始まりの兆候
全ては夢だった。
マオが捨てられたのも、奴隷として売られたのもなにかも。
襤褸を纏ってもないし、手足に擦り傷もないし、背中に奴隷の刻印もない。
目が覚めたら、何時ものように見慣れた小汚い天井が視線の先にあって、柔らかくもない粗末な寝床に転がっていて、部屋の外からは男と女の声が聞こえてもう暫くするとマオの名前をーーーー
「とかだったなら、よかったのだがなぁ…」
が、しかし、現実はそう甘くないのである。
まずはじめにマオが思ったのは、一〇〇〇年経とうが奴隷制度なるものはなくなることはないのだということだった。
一生消えることのない刻印を体に刻まれ、足枷で自由を奪われ、意思を剥奪される。その行為の先に、一体どんな不幸が待っているのか、痛みを味わった者なら容易に想像できるだろう。けれど、それが決して地獄ではないということをマオは知っている。不幸と絶望が渦巻く未来。しかし、それらは等しく地獄という認識に繋がるわけではない。
それでも、この先の未来は誰にとっても過酷であろうことは事実だった。
温度のない石で囲まれた部屋に、幾つもの悲鳴が響き渡る。
壁にあたって反響した悲鳴は、音を重ねて不協和音となって鼓膜を激しく揺さぶった。
その音に急かされるようにして、マオの意識は覚醒に至る。
瞼を細く震わせて持ち上げると、視界はぼやけて周囲の様子を見ることは困難だった。
悲鳴が、聞こえる。きっと、折の外で心無き者たちに嬲られている者の声だろう。
それに混じってすすり泣く声も。
その音のどれもに、悲しみ、苦しみ、絶望、恐怖、憎悪が込められている。
グルグルと巡るそれらの感情に実態はなくとも、マオにその存在を感じ取ることは可能だった。
悲鳴が上がる。泣き叫ぶ声がする。助けて、痛い、いやだ。言葉にもならないような感情の音が響いてひたすらにマオの意識を揺さぶっている。
聞きたくなかった。聞いていたくなかった。
瞳が慣れて景色を映すようになっても、マオは全てを拒絶するように瞼を強く引き結ぶようにして閉じた。
耳も塞ぎたかった。
けれど、疲れきって体力を全て出し尽くした体は、指一本動かすことができない状態だった。
晒された耳が音を拾う。肌に、荒くれた感情が突き刺さる。
まずいと思った。思ったが、何もできなかった。何をどうすることもできないまま、体が大きく痙攣する。全身を包み込んで、纏わりついて、どんどん膨れ上がっていく。
一瞬、呼吸が止まって、それら全てはマオの身体になじんでいった。
ーーー【ネガティブドレイン】。
それが、マオの持つ特異性であり、魔力の次に重宝していた異能だった。
これは、エナジードレインの亜種で、人間の負の感情を吸収し、自身の糧とし、魔力の質を高めて更なるものへと昇華していく負の能力である。
(あはは。ネガティブドレインって、魔王様はファッションセンスどころかネーミングセンスもないんですねぇ、あはは)
無表情で笑うという芸当をする部下の台詞が蘇った。なんなんだあいつ。人のこと馬鹿にしやがって。魔王様だぞ。強いんだぞ。その後は何時ものごとく、ダサいダサいと笑い転げる失礼極まりない部下の頭をどついてやったのは懐かしいが温かみのない過去の話である。
閑話休題。
その異能によって、マオの中にあった魔王の力が目覚めたーーーーわけがなかった。
ただ、少し魔力量が増えて空腹が薄れて体温調節が可能になっただけだった。
つっかえねえー!
マオが思ったのはそれだった。
あれだけの絶望でこれだけしか得る物がないなんて、この個体はどれだけ脆弱なんだ!とは過去の言であり、数日経つ頃にはネガティブドレイン万歳な状態だった。
なんせ、今は雪が吹き荒れる日も少なくない冬の季節である。奴隷を置く牢屋のような小屋に、暖を凌ぐような機能も道具もあるはずなく、ましてやまともな食事さえも与えられるはずもなく、ネガティブドレインによって得た体温調節と空腹感の薄れという効果は、確かにマオの命を繋いでいたのだった。
ーーネガティブドレイン、なかなか使えるではないか。
現金なことを考えるマオは気づかない。
過酷な環境下の中、わりと平然としているように見える幼女を見つめる者の目に。