第九章 決戦、海の幽霊
紅倉まで五メートルほどの距離まで歩いてきた首なし女は、わっと黒い霧になって姿を消した。
紅倉は右に視線を走らせる。
「関係ない!」
右手から赤い光の玉を放ち、芙蓉の手前で炸裂し、ぎゃっ、と、赤く染まった裸身が浮き上がり、美咲は「きゃっ」と悲鳴を上げて頭を抱えた。
「賞品はお預けと言ったでしょ、脳なし女! いたぶられるだけで終わりたいか!」
再び発せられた赤い光弾に女は姿を散らして避け、芙蓉に当たりそうになった光弾はヒュンと上に跳ね上がって消えた。
紅倉の頭上に女が浮き上がり、両手で首目掛けて襲いかかってきた。
「馬鹿」
紅倉の目が光ると、全身から赤いオーラが噴き出し、まるで太陽のフレアのように噴き上がり女を襲った。
女はぎゃあと言うように飛び上がり、姿を消すと、海側の暗がりから紅倉の背後に襲いかかった。
紅倉はクルッと振り返り、右手を伸ばして真っ黒な首の穴を触った。
バッと炎のような激しい光が炸裂し、
「・・・・・・・・・・・」
首なし女はそのない首からぶすぶす灰色の煙を噴いて後ろにもんどり打って跳ね退き、ジュッと黒い海に潜った。
紅倉は残酷に笑った。
「あら? 海水浴? 海はもう大っ嫌いになってたんじゃなかったかしら?」
ザアッと大きな波が上がって寄ってくると、両手を怒らせた女が飛び出してきた。
紅倉は右手を振るって女を横ざまに波打ち際に叩き落とした。
「もういいでしょう?」
黒い砂まみれのイメージの裸女を冷たい目で見下して宣告した。
「あんたなんかわたしの敵じゃないのよ。あんたがそうして姿を手に入れた時点であんたの負けは決まったのよ。諦めて成仏なさい。わたしもこれ以上借り物の霊体を傷つけたくはないのよ」
女は尻をつき両手をついたかっこうになって、黒い影の顔で恨めしそうに紅倉を見つめた。
紅倉はフウと息をついた。
「あなたに罪のないのは分かっているから、大人しく……」
芙蓉が叫んだ。
「先生! 海!」
紅倉が視線を上げると、裸女の幽霊はさっと姿を消した。
黒い海に、いくつもの灰色の影が頭を覗かせ、波に乗って岸に近づいてくると、波から立ち上がり、歩いてきた。
灰色の、ぼろぼろに腐った姿をした、およそ三十人の亡者たちだ。
さすがに子どもはいないが、年齢も性別もはっきりしない。腐れ破れた衣服は灰色のぬめぬめした肌と一体となり、腐れた肌はところどころ骨を覗かせ、顔面も、骨が浮き、歯が露出し、眼窩は真っ黒か、点が開くだけの白い濁った目玉をしていた。
紅倉もさすがに陸の方へじりじり後退した。
ゆらゆらと上陸した海の亡者たちは、紅倉と、芙蓉と美咲に、二手に分かれて前進した。
芙蓉は美咲を守って身構えた。
芙蓉の背中で震える美咲は、ふと振り返った。
首なし女が宙に浮かび、手を伸ばして襲いかかってきた。
「きゃあっ!」
赤い光弾が走り、首なし女は忌々しく飛びすさった。
「先生っ!」
芙蓉はギョッとして叫んだ。
紅倉が、亡者たちに取り付かれ、ズブズブと、泡になって体に潜り込まれている。
紅倉は苦痛に顔を歪めながら、右手を上げ、芙蓉たちに向かう亡者どもの前に光弾を放った。
「その子たちには手出しさせない。あんたたちの相手はこのわたしよ!」
強がる紅倉に亡者たちは折り重なるように取り付き、溶けて、体内へ染み込んでいく。紅倉は苦痛に歪み、よろめいた。
芙蓉に向かっていた亡者たちも、弱った獲物向かって進路を変えた。
「先生っ!」
なんとか助けたいと思う芙蓉を、
「美貴ちゃん! あなたはその子を守るの! 絶対!」
紅倉は叱りつけた。
芙蓉がハッとするとまた首なし女が美咲を狙って掴みかかってきた。
芙蓉は美咲を腕を伸ばして背に下がらせ、急いで右手に左手を重ねて前に出し、
「はあっ!」
と気合いを発した。芙蓉の全身から発する青いオーラが前方の女幽霊向かって吹き付けた。女幽霊は斜め後ろに逃げ、隙を窺ってスーッと横に飛んだ。芙蓉は隙を見せじと両手を構え、背中に美咲を守って幽霊の動きを追う。芙蓉に先生のような攻撃の気弾を打ち出す力はない。こうして全身のオーラを使って悪霊を追い払うのがせいぜいだ。
しかしこうしている間も、
三十人の亡者に取り憑かれた紅倉はひどい吐き気と頭痛にさいなまれ、だるい体にまったく力が入らず、ついに右膝を付き、左膝を付き、両手をついて背を丸め、うつむいた顔で、
「うう………、ああーー…………」
と切なそうにうめいた。
「先生……」
苦しむ紅倉を助けることが出来ず、芙蓉は悔しさに奥歯を噛み締めた。背中の美咲と、駐車場の渚子と、他の誰とも、先生と比べたなら迷うことなく先生を選ぶ。しかし、その先生に絶対彼女を守れと命じられている。
首なし女はさあどうする?と言うように、嫌でも視界の端に苦しむ先生の姿が目に入る位置で嫌味にゆらゆら揺れている。
芙蓉は怒りに燃えた。敵は安全を計って五メートルから近くには寄ってこなくなった。いずれ紅倉が完全に沈黙したら、亡者どもといっしょに芙蓉と美咲を襲う気だろう。芙蓉は、オーラを高め、先生のような灼熱する炎を思って、一撃必殺の勝負をしかけようとしていた。
「なんだあ? あれは?……」
高感度カメラを覗く茂田カメラマンが異変を発見して、堪らず大声を上げた。
「芙蓉ちゃん! 後ろだあっ!」
えっ、と、前方の女幽霊に意識を集中していた芙蓉は完全に不意を突かれて慌てて振り返った。
「きゃああっ!」
美咲が驚いた恐怖の大声を上げ、芙蓉も
「あっ!、」
と、足をすくわれて転倒し、ぬるっとした重い物に這い上がられてぞおおっと身の毛がよだった。
このリアルな感触は、現実の物体だ。
何か!?
真っ黒な丸い影が美咲の背後に立って、美咲の体に何か太い物を巻き付かせている。
何か!?と正体を見極めた芙蓉は、再びぞぞおおっと怖気だった。
それは、
蛸の化け物だった。
大ダコが、更に幾十ものタコたちの体を房にして連ね、特別巨大な四本の腕を手足として人間のようなかっこうをして立ち上がっている。
芙蓉の足から腰まで、胴体から連なって伸びたタコの重なりが、嫌らしい吸盤の腕を巻き付かせて身動きを封じている。
「くそっ」
砂に着いた肘を突っ張って腰を逃れさせようとしたが、粘りのある力に引っぱられて抜け出せず、手で外そうと掴むと逆に、ゴソゴソゴソ、と新たな触手が伸びてきて腕に巻き付き自由を奪った。
芙蓉は悔しく蛸の怪物の「顔」と思われる部分を見た。
大きな丸い坊主頭の真っ黒な顔の中に、鏡を仕込んだような平面のまん丸い目が白く光っていた。
大蛸は背後から羽交い締めにした美咲の体にいやらしく太い腕を這い回らせ、キャミソールの裾をめくり上げ白いお腹を露出させると、更にいやらしい指でパンツのボタンを外し、ファスナーを引き下げた。
「いやあああ〜〜〜っ……」
美咲は涙声で悲鳴を上げた。
美咲は恨めしく非難するように芙蓉を見下ろした。
守るって言ったのに………
そうだ、絶対に守るんだ、先生と約束したんだから!
芙蓉は我が身も焦げよと灼熱の炎をイメージしたオーラを燃え上がらせた。
しかし大蛸の冷たい腕がギリと締め上げ、芙蓉は肉体の痛みに心で悲鳴を上げた。
負けるものか、負ける……
首なし女が悠然と歩いてきた。
芙蓉は今さらながらにこの女幽霊に後ろ盾のあったことを理解した。この、大蛸の、化け物だ!
紅倉は沈黙している。
女幽霊は当然の賞品を受け取りに来た。ミス・グラビアクイーンの魅力的な下半身。これで体のパーツが全て揃う。
突然、空気が変わった。
「うおおおお〜〜ん、
うおおおお〜〜ん、
うおおおお〜〜ん、」
思わず耳を押さえたくなる気味の悪い不愉快な大声がいくつも重なって上がり、
大蛸も首なし女もその悲鳴?の出所にギョッと視線を向けた。
悲鳴は、砂の上に座り込んでがっくりうなだれている紅倉の周囲から上がっている。
その周辺の空気が赤く揺らめいていた。
暗い赤のオーロラの中に、黒い人の顔がゆらゆらと歪んで、苦痛と恐怖に歪み、大口を開けて、
「うおおおお〜〜ん、」
と、地獄の底で苦しむように悲鳴を上げていた。
聞く者の神経に生爪を立てる、耐え難く不愉快な悲鳴だ。
赤い、血のオーロラの中で悲鳴を上げる亡者たちは、その中から抜け出し、元の腐った灰色の体を取り戻すと、
「うううううう………」
と鳴きながら海の中へ逃げ帰っていった。
何が亡者どもをそれほど苦しめ怯えさせるのか?
紅倉が何かしたのだろうか?
しかし取り憑いた亡者どもの逃げ出した紅倉の体は、すっかり支えを失ったように斜めに体勢を崩して、ドサッ、と砂の中に倒れてしまった。
「先生………」
何が起こったのか理解は出来ないが、先生の身に何か良くないことが起こったのだけは確かなようで、芙蓉は無念を噛み締めた。
紅倉の完全な沈黙を見て首なし女も安心したように美咲に向き直った。
女の影の顔が笑い、大蛸に差し出される賞品の肉体に腕を広げて抱きつこうとした。
ズボッと首の穴に上から手を突っ込まれ、女幽霊は両手足を広げ、声なき悲鳴を上げ、ガタガタガタガタガタッ、と激しく痙攣した。
突然の奇襲に驚いた大蛸は数十本数百本の足をくねらせて驚くべき素早さで美咲と芙蓉を連れて、一瞬にして一〇メートルの距離をバックした。
「せ……、先生……」
芙蓉は蛸の足に首を締め上げられながら苦しい声で呼びかけた。
白く光る紅倉が宙に立ち、女幽霊の首に腕を突っ込み、おそらくはその心臓を鷲掴みにしている。
白く輝く紅倉は、美しくも、恐ろしい鬼の怒気を発していた。
鬼神のごとく、
その冷たい怒りの顔には悪に対する微塵の慈悲も感じさせない。
しかしこの紅倉の姿はなんとしたものなのだろう?
紅倉は、砂浜に横になって倒れたままだ。
してみるとそれは紅倉の霊体。
先ほどの海の亡者たちの恐ろしい悲鳴を上げて逃げ帰った様子から、芙蓉は嫌な予感がしてならなかった。
まさか、三十もの亡者に体深く取り憑かれて、先生の体は生命を失ってしまったのでは?…………
「きゃあっ」
「うぐっ」
大蛸に締め付けられて美咲も芙蓉も悲鳴を上げた。
大蛸の怪物と紅倉の霊体は、互いに人質を取って睨み合った。
グルグルと、締め付ける太い腕の内部がうごめくのを感じ芙蓉は気が遠くなる思いがした。いけない、これ以上先生の負担になっては……と思うのだが、生きている体の生理は心の思うようには答えてくれない。
睨み合いに
白旗を揚げたのは紅倉だった。
紅倉の霊体は掴んでいた心臓を放し、女幽霊の体を前に放り出した。
生きている肉体のように砂地に膝を着いた首なしの体は、怒りに充ちた影の顔を紅倉に向け、しかし、もはや手に入れたも同然の新鮮な若い肉体を思い、あざ笑うように大蛸の下へ歩みだした。
冷たい鬼女の顔が、ふっ、と、いつもの紅倉の皮肉な笑いを浮かべた。
「ねえあなた。なんでその蛸の化け物があなたの復讐の手伝いをしているか知ってる? フフッ、頭のないあなたには分からないかしらねえ?
そいつはね、海の妖怪よ。俗に『舟幽霊』とか『海坊主』とか呼ばれるね。
水死体を食った大蛸に海を漂う亡者たちの魂が取り憑いて、一つのキャラクターに統合されたのが、そいつよ。
その妖怪があなたを助ける理由、
それは、
あなたを花嫁にしたいからよ」
大蛸に歩み寄る女幽霊の足が止まった。
「あなたに体を取り戻してやり、完全に揃ったところで再びあなたを海の底に引きずり込み、あなたと合体して、結婚するつもりなのよ。
ああ〜、おぞましい。
あなた、その化け物の花嫁になりたい?」
首なし女の背中がじっと躊躇し、一歩、二歩、後退した。
逆に大蛸は怒りに充ちて前進し、ぐいと美咲を差し出した。
首なし女はない首を振り、更に後ずさった。
再び手元に戻った女を守るように紅倉が前に立ち、大蛸向かって言った。
「あーら残念、ふられちゃったみたいね? ここは一つ男らしく引き下がったら?」
大蛸はゆだったように赤くなり、ヤケを起こしたのか生身の女二人をうねうねと足の房で覆い込み、ササササ、と海に向かって素早く走り出した。
「させるかっ!」
大波が起こり、
うおおおお〜〜ん、
と、先ほどの亡者の群れが束となって吐き出されてきた。
「捕まえろ!」
紅倉が命じると亡者たちは言われたとおり大蛸にしがみついて動きを止めた。
紅倉の霊体は左手を挙げ、
「美貴っ!」
叫ぶと、大蛸の足の中に白い光の玉を放った。
足の中で絡みつかれて身動きできないでいた芙蓉は、白い光を受け、カッと体が燃え上がった。
肌に刺す眩しい白い光を感じて大蛸の足がサワサワと分かれて芙蓉を吐き出した。
芙蓉は怒りを込めて手を伸ばして大蛸の頭を掴むと、バリバリイッ、と引きちぎった。
べろんと剥けた皮の中から、
女の白い顔が現れた。
紅倉が叫んだ。
「見なさい! あなたの顔よ! あいつが、海底からさらって、隠し持ち、あなたの意志を操っていたのよ!」
おぞましさと怒りで女の体が震えた。
「乗っ取って、奪い返せ!」
紅倉の霊体は叫ぶと、首なし女に重なり、首なし女は黒い影を真っ白に光らせて、走ると、大蛸の足の房の体に飛び込んだ。
蛸の皮を被った女の生首がカッと目を開き、
「うわあああああああああっっっっ」
と大口を開けて叫び、足の房の内部から真っ白な眩しい光があふれ出し、大蛸は全ての足をぐねぐねと激しく踊らせて、
バババンッッッッッ、
と爆発し、ボタボタと、引きちぎられた蛸の足を何百と砂浜に降らせた。
芙蓉は気絶した美咲を守って抱きしめ、蛸の爆発した後には白く光る裸身の女が立っていたが、その光が消えると、女は一つの光の玉となって宙に浮かんだ。
「先生っ!」
芙蓉が嬉しさを溢れさせて叫んだ。
砂の上に倒れていた紅倉が体を重そうにゆっくり起き上がった。
「はああーー…。疲れた」
紅倉はどっこいしょ、と立ち上がると、フラフラしながら三人のところへ歩いた。
宙に浮かぶ白い玉に言う。
「自分が誰か?思い出したわね?」
玉は浮かぶばかりだが、紅倉は頷き、続けた。
「あなた、外国の方ね? 悪い男たちに騙されて日本に連れてこられて、無理矢理嫌な仕事をさせられて、逃げ出して、殺されて。他への見せしめにバラバラにされて捨てられたのね?
あなたの無念の気持ち、男たちを憎む気持ち、日本の同世代の女の子たちを妬ましく思う気持ちも分かるけど、あなたは、あなたのせいではないとしても、一人、罪もない女の子を殺しているのよ? 復讐に駆られて次に人を殺したら、あなたは夜叉となって地獄に落ちることになるわよ? 自分の殺してしまった女の子の悲痛な気持ちが、今のあなたなら分かるわね?
自分の国にお帰りなさい。やがてご家族にもあなたの訃報は届くから、よく供養してもらって成仏するといいわ。
あなたを殺した男どもの処罰は生きた人間に任せてちょうだい。日本の警察は、優秀なのよ? 今ひどい目に遭っているあなたの同胞も、きっと救い出してあげるから、ね?」
紅倉に諭され、白い玉も承諾したようだ。
紅倉は左手を掲げ、空に白銀の道を掛けてやり、白い玉はそれに乗って、スー…ッと、はるかな空へ消えていった。
海の亡者たちはとっくに消え、砂浜に汚らしい蛸の残骸が散らばるだけで、海は、静かな波の音を響かせるだけになった。