迷子の子猫ちゃん(1)
いろいろとあった入学式も、僕にとって初めての経験を多く残して終わった。キツネに言われてはいたものの、甘く見ていた事を否定できない。まさか、大声で名前を呼ばれるとは、思っていなかった。しかしそれでもまあ、悪い思い出ではない。少なくとも、色の無いモノクロの記憶では、無いと思っている。
新しく始める事が、何事においてもスムーズに進む事は少ない。その例にもれず、僕の新生活も問題だらけだった。それこそ、たぬきおばさんやキツネに助けてもらわなければ、今よりもずっと苦労していただろう。
最も僕の気にかかっていた生活費に関しては、この町に居る限り気にする必要はないらしい。そういうことになって弧狗狸家にお世話になる事になった。それについてどういう事情があるのか、詳しい話を聞く事は出来なかった。大天狗先生も、こればかりは口が重く、しかるべき時がきたら教えるとしか、言わなかった。
どちらにしても、僕は結局学生の身であって、働こうと思えばそうすることもできるのだろうけれど、将来の事を考えれば、少なくとも高校は卒業しておくべきだった。だから、どんな事情であれ、何かしらの事情があってそうしてくれるというのなら、今はありがたくそれに甘える事にしようと思っている。
ただ、自分の娯楽に関するお金だけは、自力でどうにかしようと考えているので、今はアルバイトを探している所だ。まあ、それだって、一人暮らしがある程度落ち着いてからの話だろう。それに、妙な所で働くのは、人間の世界以上に危険な光のような気もするのだ。妖怪の類が、何も弧狗狸家の人々のように人間に対して友好的であるとは、限らないのだから。
「部活には入らないの?」
帰り道、一緒に歩いて居るキツネは、僕にそう言った。お互いに、まだ部活に入ったりバイトを始めたりもしていないし、同じクラスなので、自然と登下校は一緒になる。別々に帰らなければならない理由も無いし、そうしているのだ。
時折、たぬきおばさんに頼まれた買い物を、二人で一緒に済ませて帰る。この町は、なぜか物価が外よりもずっと安い事に気がついたけれど、それについての答えも分からない。誰に聞いたらわかるのかも、僕は知らないのだ。この町の人たちがどの程度外に関して知っているのかも、分からない。ともあれ、寄り道といえばその程度であって、大抵僕たちはまっすぐ家に帰っている。
そういえば、どうやらキツネは、あまり外で遊び歩くタイプでは無いらしい。まあ、僕たちの学校から、そういう遊ぶような場所に行こうと思ったら、家と反対の方向に行かなければならないので、そういう理由もあるのだろう。
「んー、あんまり、お金のかかる事をする気も無いしなー。中学の時も別に何かやっていたわけでもないし」
今は別に、入ろうと思っていない。
僕がそう言うと、キツネは少しつまらなそうな顔をして、ふうん、とだけ言った。
「キツネは?」
「私は、お母さんの手伝いがあるから」
「そっか」
キツネは、ほとんど毎日たぬきおばさんと一緒に夕飯の準備をしている。朝食については、あまり寝起きが良くないらしく手伝っていないらしい。実際には以前、手伝おうとしたらしいのだが、寝ぼけてたぬきおばさんのしっぽを輪切りにしそうになったそうだ。その事を笑い話としてたぬきおばさんは、笑いながら僕に話して聞かせてくれた。
いや、笑い事じゃないけどね。
「変な事思いだしてるだろ」
思い出し笑いをしていた僕のわき腹を、そう言ってキツネは肘で突いた。
「よくわかったね」
「ニヤニヤしてたら誰だって分かる」
キツネはそう言った。
こうやって、今は僕と一緒に行動することが多いけれど、キツネにもキツネだけの友人は居る。例えば、僕のクラスの委員長を務めている、ぎざ耳ちゃんこと、うさぎさん。多分元は、絵本にあったぎざ耳ウサギだと思う。あれは確か、有刺鉄線だかで傷つけたのだけれど、ぎざ耳ちゃんは生まれた時からそうだったらしい。
まあ、その程度の違いは、齟齬にもならないのかもしれない。何よりも、人間というものが僕以外には存在しないらしいこの町で、そうなる理由は希薄すぎる。むしろ、後天的な理由でそうなった場合の方が、齟齬は大きくなるのではないだろうか。
うさぎさんは無口な娘で、あまり委員長には向いていないような気がしたが、案外、みんな彼女の指示には素直に従うようだった。もしかしたら、僕が知らない話が、そこにはあるのかもしれない。
「うさぎさんと遊んだりはしないの?」
「うさぎは、本を読むのが好きだから。あんまり一緒に遊んでくれない」
そう言えば、休み時間にはいつも本を読んでいた。僕も、本は読むのでいつも、何を読んでるのかなー、と、思っていたのだ。そう言えばうさぎは、僕の知る限り吠えない動物だ。
まあ、うさぎさんの話は良いだろう。あまり仲良くなった相手という訳でもないので、その辺りの事はいつか仲良くなった時で良い。
「アキナも、本は好きだよね?」
「うん。あんまり特定のジャンルにこだわりがあるわけでもないけど」
「ジャンルは良く分からない」
「キツネは読まないの?」
「あんまり」
まあ、読書なんて、好きになったら始めれば良いものだ。言うほど高尚なものでもないし、死ぬまで読まなくたって、大した問題にもならない。酷い言い方に聞こえるかもしれないが、長い目で見てしまえば漫画とあまり変わらないのではないかと、僕は思っている。
「うさぎに言ったら怒られるよ」
僕がそんな事を言うと、キツネはそう言って笑った。どうやらうさぎさんは、かなりの読書信望者らしい。僕のような軟派な読者では、近づく事もおこがましい存在だ。
僕の新しい日常は、とりあえずこんな所で安定している。学校の方も、多分、人間のそれとあまり変わらないのではないだろうか。数学、英語、国語、物理、化学、倫理、体育、芸術。そんなところだ。
とりあえず、まだ将来について何か考えているという事も無い。だからと言って、勉学をおろそかにするという訳にもいかない。毎日勉強は欠かさないようにしている。まあ、クラス単位で見ると、妖怪の類のクラスメートたちは、みんなあまり勉強が出来る方では無いのかもしれない。
なので、クラス単位での出来不出来で、自分の学力を図る事はとりあえず止めておく事にした。もしもいつか、この町を出て、大学に行こうと思ったら、その必要がある。
所でこの際、僕たちのクラスについて話しておこう。クラスメートは僕とキツネを含めて三十人。この際はっきり言っておくと、僕以外に男は居ない。一体どういう事だ。説明を要求する。どうすんだよ、イベント事のとき。男女別、クラス対抗リレーとかあったら僕一人で走るんだろうか。最早いじめだろう。クラス担任は、貧乏神先生。会うたびに飴か何かを上げたくなってしまう、そんな不憫な先生だ。
そんなこんなの日常である。問題が隠れていそうな気がするけれど、それが表に現れるまで、どうせ僕には対処できない。表に現れた時、どうにかできるかどうかはまた別の話なのだろうけれど。