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迷子の子猫ちゃん(4)

 言っておくが、僕は寝起きの悪い方では決してない。朝は割とすっきりと目が覚める。それでもまあ、寝ぼける事が無いという訳でもないのだ。時には、時計を逆さに見て、時間を読み違えることだってある。

 そこを行けば、キツネはかなり寝起きが悪い。勿論、起きた瞬間を見た事があるわけではない。共同の洗面所に顔を洗いに行くと、お互いにちょうど鉢合わせすることが多いのだ。その時のキツネは、相当なものだ。大天狗先生に言わせれば、百年の恋も冷める、そうである。

 そんな大天狗先生はといえば、朝五時ごろに起きてジョギングをしているらしい。時には、新聞配達がやって来るよりも早い時間にジョギングに出かける事もあるそうだった。そこまで行くと、寝起きの善し悪しを超越した世界だ。まあ、まさか寝ぼけたまま町内を走りまわっているという事は、無いだろうけれど。たぬきおばさんにわせれば、毎日無駄に早い時間に目を覚まされるので、迷惑極まりない、らしい。その話を横で聞いていた大天狗先生は、渋い顔をしていた。

 こんな話をすると誤解されるかもしれないが、これで居て、この夫婦仲が良い。おそろいのパジャマを着ていたりするし。僕を育ててくれた人たちと比べると、やはり、仲の良い夫婦だと思う。パジャマに限らず、やり取りを含めて。

 話がそれてしまったが、僕の寝起きは、相対的にも、絶対的にも、そんなに悪い方では無いという事だ。常識的な範囲で、寝起きが良い。

 しかし、今日の朝、この現状は、ただ自分が寝ぼけているだけなのだと思いたい。むしろまだ、僕は夢の中に居て、このままそっと目を閉じてしまえば、いつも通り平穏な朝を迎える事が出来ると、そう思ってしまいたい。

「うにゃ………」

 布団の中から聞こえてきた、決して僕のものではない寝ぼけた声も、現実のものではなく、ただ僕が夢を見ているだけだったなら、どんなにいいだろう。いつもより布団が盛り上がっているのは、僕が少しばかり太っただけなのだと思いたい。この際、一夜にして驚異的に体重が増加してしまう事には目を瞑っても良い。

「これは夢だ………」

 冤罪だ。

 呟いてみたことで、一層現実感が増してしまった。ああ、何でこんな事になってしまったのだろうか。昨日の夜、大天狗先生が入学式前日に僕に話してくれた大切な話を思い出したのは、これの前振りであったとでも言うのだろうか。

 犯してもいない罪で裁かれる事になるなんて、世の中にはびこるという冤罪は僕にとっても他人の話では無かったという事だ。何か悪い事をしたのだろうか、僕は。それとも、前世においてとんでもない大罪人だったのだろうか。その業を背負って生きているのだろうか。

 このままそっとしておけば、部屋から一度出て戻って来た時には全て無かった事になっているかもしれない。イベント終了しないかなあ。

 布団の中にいるものを刺激しないように、同時に布団の中に何かいるという現実を頭の中で否定しながら、僕はそっと布団の中から這い出した。布団から出て、寝間着のジャージ姿のまま立ち上がり、改めて自分の寝ていた布団を眺めてみる。

「どう見ても何かが寝ているようにもこっとしているけれど、あれは空洞になっているに違いない」

 そう決まっている、間違いない。

 ああ、びっくりした。こんなに驚いたのは、この町に来た日にキツネの下着姿を見たとき以来だ。つまりとんでもないドッキリだ。こんな事があっては、すっきり目も覚めてしまう。いつもより時間は早いけれど、もうこのまま起きてしまう事にしよう。

 僕には再びこの布団をめくって、そこに寝る勇気がない。

 春になって、ようやく温かくなってきたので、服を脱ぐのが億劫では無くなった。朝の着替えにかかる時間も飛躍的に短縮される。ありがたい話だ。桜の花が散り始めてからが、本当の春到来だと、ぼくは思っている。

 Tシャツとジャージを脱いで、ハンガーに掛っている制服に手を伸ばす。シャツのアイロンがけは、毎日たぬきおばさんがやってくれている。ありがたい話だ。

「そんな恰好で、寒くにゃいのか?」

 幻聴が聞こえた。

 はっきりと。

「なんだ、まだ夢の中だったのか。だったら早く起きないと」

 良かった、全部夢だった。

 つまり、今まさに僕が振り返って見た、僕の布団の上で立ちあがっている僕の寝巻を着て居る昨日会った猫も、僕の夢の中の想像上の産物という事だ。おいおい、思春期とはいえ、昨日会ったばかりの女の子でこんな想像をするなんて、それこそ、悪い事をしていないなんて言えないじゃないか。

「良い加減に認めるにゃん、お前はおれっちと寝たんだにゃん」

「嘘だ―!」

 と、僕がノリノリで叫んだ瞬間だった。外の廊下から、どたばたと慌てて走ってくるような音が聞こえたかと思うと、今度は僕の部屋のドアノブがガチャガチャと、かなり乱暴に動き出した。

「ポルターガイスト………!」

「そんな訳にゃいにゃん」

 ドアの向こうからは、どうして、開かない、とか、鍵、そうだ、お父さんがマスターキーをもっていたはず、とか、そんな声が聞こえてくる。再びどたばたと走る音が聞こえて、どこかで何かが割れるような音がしたと思うと、足音はまた僕の部屋の前へとやってきた。

「大丈夫、アキナ!」

 ガチャガチャバターン、と。相当乱暴な扉の開き方だった。あまり新しいとは言えない、弧狗狸荘全体が揺れるかと思うような、そんな勢いである。

 そうして、僕と、ネコと、キツネは朝早くから向き合う事になった。そう言えば、キツネの寝間着姿って初めて見る。むしろ、女の子のパジャマ姿を初めて見た。なんだか興奮する。夢じゃないだろうか。

「隙をついて夢にしようとするのを辞めるにゃん」

「僕のモノローグくらい僕の好きにさせてくれ」

 というか、筒抜けだったのか。迂闊に妄想も出来ないじゃないか。

「………」

「………」

「………」

 にやにやと笑いながら、現状を楽しむように、余計な事を言わないネコ。

 目を丸くして、部屋に飛び込んできた瞬間からまったく動かなくなってしまったキツネ。

 まだ夏には早いというのに、朝から大量の汗を背中に描いている、パンツ一丁の僕。冷や汗が止まる事を知らない。これは一度風呂に入る必要がありそうだ。この修羅場を超えたら、僕、朝風呂に入るんだ。

「………お邪魔しました」

 そう言ってキツネは、急に動き出したかと思うと、普段の朝のように寝ぼけているような顔をして、部屋を出ていってしまった。なんと、修羅場の方から出ていってくれたというのか。僕は前世で善行を積んでいた聖者か何かであったに違いない。

 と、思っているうちに、再び乱暴に、バターンと、扉が開いてキツネが飛び込んできた。ああ、これは間違いなく弧狗狸荘が揺れた。それくらい、勢いが良かった。全部終わった後で、ドアを点検しておかなくてはならないだろう。

「これはどういう事、説明を要求する!!」

 弧狗狸荘全体に響き渡るような大声で、キツネはそういった。ああ、これでもう、この事は大天狗先生や、たぬきおばさんの知る所になってしまったという事だ。僕に逃げ場はない。

「どういう事もにゃにも、そういう事にゃん。アキナと一緒に、おれっちは寝たという事にゃん」

「本当なの!?」

 勢いよくこっちを見るキツネ。

 視線の先には、パンツ一丁の僕。状況的には、限りなくクロである。言い逃れのしようがない。状況証拠がそろいすぎて、物的証拠が必要無いくらいだった。

 何と言えば、何と言えばこの窮地から脱出できるんだ。

「残念だったにゃあ、キツネ。お前は虎視眈々と、キツネのくせに虎視眈々とアキナの事を狙っていたようだが、この通りおれっち様がもらったにゃん」

 まさに虎の威を借る狐とは、この事にゃん。ネコは、どや顔でそういった。いや、全然うまいこと言えてないと思う。

「その鈴は、まさか………」

 昨日会った時の服装とは違い、僕のTシャツとジャージに着替えているというのに、ネコは律儀に鈴を首につけていた。

 というか、

「あ、やっぱりそれ自分で付けられたんじゃないか」

 僕があきれ顔でそういうと、ネコはどや顔のままで言った。

「一度つけてもらえば、そうにゃん。でも、最初の一回だけは、人間の手じゃにゃいと無理にゃん。」

 だって、ネコを飼うのは、人間だから。

 飼われていないから、迷い猫で、家なし猫だった。だからこそ、首に鈴も付いていない。鈴が付いているのは、飼い猫だけだ。

 ああ、これが。こういう事があるから、あまり一人で出歩かないように言われていたわけだ。物語の多くは、人間を中心にして始まるから、僕が外を出歩けば、一人で出歩いてしまえば、必然的に、物語のきっかけが生まれてしまう。動くはずの無いものまで、動きだしてしまう。

「そういう事にゃん。だからお前は馬鹿だって言ったにゃん。言ったよにゃ?」

 昨日の事も碌に覚えていないらしい。大丈夫かよ。

「でも、家じゃあ猫は飼えないよ」

 黙って聞いていたキツネがそういった。初耳だったが、どうやら弧狗狸荘、ペット禁止らしい。まあ、珍しい話じゃない。

「嘘つくにゃよ、キツネ。この家は、お前も含めて獣臭いにゃん。それに、この町でそんな事を言ったら、もっとやばい奴しか、ここには住めにゃい事になっちまうにゃん」

「猫だけ禁止です。私は猫アレルギーになったから」

 どうやら、嘘がつけない人らしい。

 猫アレルギーについて詳しく知っているわけではないが、確か、猫の毛でくしゃみが止まらなくなるとか、そういうのだったと思う。

 う~。

 しゃ~。

 と、そんな唸り声を上げながら、二人は睨みあっている。まるで、春にネコが喧嘩をする前に、そうするように。じりじりと、お互いに間合いを測りながら、部屋の中で円を描くように動いていた。

 いつまでもパンツ一丁の姿で居る訳にもいかないので、僕はそっと制服を手にとって、二人に気付かれないように制服に着替えた。ようやく制服を着たことで、部屋の外にも出る事が出来る。

「二人とも、朝ご飯を食べてからにしたらどうかな?」

 僕がそういった瞬間。まるでそれが、戦いを告げるゴングであったかのように、二人はお互いに飛びかかった。

 そのまま、絡み合うようにお互いの髪の毛やしっぽを引っ張り合い、ひっかき合い、取っ組み合いに移行する。僕の部屋で、少女が戦っている。一体これはどういう夢だ。

 周りが全く見えていないかのように、二人は取っ組み合い、まるで殺し合っているかのような迫力で暴れまわる。止めないといけない事は分かっているのだが、この喧嘩にどうやって止めに入ったらいいのか分からない。なんだか、下手に止めに入ると、そのまま巻き込まれて僕が八つ裂きにされてしまいかねない、そんな勢いだった。

 他人事のようにそんな事を考えているが、この喧嘩を止める人間はこの場に僕しかいない。意を決して、二人の間に飛び込もう、僕がそうして足を踏み出しかけた時、

「止めんか、朝早くから!」

 大天狗先生の一括が、僕の部屋の入り口から響き渡った。その迫力たるや、日曜日でおなじみの、世田谷の一家の大黒柱の一喝を思い起こさせる、凄まじい雷だった。朝早くじゃなかったら良いのですか?

 なにはともあれ、その迫力のおかげで、二人はようやく冷静になり、取っ組み合う事を辞めた。

「とにかく、お前たちは着替えなさい。朝食の準備はできているから」

 大天狗先生がそういうと、キツネがそのまま大天狗先生と一緒に部屋から出ていってしまった。ネコは、その辺に脱いで会った猫が昨日来ていた服と一緒に大天狗先生が抱えて出ていってしまった。まあ、この部屋で着替えさせるわけにもいかない。

 まさか、大天狗先生がそのまま猫を空き地に捨てに行ってしまうという事も、無いだろう。

 そうして、早朝から僕を襲った修羅場は幕を閉じた。結果的に、僕は怪我ひとつせず、無事に修羅場を抜ける事が出来たと言えるのかもしれない。しかし、今この部屋の惨状を前にして、そんな事は口が裂けても言えないだろう。

 せめて、持ち物が少なくて良かった。壊れやすい者も無かったし、積んであった本が散乱していて、並べてあった教科書がどこかへ飛んで行ってしまい、カーテンが破れていること以外は、被害が無いと言っても良い。なんとか致命傷で済んだ。

「どうするんだよ、この部屋」

 学校から帰ってくると、何事も無かったかのようになっているのか?

 そんな現象が起こったら、それこそ夢だ。この部屋で今日の夜も眠るのだと思うと、今すぐ布団の中に潜って現実逃避をしてしまいたい気分だった。しかし、その布団も、ネコとキツネ、どちらの爪か知らないが、ずたずたに引き裂かれてしまっている。

 現実逃避も許されない。

 これも自業自得なのだろうか。なんとなく、今朝の事に関してはそう言われても、否定のしようがないような気がした。なんというか、運が悪かったと言える要素が、極端に少ない気がする。いつか刺されたりするのだろうか。とりあえずご飯を食べて考えよう。僕は荒れ果てた部屋に戻らなくて済むように、鞄をもって部屋を後にした。

 帰ってきても荒れ放題。そんな現実が目に見えてはいても、見たくないものはあるのだ。


 結局そのまま学校に行って、ネコもまた僕のクラスメートであった事が発覚した。入学式にも出ず、ふらふらしていたらしく、クラスメートであると知らなかった事も無理はない。一体何のために高校に入学したのだろうか。

 学校に行くのが面倒くさいというネコを、無理やり引きずるようにして登校した朝の道は、いつもと違い僕とキツネ二人では無く、ネコも含めた三人の道だった。キツネは、僕があっさりネコに鈴をつけてしまっていた事でお冠らしく、いつものような会話も無く、もくもくと学校へと向かっていた。逆に、ネコの方は何が楽しいのか、楽しげにぺらぺらと益体も無く喋り続けていた。

 学校では取り立てて何かあったわけでもない。ネコは相変わらず僕にまとわりついていたが、昼休みの間に姿を消してしまっていた。なんとなく、お弁当の味がいつもと少し違うような気がした。しかし、キツネはあまり僕と口をきいてくれなかったので、確かめる相手もいない。クラスメートが女子ばかりなので、僕には一緒にご飯を食べる相手もいなかったのだ。ちなみに、隣のクラスは男ばかり。ほとんどが猿でなかったら、そっちに入れて欲しいと思ったところだ。

 何にせよ、僕は考えなくてはならないのだろう。知らなかったとはいえ、なんて。結局そんな言葉は、言い訳にもならない。知らなかった事でも、自分のやった事には責任をもたなくてはならない。ネコの首に鈴をつける、その行為がどれ程の重さなのかは、結局今でも分からないけれど。

 考えてみれば、ネコはなぜわざわざ僕の所に昨日やってきたのだろうか。こうしていても、自分の好き勝手、気ままにふるまうばかりで、迷い猫のままでもそれは変わらなかったのではないだろうか。それとも、僕は僕に出会ってからのネコしか知らないから、それ以前の猫とは、やはりどこか決定的に違っている所があるのだろうか。

 知らないものは知らないし、見ていないものは結局見ていないものだ。それでも、例えば今、傍にいないネコは、僕の知らないどこかで、僕が思いもしないような事を考えているのかもしれない。キツネだって、僕には言わない事を考えているだろう。それが単に、僕に対する秘密という訳では無くて、誰だって本音と建前をもっているとか、そういう話に過ぎないのだろう。

 誰だって、本音と建前を使い分けているし、裏と表があってこそ健全な人間だろう。人間ではないけれど、キツネやネコと話をしているときに、そこに妖怪の類を感じる事は少ない。ただ、僕たちよりも素直なのではないかと感じる事はある。でも、それだって結局、僕は僕に見えているものしか、見えていないのだろう。

 そう考えるのならば、僕はどうしているべきだったのだろうか。入学式から、この町にやって来てから、まだ数日といったところだ。しかし、その中でも確かに、この町を知る所はあった。弧狗狸荘で、大天狗先生、たぬきおばさん、そしてキツネに出会った。猿たちにお仕置きをしに言って、僕がこの町にとって何なのかを知った。それは、決して僕でなくてはならないものには思えなかったけれど、それでもここにいるのは僕だけだという、そんな話だった。入学式があって、貧乏神先生やクラスメートたちに出会った。貧乏神先生は、本当にいい先生で、クラスメートたちだって個性豊かだった。昨日、ネコに出会って、鈴をつけてやって、どうやら僕の飼い猫になって、そしてネコもまたクラスメートだった。

 それだけしか、僕は知らない。そんなことしか、まだ知らないのだ。知っている事しか知らないのだし、全てを知っていなければならないという事も無いけれど。それでも、僕は消極的すぎたのではないだろうか。もっと何かを、知るべき事を知るために行動するべきだったのではないだろうか。

 それともこんな事を考えているのは、午後の授業の体育で、クラスでただ一人の男子生徒としてグラウンドを走っているからなのだろうか。疲れと孤独で、なんだかもう夢なのか現実なのか分からなくなってくる。ああ、これから三年間、体育はこの調子なのだろうか。別に、女子に混ざって創作ダンスを踊りたいとか、ドッジボールをしたいとは言わないけれど、もう少し何か考えてもらえないだろうか。

 しかし、考え事をするには丁度良かった。

「キツネ、一緒に帰ろう」

 午後の授業が終わって、三々五々、みんなそれぞれの家路に就いたり、部活へと向かったりしている中、僕はそういった。普段はどちらから言うともなく、何となく一緒に帰っていたけれど、今日は僕の方から声をかけた。そうしないと、今日はキツネが一人で帰ってしまったかもしれないし、何よりも僕は僕の意思を示していきたかったから。

 キツネが意外そうな顔をしたのは、多分、僕がそういう事を言うと思っていなかったからだ。何事にも消極的で、流されてばかりの、受け身の人間だから。だから、そんな印象が無いのだ。

「いいよ」

 僕たちは、登校時とは違って、二人で、いつも通りの二人の家路だ。いつも通りだけれど、それでもそこにある空気は、いつもとは違っているような気がする。天気は良いけれど、気は晴れない。夏にはまだ遠いけれど、五月になったらすぐにじめじめして来るのだろう。毎年そうだし、今年もそうだと思う。昨年と今年は違うけれど、それでも似ているのだろう。

「朝はごめん」

 キツネは、二人で歩いている道のりの、真ん中を過ぎたあたりでポツリとそういった。もしかしたら、朝からずっとそう思っていたのかもしれない。ほとんど今日は一日中会話をしていなかったけれど、その間キツネは何を考えていたのだろうか。今日に限らず、話をしていたとしても、何を考えているのかは知らないのだけれど。

「謝ることなんてないだろ。部屋は片付けてしまえば良い」

 僕はそう言った。勿論、キツネが謝ったのは、ただその事だけに対してだけでは無かっただろうけれど。それでも、僕が謝られる理由があるとしたら、その事だけだ。それ以外の事は全部、僕が選んだ事なのだから。

「ネコの事、あいつは自分を迷い猫だって言っていたけれど。どういう意味だったんだろう?」

 迷うためには、最初の居場所が必要なのではないだろうかと思った。帰るべき場所に帰る事が出来ないからこその、迷子なのだから。あるいは、行くべき場所を見失っていたというべきなのだろうか。

 一人ぼっちの迷子。ネコは一体どれほどの時間を、一人で過ごしてきたのだろう。あいつの事だからきっと、上手く生きてきたのだろう。苦労というほど、苦労を感じるような奴ではないだろう。それでも、寂しいと思わないわけでは、無いのではないだろうか。

 一人で生きていけるのなら、一人で足りているのなら、昨日僕の前に姿を現す事は無かったのではないだろうか。自分で、首に鈴をつけることすら、出来ないぐらいなのだから。だからこそ、一人で生きていくのは、嫌だったのではないだろうか。誰かと一緒に生きていたいと、そう思ったのではないだろうか。そして、誰かと一緒に生きて行くのなら、そこに選択肢はない。ネコを飼うのは、人間なのだというのなら。この町に居る人間は、僕しかいない。

 入学式の前日に、ようやくこの町で生きて行く事を選んだ、僕しかいない。それでも、ネコは一緒に生きていく相手として僕を選んだのだろうか。それとも、他に誰もいないから、仕方なく僕だったのだろうか。

「迷い猫は、迷い猫よ。飼い主がいなくてさびしいから、いつか出会う大切な相手を探してさまよっている」

 キツネは言った。考えてみたら、キツネとこんなに真面目に話をするのも、初めてだ。意外に思う事が筋違いで、僕はどれだけキツネの事を知らなかったのだろう。

「だから、なぜ昨日猫がアキナに鈴をつけさせたのか、よくわかる。きっと、ネコとわたしはどこか似ていて、だからこそ」

 だからこそ、仲良くできなかった。

 鏡に映った自分を、自分と認められないような事なのかもしれない。似ている部分が、自分に取って厭な部分だったとしたら、鏡に向かって吠える事もあるのだろう。

「………そっか」

 まあ、似ているからこそ反目し合った事は、裏返してしまえばそれゆえに仲良くなれるという事でもあると思う。何一つ自分と交わる事の無い相手よりも、少しでも自分と関わりのある相手の方に親近感を抱く事は、何一つおかしなことではないのだから。

 弧狗狸荘が見えてくる。ネコもまた、今日からここで暮らす事になる僕たちの家。ネコが孤独であったのなら、ネコが見つけるべき場所は、帰るべき場所はここだったと、そう言えるようになったらいいと、そう思う。

「………そう言えば」

 帰りついて、自分の部屋に戻る前に、不意に思いついた事があったので、僕は言った。確証はないけれど、確信している事を、口に出して伝えるために。

「今日のお弁当、美味しかったよ」

 多分僕は、こう言うべきだ。そう思っているからこそ、それは、言葉にしなくてはならない。淡泊を気取って、斜に構えた振りをして、思っているだけで満足していたら、これまでの自分と何一つ変わらない。一瞬前の自分と今の自分は、間違いなく違って、そして成長しているのだから。

「もしよかったら、また食べたい」

 僕がそう言うと、キツネは僕の方を振り返って、まるで今日一日それだけが気になっていたかのような、そんな万感の思いが籠ったような仕草で、僕に応えた。

「うん。おっけー、期待して」

 その笑顔は、やっぱりこれまで見た事が無いような、初めて見るものだった。キツネにだって会心の笑顔がる。そんな事を知っていても、実際に見るのとでは、やはり別の事だから。

 不覚にも僕は、その瞬間キツネに見とれてしまった。いや本当に綺麗だった。


 部屋に戻って見ると、相変わらずどうしようもない有様で、眩暈がするほどだった。もうカーテンに関してはどうしようもなさそうなので、取り外してしまう事にした。本と教科書を片づけるのは、そう大変なことでは無かったが、しかし、今日の夜布団をどうしよう。

 そんな事を思っていたら、たぬきおばさんが予備の布団をくれる事になった。それに、ずたずたになったこの布団も、直して使う事が出来るらしい。本当に、迷惑ばかりかけている気がした。

「ネコちゃんが帰ってきていないから、迎えに行っておやり」

 そう言ったたぬきおばさんに従って、僕はネコを探しに、夕焼けの中、家から出てきた。昨日と同じ夕焼けも、季節は少しずつ春から遠ざかり、きっとどこか違うのだろう。気がつかないうちに、日は長くなり、夕焼けを見る時間は少しずつ遅くなる。

 ネコを探しに行くと言っても、心当たりは一つしか無かった。そして幸い、ネコがそこにいたので、僕のネコ捜索はあっさりと終わりを迎えた。ネコは、一人で、昨日僕と出会った空き地にいた。土管の上で、何かを思い出すように、夕焼けを見つめている。

「ネコ」

 呼びかけると、あっさりとこちらを向いて、まるでさっきまで何か思っていた事が、無かったかのようだった。それでも、僕の知らない事を、ネコは思っていたのだろう。知らないけれど、知らないからと言って世の中に存在していないわけでは、無いから。そう言えば、猫には人間に見えないものが、見えるのだったか? 妖怪の暮らす街に居ても幽霊は住んでいないと言われたけれど、案外そこには、ネコの昔の飼い主が居たのかもしれない。

「にゃんだ、態々、迎えに来てくれたのかにゃん?」

「そうだよ。て言うか、学校をさぼりやがって。何かあったのか?」

「別に、単にゃる気まぐれにゃん」

 ネコはそう言ったけれど、実際はどうだったのだろうか。今日の弁当は、キツネが昨日の夜から準備したものだった。だから、今日いきなりやってきたネコの分までは用意できなかっただろう。だからと言って、何も持たせなかったとは思えないので、ネコは多分、たぬきおばさんが作ってくれたお弁当を食べたのではないだろうか。ネコの傍らには、弁当箱が置いてある。不器用な包み方は、如何にもネコがそうしたように見える。

 一人だけ違う弁当。別にそれだからって、何かを気にする事も無いだろう。もしも僕がネコの立場ならば、むしろ用意してもらえた事に感謝するばかりだ。きっと、ネコだって感謝している。しっかりと食べたのは、だからこそだ。それでも、僕たちと一緒に食べなかった事には、何か理由があるのだろうか。

 例えば僕が、キツネが弁当を用意した事に、気がつくかどうか、とか。僕がキツネの弁当を食べる所を、見たくなかった、とか。それ以外にも、いろいろと考える事は出来るけれど、その全てが、一体何の意味があるのか分からないものばかりだった。もしかしたら僕の思いつかないような理由があったのかもしれないし、ネコの言うとおり気まぐれに過ぎなかったのかもしれない。

「帰ろうぜ。皆お前が帰って来るのを待っていて、夕飯をつくってくれてる」

「そっかにゃん」

 ぴょんと、土管の上に座っていたネコは、そのまま僕の所までひとっ飛びでやってきた。身軽なのは、ネコだから。縛られると同時に、やはり優れているのだ。同情するべき面があるのと同時に、羨ましい面もある。

「アキナはおれっちが恋しくて、待ち切れにゃくにゃって、迎えに来ちまったんだろう?」

「はあん、誰が恋しくなるかよ。僕はただ、帰りの遅い飼い猫が、どこかで泣いてないかと思っただけさ」

「にゃんだとう?」

 なんて、くだらない話をしながら、僕たちは初めての家路に就いた。僕とネコの、二人で初めて歩く道だ。

 迷子は、一人で、心細くて泣いているものだから。もしかしたら迷い猫も、そうなのかもしれない。人間に近い、ネコだからこそ、そうだったのかもしれない。

 そうしてこの日、招木ネコが弧狗狸荘の住人に加わった。部屋の場所は、キツネの強硬な主張があったため、僕の部屋の真下になった。僕の部屋のとなりをネコは希望したけれど、夜中に布団にもぐりこんでくるような奴を、隣に住まわせる気はない。

 迷い猫は招き猫に。ネコがここに暮らすにあたってかかる費用は、もういっそ、僕が将来出世払いとして何としてでも払う。そんな決意を僕はしていたのだが、招き猫である彼女は実はかなりの財産をもっていて、むしろ現状、僕の方こそ彼女のひものようなものであった事を知るのは、しばらく先の話だ。

 迷子の子猫が、犬のおまわりさんに助けを求めてどうなったのかは知らない。けれどとりあえず、僕が知っている迷子の子猫は僕と一緒にいる。



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