぇぞ~。)
アイ・ライク・リッチ
最後のOSHOコミューンではサマーフェスティバルが
終わったあとも二三日コミューンで過ごした。
フェスティバルが終わるとグンと人は減り
友人や顔見知りの姿もほとんど見えないブッダホールの
最前列から三列目に座ってOSHOの講和を聴いている
OSHOは決して貧しさを称賛していない。
貧しいことが精神的だと諭し
人々を弱くする為の諸宗教の策略には
以前から異議を唱えている
豊かで尚且つ精神的であること、
人にはそれが可能であること
むしろそれがゴールであることを
自ら生き抜いて来ている。
『アイ・ライク・リッチ!』
それはオイラにもハッキリと解る英語で
はにかんだように笑いながら手首に巻かれた
ダイヤモンドをちりばめた腕時計を差し上げながら
OSHOは吼えいる。
この言葉を土産に
独り最後のOSHOコミューンから去っていった。
この数ヵ月後、拘置中の食事の中に
遅向性の毒を盛られた上
国外追放となり
OSHOは世界ツアーに向かうことになる。
その頃オイラは
レゲエバー経営者だったアキちゃんと
東京で暮らし始めていた
どうせやるなら東京を拠点にして音楽したいと言う
オイラを一人前になるまでサポートしてみたいと
東京にまで出て一緒に暮らしてくれていた。
(彼女は十代の頃、グループサウンズの
ボーカルの親衛対に入っていたそうだ。)
アキちゃんはその後二十年程オイラと
一緒に暮らすことになるが
後年は陶芸家の道を歩み
現在は四匹のネコと共に
陶芸家として独りで暮らしている。
ここに独り放浪の時代は一応の終息を向かえ
オイラは東京を拠点に
レゲエバンドのリーダーとして
“WANI”を立ち上げ
アキちゃんのサポートのおかげで
音楽100パーセントで暮らして行けた
彼女は京都育ちで接客商売は上手な人で
時はバブル真っ只中
銀座や新宿の高級クラブなどで働いて
かなり稼げるプロも顔負けの女性であった。
レコードアルバムを製作の為のスタジオ使用代金
レコードプレス代金などのファーストアルバムの制作費を
出資してくれていた
暮らしている部屋は1kのワンルームから
3LDKのマンションになっていた
その頃
オイラは東京を拠点に
ヒモのミュージシャンになってしまっていた
(手段はどうあれ一応リッチになった。。)
インドへ
バンド“WANI”は
レコードアルバム“インディビジュアル”をリリースし
都内にある数件のレコード店の店頭に並んだこのレコードアルバムが
レゲエイベントプロデューサーの目に止まり
東京の大型ライブハウスで催される音楽イベントに出演したり
六本木にあるレゲエクラブでハウスバンドの仕事もするようになって
ライブ活動が活発化してきた頃
バンドのギターを担当しているアレンジャーのスワミ・ニルジャノと組んで
邦楽のレコード会社の市場でも通用するような曲作りを
プロの音楽制作者でもある彼のスタジオで行い
次のアルバム“IMA”をリリースし
この曲はレコード業界の複数のプロデューサーが気に入り
CM音楽や子供向け音楽番組の作曲依頼が来だしていた。
東京に暮らし数年が経っていた。
『OSHOのボディがもう長くないから
会いに行った方がいいと思うよ』
インドのプーナから帰って来たスワミ・ゴパロが電話で伝えてくれた。
世界ツアーに出たOSHOは21カ国程の政府に
入国を拒否されたあと
インドのプーナにあるアシュラムに戻っているが
闇の権力から致命的な毒を盛られたにもかかわらず
OSHOの身体は奇跡的にその後何年も生き続けている。
ゴパロがそれを伝えてくれた二週間後
ボンベイからプーナまでインドの悪路を
タクシーを飛ばして揺れる車内に座りながら
外の景色を観ている
アフリカ大陸なんかもそうだと思うが
悠々のインドにも原始なる、なにか人類のルーツ的な
発祥の地感が漂っている
道には車、自転車、人、牛や犬が無秩序に通行している様は
大阪の下町で育ったオイラの子供の頃に見た庶民の生活風景が
デジャブしたかのように映っている。
プーナに着いたオイラはとりあえず
アシュラム近くのホテルを二三日予約し
初めてのインド、しかもプーナということで
地に足が着いていない観光者モードで
アシュラムでOSHOの講和を聴いていても
どこかよそよそしくまだ上の空だった。
『コン、コン』
ホテルで休んでいるオイラの部屋のドアがノックされた
『どうぞぉ』
マ・スガッタが扉を開けて部屋に入ってきた
彼女とはオレゴンのコミューンで仲良くなって
日本に戻ってからも何回かデートもしていたガールフレンドで
年下のキュートな顔立ちの日本人のマ・である
昨日、アシュラムでOSHOの講和あと
目の前を歩いている彼女に声をかけたが
観光者モードのオイラを見てか
何も言わず早足で去っていっていた。
『わたしのアパートに来ない?』
彼女は既にプーナで暮らしていた
早速彼女とホテルのロビーに予約の解約に行くと
ニヤニヤと笑いながら一枚の紙切れを差し出す
ホテルマンから紙を受け取り
彼女のアパートに転がり込んだ。
薄明るい赤い照明だけの彼女の部屋は
寝具の周りにインド製の蚊屋が吊るされており
大きな窓に映るインド高原の景色にも似合っていて
アラビアンナイトのようなエキゾチックな
雰囲気に包まれていた。
長くここで暮らしている
彼女が入れてくれるチャイの味には
インドの風味が存分に染み込んでいた
なにかが中心に落ち着いた
もう観光者モードは無くなっていた
男性にとって女性との接触ほど
その地に根付く為の即効薬は見当たらない
次の日のアシュラムから
久しぶりのOSHOにしっかりと
出会い出していた。
OSHOの死
余命わずかのOSHOの身体からは
最終回のクライマックスに突入している生命の炎に包まれ
すさまじい光が放出されている。
一日の講和は五時間にも六時間にも及び
夕暮れから始まり深夜まで続いている
あらん限りのエネルギーで余すことなく
目の前にいる大勢の人たちに
自分自身を与えている。
一日がOSHOの講和を中心に動いている。
プーナで暮らす日本人のパーティーなどに
誘われたりもするがあまり行く気にもなれず
スガッタのアパートでチャイを飲んでくつろいでいたり
ギターを弾いていたり
外出はOSHOの講和を聴きにアシュラムに行く以外は
彼女に連れられてインド料理を
街のレストランに食べに行くぐらいで
あまり友人たちと会いたいとも思えなかった
まったくのOSHOオタクに成ってしまっている。
日に日にアシュラムのブッダホールに座るオイラは
全体に馴染み、溶け去り
奏でられるインド音楽の笛の音は、胸の最奥まで深く染み込んでいた。
その夜もOSHOは燃えている。
講和に集まった人との交信は時間を越えている
そこに座っているという感覚は薄れていき
上方からグィっと引っ張られたように
もう地上から浮いているって状況で
ドーーーーーン!と太鼓が鳴ると
くつろいでホールの床に横たわり、深い静寂が訪れ
OSHOの一言が鳴り響いた
『今、あなたはブッダ(目覚めた人)だよ。』
これがオイラにとってOSHO本人から言われた
最後の生の言葉となる。
インドパーカッションのタブラを買って東京に戻ったオイラは
オカリナとタブラを使って
コンパクトなカセットマルチのレコーダーに
“プーナの休日”と題した曲を録音した。
この音楽を気に入った
旧友のスワミ・サルロとガールフレンドで
業界関係の仕事をしているマ・二ーラムのコーディネイトで
大手エステ企業のリラクゼーション音楽製作の
仕事が舞い込んできた。
制作費で、シンセサイザーをはじめ録音器材一式を秋葉原で購入し
住んでいるマンションのフローリングの一室は器材で埋まり
スタジオと化していた。
ここからリラクゼーション音楽も創るようになり
シンセ・コンピューターなどを駆使した打ち込みミュージシャンの時代が
バンド活動と平行して始まった。
その年の冬、
サルロから一本の電話を受け取った
受話器の向こうの彼の口から
OSHOが身体から去ってしまっている
ことを知らされた。
ある現象
バンド“WANI”のライブ活動は続いていた。
業界関係者の間にも中堅レゲエバンドとして認知されるようになり
ライブ会場にも音楽業界の人が客席に座って演奏を聴いている
その中に大手レコード会社の音楽プロデューサーが居た
彼はレゲエアーチストのボブ・マーレーを日本に紹介した人物として
業界筋では名が知られていて
“WANI”のオリジナル曲をレコーディングして
テレビのトレンディドラマの主題歌にタイアップさせるなどで
メジャー進出を仕掛ける企画を大手レコード会社内で進めていた。
レコード会社内ではこの企画のチームも発足しており
バンドリーダーであるオイラも打ち合わせに呼ばれたりで
このプロデューサーがWANIを売り出すニュースは
業界筋に駆け巡っていた。
ゲンキンなものでバンドメンバーも無言のうちに気合が入り
ライブ演奏はしごくタイトにビシビシきまって来る
親しい音楽関係の人からはWANIのメジャー進出を
喜ぶメッセージが届いていた。
ところがどっこい、
バブル経済も弾け、厳しさの増すレコード会社では
売り出しコストの架かる無名アーチストのリスクを避け
確実に売れる有名歌手を手がける方針に傾いていて
そのプロデューサーも悩んだあげく
自分の生計のこともあってレコード会社を移籍して
有名歌手を担当することになり
“WANI”のメジャー進出の企画は泡の如く消えてしまった。
なんかここ一番のところでよくコケる
ジャマイカの音楽イベントに出演し凱旋帰国したものの
何万人もの観客が集まる琵琶湖で行われたレゲエイベントに
日本人バンドのトリとして舞台に立ったときも
バンドメンバー内でゴタゴタしていたこともあるが
観客の期待するパフォーマンスは起こらず
見事にコケた。
この現象はこのあとの音楽人生においても起こり続けている。
10年程暮らした東京を去って、長崎の海の見える田舎に移動し
ソロになって新しい音楽拠点を九州に定め
自宅スタジオでCDアルバムを製作し、FM長崎に乗り込んだ。
FM長崎は
東京のイベント会社が招聘するレゲエイベントの九州興行権を買っていて
毎年このレゲエイベントを開催していたので
オイラをFM番組のゲストとして紹介したりすると
ニュースの少ない地方都市ゆえなのか
新聞社やテレビ局もこぞって取材に来た。
次の年にはFM長崎から
このレゲエイベントのイメージソング製作の依頼が来たので
邦楽市場を念頭に置いた2曲のデモテープを創り、先方に提出した
先方は気に入ったみたいで
地元老舗のレコード店と共同出資で
この2曲をシングルCDにして
各地からイベントに集まる一万人以上の観客に
販売することを決めた。
この夏のレゲエイベントをFM長崎は
総力をあげて各マスコミを駆使して宣伝している
この夏中、
オイラが作詞、作曲したイメージソングは
山口県を含む九州全土の
テレビやラジオから流れていた。
(ここまでは実現したのだが。。)
リアルな生
この夏の本場ジャマイカのアーティストが集う
レゲエイベント・イン・九州の開催日の前日、
イベント会場である長崎の西方に浮かぶ“伊王島”に
オープニングアクトとして出演するオイラは
そのリハーサルの為、フェリー船で向かっている。
フェリーから降りて会場に向かう途中には、
一面の芝生に立っているスピーカーからイベントイメージソングである
オイラの歌が流れていた。
だだっ広い会場に着くと
設置された野外ステージで今売り出し中のアーティスト
スリラーUが唄っていた
会場には所々にテントも設置されていて準備は万端であった。
スリラーUのリハーサルが終わったあと
オイラはその野外ステージに立ち
まだ観客のいない会場に向かって唄っている
(やっぱり野外は気持ちいい。)
その日は主催者側が用意してくれていた
長崎市街のホテルにフェリーで戻り、明日の本番に備えていた。
翌日は朝から晴れていた。
ホテルの部屋を出てロビーにに出ると
イベント主催側の人たちが困惑した表情で慌しく動いていた
台風が接近しているので10センチ程の波浪にも関わらず
フェリーが欠航しているのだ
何とかしなければと主催者側は時間ギリギリまで模索したが
どうにもならずイベントの中止を決定した
主催者側が言うには
10年以上このイベントを開催してきたが
イベント中止は初めてのことだった。
2年後、東京のイベント招聘会社が倒産したこともあって
FM長崎はレゲエイベントから手を引いた
数年後、オイラは竹笛奏者の道を歩き出していた。
またしてもここ一番でコケてしまった
もうこうなると、
この現象は、運がいいとか悪いとかでは片付けられない
なにか彼方からのパワーが作用しているんじゃないかと
疑わずにはいられないのだ
整理して検証してみると
世間的に固定したイメージなり評価が定着し安定しそうになると
この現象が起こり
その形態を根元から破壊され
次なるステップに向かうのを余儀なくされている
しかもこれは音楽に限った事ではなくて
親は所帯を持って安定した生活を送れるようにと
商店街の店舗付き住宅を買い与えてくれたが
放浪が始まってしまい
数年後に売却されてしまった。
財産は消滅した、しかし
その店舗付き住宅に留まり所帯を持って商売でもしていけば
安定した生活は約束されていただろうが
それで終わってしまう人生ってどうなんだろう?
もし全国的なヒット曲に恵まれていて
その曲にしがみ付いてさえいれば音楽仕事には困らなかっただろう
だが、
例えばそのヒット曲のタイトルが『アイ・ラブ・ユー』としよう
五十歳になっても『アイ・ラブ・ユー』って唄ってることになる
それさえ唄っていれば世間は満足し、音楽ビジネスは成り立つが
音楽家としての潜在能力は眠り扱けていただろう。
琵琶湖のビッグイベントでコケがゆえに
バンド“WANI”が生まれた
メジャー進出がコケたがゆえ
竹笛奏者が生まれた
OSHOは生を危険にさらせ!と言う
安定した生ぬるい生はゆっくりとした死であると
リアルな生とは固定化しないひとつの流れなのだ
不安定であることは生の本質であり
いかなる保障も約束もこの本質を変えることは出来ない
鎖を解いて窓を開け、
未知に飛び込み危険にさらしてこそ
リアルな生は流れだす
生を歩むものにとって
『わたしはこれなんだ』という結論じみた
最終地点は決してやって来ない
それはどこまでも神秘であり
生とは
無限の高みと深みに向かって成長しつづける
プロセスなのだ。
あたらしい人間
OSHOは清貧を装う聖者を演じてはいない
それゆえに世間から批判されている
清貧を装っていれば容易く聖者として尊敬され
権力者から暗殺されることも無かっただろうが
在りのままの自分自身を曝け出して生きている
公の場に置いても一切妥協せず
語りたい本当のことを語り続けている
たとえ自分の命が危険に曝されようが
嬉々として真実を語り
人の目覚めを助ける為の可能な限りの手段を
愛の源泉にたどり着く為の科学を
逆風の中、独り旅する者に的確な励ましを
惜しみなく与え続けている
先日、俳優のウィル・スミスの息子さんが
OSHOの本を大事そうに抱えて
街を歩いている写真を見た
プーナのアシュラムはメジテーションリゾートに変身し
世界中からOSHOの香りを親しむ人々が
訪れつづけている。
生前、OSHOに批判的だったインド政府は
『ブッダ以来の化身』などと称賛しているらしい
アメリカでのOSHO人気が再燃していることもあり
最近日本の角川書店から
分りやすいOSHOの本が出版された。
OSHOの息吹は確実に生き続けている
最早、いかなる政治権力、宗教権力にもそれを殺すことは出来ない
古臭い偏見、境界は音をたてながら崩れつつある
世界中の普通の人の中から
目覚めた“あたらしい人間”が現れだしている。
帰路
別府の街を出て国東半島に向かう途中で
3年前に山口から国東半島に移住した
画家のシンちゃんのことを思い出した。
いい機会なので、訪ねて空き家情報などを聞いてみよう
と思ったがシンちゃんの電話番号がわからないので
人口の少ない田舎町のことだから
町役場で聞けば分るんじゃないかとそこに向かって車を走らせた。
役場オフィスのカウンターの前には
昔の小学校で使っていたような木の机があり
画用紙を三角に折立てたような紙に“受付”と
マジックインクで書かれたような札が立ててあり
その机の背後には
タレントのマツコデラックスのような顔をした女性が立っていて
オフィスに入ってきたオイラのほうを見ていた
少し躊躇したが、勇気を出してマツコデラックスに事情を話し
シンちゃんの連絡先を教えて欲しいことを伝えると
少し待つように言われマツコデラックスはオフィスの奥に姿を消した
戻ってきた彼女は
『失礼ですけど、その方とはどういう関係ですか?』
シンちゃんとのありのままの関係を伝えると
彼女は又奥に姿を消し、しばらくすると戻って来て
何かオイラの素性調査的な質問をするという作業を3~4度繰り返し、
結局シンちゃんの方からオイラに電話してもらう事にし
連絡先は教えてもらえず、逆にオイラの電話番号を彼女に教えると
また奥に姿を消そうとした、すでに小一時間が過ぎていた
(ええかげんにせぇ!)大阪育ちでせっかちな性分だ!
そんな自分の個人情報をあれこれ聞かれる為に来たんじゃない
こうなれば関西人の元獲りパワーだ
奥に姿を消そうとしたマツコデラックスに
『実はボク音楽をやっていまして
音作りができるような環境の空き家を2ヶ月間ぐらい
貸してもらいたくて探してるんですが
こちらに空き家バンクの担当の方はいらっしゃいますか?』
と本来の用件を問いかけた。
担当者が居るとも居ないとも言わず、少し待つようにと奥に姿をけし
戻ってきたマツコデラックスは
『そんな都合のいい物件は無いそうです』
と、担当者を紹介することもなく
本来の用件には5分もかけず片付けてしまった。
シンちゃんから携帯電話に連絡が入り彼の家を訪ねた。
田舎町の小高い場所の民家に彼は住んでいる
家の廻りに駐車スペースは余り無く
50m程下った細道の道幅ギリギリに車を止めて
登り坂を歩いて彼の家にお邪魔した。
田舎のわりには隣近所の家屋が接近している感じだった
『僕も他にいい所を探しているぐらいで。。』
この辺りに音作りに適した空き家はないかと訪ねたオイラに
画家の彼は、この家の環境があまり創作場に適さず
他を探しているが、なかなか見つからないで困っている
胸の内を明かしていた。
国東を離れ、山陰の山里に向かって車を走らせている頃には
陽はかなり西に傾いていた
(しかし。。今借りている音作りに適した環境の空き家って
あまり無いみたいだなぁ、いま此処かぁ。。)
山里への帰路を
愛車のマーチボレロは
心地よいスムーズなエンジン音を点てながら
走り続けていた。
=完=