大切な物語
いつどこで、何をどう間違えればこんな事になるのか。皆目、見当がつかない。普通に生きていれば、まともに生きていれば、友達を殺されて自分も殺されそうになるなんて事は、あり得ないはずだ。
少なくとも、日本に居る限り、そんな事がありふれているとは思えない。
「逃げないのかい?」
ぴたりと切っ先を向けて、九十九は言った。
「僕は―――」
逃げないと言うよりも、逃げられる気がしないのだ。九十九から走って逃げる事は、多分不可能ではない。相手が刀を持っていようが、そんな物は別に飛び道具でもないのだから、手の届かない所に居る限り害は無い。
しかし、黒い球体の神。それを神と呼ぶのかどうかはこの際どうでも良くて、神で無かったとしても僕はそれに圧倒されている。これに背を向けるべきではないと知っているし、これから逃れる事は出来ないと理解している。
何も知らない。
奪われようとしている事は分かるが、何も知らない。
ただ、僕は逃げられないと言う事だけは理解できている。だからこそ、こうして縫い付けられたように足を動かせないでいる。実際は縫い付けられてなんかいないし、それ以前に動くなとさえいわれてもいないというのに。
「あるいは戦うと言う選択肢だって、君にはあるはずだ。アキナ君」
「それは、苦手なんだ」
あの鬼ならともかく、こうして向かい合った人間に刃を向ける事が出来ない。奪われた事は確かで、仇である事も敵であることも事実だと言うのに、僕の心はそれで動こうとしない。
赤鬼に対して薄情なのかもしれないけれど、失ったものは、所詮失ったものだ。他の誰を失ったとしても、多分、僕は失ってしまったもののために何かを傷つける事は出来ないのだと思う。
「いっそここでちゃんばらでも始めれば、案外あっさり方が付くんじゃねーかとも、思うんだけど。でも、そこまでの覚悟は無い」
「殺せないと言うのか。君は失ったものに何も感じないのかい?」
「感じないわけじゃない」
ただ、何をしてもそれは結局、失ったもののために出来る事ではない。九十九を殺した所で、満足するのは赤鬼ではなく、満足するのは僕だけだ。
「ただ、失ったものは――――――」
そう。
「―――取り戻せないと、知っているだけだ」
「………」
失ったものは戻らない。
喪失感は別のもので埋めるしか無くて、紛い物だとしてもそうすることでしかそれは埋まらない。同じものが二つとないからこそ、僕たちはそれを大切だと思っていたのだから。
「だから」
「だから、何だって言うんだ。そんなのはお前が大切に思っていなかっただけじゃないか。友達とか何とか言っておきながら、失ったらそれまで? そんな友情があるか、あってたまるか。絆と愛情は永遠で、大切なものは絶対だ。お前はあの鬼が大切だと言っているだけで本当は大切だと思っていないから、だからそんな事が言えるんだ! ボクは違う、お前みたいに諦めて分かったような顔をして、大切だった振りをするうそつきとは違う!」
それは、初めて見る激情では無かった。
その悪意を、その敵意を、その害意を、僕は知っている。ずっと以前から、九十九はそれを鬼に成して僕にぶつけていた。今までが猫を被っていたのであって、やはりこちらが本省なのだ。
「僕がうそつきかどうかは知らないが、お前の言う事にはいちいち肯けないよ、九十九トウキ。大切なものを失っておいて取り返しが付くなんて、そんな都合のいい話があってたまるか。そんな話があったとしたらそれは、お前の大切なものなんてありふれていたと言うだけだ」
「そんな事は無い」
地獄の底から届く言葉のようだ。
恨み妬み嫉み、悪意と害意をそこに溢れるほど込めている。僕が憎くて、僕が妬ましくて、僕が嫌いだと言うことを、最早隠していない。隠れていない。
「そんな事は無い。そんな事は無い。そんな事は無い。そんな事は無い。そんな事は無い。そんな事は無い。そんな事は無い。そんな事は無い。そんな事は無い。そんな事は無い。そんな事は無い。そんな事は無い。そんな事は無い。そんな事は無い。そんな事は無い。そんな事は無い。僕は父さんと母さんを、取り戻す。君から大切なものを奪い返す」
呪うようにそう言って、彼の腕に力が入る。
殺される。
殺される。
このまま黙って立っていれば、間違いなく僕は殺される。ここが選択肢で、ここが分かれ道。分岐点にして転換点。
かつて誰かがそうしたように、僕も選ばなくてはならない。
僕にだって、分かっている。
本当の神様では何にしても、目の前にある黒い球体には、きっとそれなりの力がある。それこそ、人間にルールを強いる事が出来る程度には。この町には、人間は一人しか居られない。そのルールを存在たらしめていたのが、きっとこれなのだろう。
かつて大天狗先生やヴァンパイアがそうしたように、僕も選ばなくてはならない。
与えるか、それとも奪うか。
何よりも、痛みは自分で負わなくてはならない。代償を支払うのは、僕でなくてはならない。
大切なものを掛けて戦うか、目の前に居る歪んだ人間を殺すか。
僕のために人を殺す。
多分、そんな事は出来ない。普通に生きていて、普通に暮らしていて、確かに友達を殺されたけれど。けれど、いつかまた普通に生きていた場所に戻りたいのなら、それはしてはいけないものだ。
僕にとって一番大切なものはこっくり荘だから。そこに居る家族を失うのなら、死んでも同じだ。死んだ方がましだと言っても、良いくらいだ。
「何もしないのかい?」
「戻れなくなる道は、進まない」
「そう―――」
だったら死ね、と。きっと続くはずだったのだろう。そうしてそれと同時に九十九は刀を突き出して、きっとそのまま僕は死んでいるはずだった。
分かっていて、選んだ事だ。
誰かを奪われるくらいなら、皆から離れて生きている位なら、僕は死んだ方がいい。人殺しになって一人ぼっちになる位なら、僕は死にたい。
「な―――――!」
「………」
息をのんだのは僕で、僕たちを遮った背中の向こうに、九十九が笑っているのが見えた。切っ先は、その背中を貫通して赤い血液を滴らせている。大した量の血液が落ちているわけではないが、服を見れば凄まじい速度でそれが血に滲んでいる事が分かった。
「大天狗……先生」
こちらを振り返ったその顔を、僕は見る事が出来なかった。
「なんだ、邪魔が入ったのか。だったら―――!」
「鬼か……」
大天狗先生はそれを見る事もなくそう呟いた。明らかに、刀は大天狗先生をどうしようもなく傷つけていて、このままではきっと間違いなく死んでしまう。
死んでしまえば取り返しがつかない。
周囲を取り囲む悪意の鬼なんてどうでも良くて、きっと僕はそんなもの大天狗先生を守るためならいくらだって斬り伏せる事が出来たはずだ。幾千、幾万、そんな悪意がやって来ても、どんなに悪意を向けられても、僕はきっと大切な物のためなら傷つける。
なのに。
「逃げるぞ、アキナ」
待ってと言う暇もなく、大天狗先生はそのまま僕を抱えるようにして飛び立った。天狗の本領発揮とでも言うように、一足飛びで鬼の頭上を越えて、電柱の上から上へと飛んでゆく。
着地してまた飛び立つたびに、傷口から血が溢れて、その度に命を失っても。
「君が逃げると言うのなら、ボクは君の大切なものを奪う! その天狗で一つ、あと二つ奪って、そしてボクは取り戻す!」
背後から聞こえる九十九の声も、現実を前にしてどこまでも遠くなって行く。もうどうしようもないのだとしても、選択肢があるのなら、僕は大天狗先生を失いたくない。後ろから追ってくる鬼なんてどうでも良いから、大天狗先生に生きていて欲しい。
「大天狗先生! 大天狗先生、おろしてください。僕が鬼と戦って、あいつを殺しても良いし、僕が死んだって構わない。僕はどうなっても良いから、だから」
「黙っておれ」
「黙ってなんか居られない! 死んでほしくないから必死なんだ、死にそうだから必死なんだ! せっかく家族になったのに、なのにこんな事で僕は誰かに死んでほしくなんかない!」
失ったものは所詮それまでだけれど。
だからこそ、僕は失いたくない。
「アキナ。もう少しで逃げきれる」
静かに大天狗先生は言った。
折しも夕暮れ、太陽が沈むように、大天狗先生の命も尽きようとしている。僕を抱えて飛びまわって、血を撒き散らしてまで逃げている。
だと言うのに、鬼は少しずつ僕達に追いつこうとしている。
きっと、大天狗先生にはもう、そんな事も認識できていない。
「生きろ。私の息子を守るために私が死ぬ事は、私の勝手だ。きっとお前は、そんな事を望まないだろう。お前は優しい子で、誰かを傷つける事が出来ないから。そんなお前の彼女に似ている所が、私は何よりも誇らしい」
「そんな事……」
「父親なんて名乗る事もおこがましいが、それでもお前は私の息子だ」
「そんな、死ぬみたいな事を言うな……」
飛び回る足も弱々しくなって、あと一度、あと一度と、騙し騙し、かろうじて飛んでいる。もうすぐそこまで鬼は迫っていても、けれどもう、そんな事はどうだっていい。
「鬼の声も聞こえない。これではきっと足りないだろうが、だが」
ようやく地面に降りて、抱えていた僕を地面に下ろした。
「こんなにも重くなった」
僕は。
僕はどうして、こんなにも。
「私はお前が生きてきたこれまでを、見守ることは、出来なかった」
地べたに腰を下ろそうとする大天狗先生を抱えて、その時大天狗先生の服が血でぐっしょりと濡れている事に気が付いた。刀は突き刺さったままで、こんなにも出血したのはきっと、僕を抱えて逃げ回ったせいだ。
「私を、支えられるくらい、お前がたくましく成長して」
「そんなの、そんな話は……後でいくらでもきくから」
いくらでも聞くし、何だって聞く。これまでの事が聞きたいならどんなつまらない話でもするし、どんな恥ずかしいことだって話してやる。
「すまなかったな……アキナ」
そう言って、大天狗先生が力を抜こうとした瞬間。既に鬼は僕たちのすぐそばまで迫って来ていた。身の丈五メートルの怪物は、僕たちを取り囲むようにして悪意を向けている。もうすでに虫の息で、あとは死ぬのを待つばかりの大天狗先生すら殺そうとしているかのようだった。
そして、僕も。
鬼丸はとり落としたまま、あの場に置き去りになっている。僕に、鬼と戦う手段は無い。大天狗先生が守ってくれたと言うのに。大天狗先生を犠牲にしてしまったと言うのに。
狐から父親を奪ってしまったと言うのに。
「お父さん」
はじめて、そう呼んだ。
「………」
答は無いけれど。もう、ほんの数秒で、きっと呼吸まで止まってしまうだろうけれど。
「僕は生きます」
生かされたから。
そう望まれたのだから。
「………だから、見ていてください」
ここで死ぬのだとしても、僕の意思は生き続ける。死ぬ事はもう見ない。活かされた命にはきっと、生きるために戦う義務がある。
鬼の葬列。
ここで生きる可能性が0だったとしても、生きる事を迷わない。戦って奪って、生きなければならない。
だから。
だから。
「ん?」
鬼の向こう、股の間から見える景色に、不意に何かを感じた。命が尽きようとしていた大天狗先生の体に一瞬力が籠って、僕はそれに驚いた。
見えるのは火の球だった。
夕陽の中で、夕焼けに燃える炎の塊。それは燃えているのではなく、燃やされているのだと誰が分かるだろうか。親友を失うその瞬間に、どんな傷かな、それとも奇跡か、彼はとにかくそこへ駆けつけたのだ。彼にとって夕焼けであっても、夕日であっても、それだけで命に関わるのだと言うのに。その身を光に曝すことを全く意に介さず、きっと初めて、彼は太陽の下を闊歩する。
「ヴァンパイア――――!」
萌える体は端から肺になり、熱に焼かれた喉は最早言葉ではなく唸りを発することしかできない。喉の奥から漏れるようにして、それでも高らかに響く叫びは、失われる命を嘆くのか、それとも、失ってなお守る意思をたたえたのか。炎の奥に光る目は、涙をたたえてこちらを見据える。
「大天狗先生、ヴァンパイアが来たから、だから!」
あれからずっと会っていない。
かつてそんな話を聞いた。裏切ったとか、そんな事は、きっと思いすごしで。すれ違うどころか、すれ違った気になっていただけだった。
大切なものを守る。
そう誓ったある親友同士。
「………早く」
一人は僕の目の前で、夕日にその身を焼かれながらも戦っている。有象無象の悪意を意に介さないとでも言うように、鬼達は彼になぎ払われる。
一人は僕にもたれかかり、夕陽の中でその命を死に焼かれている。息も止まり、ただそれでも、ほんの少しの鼓動が僕の体に伝わってくる。
「早く!」
「―――――――――!」
声にならない叫びと共に、ヴァンパイアは僕たちを抱え上げ、そのまま空に飛びあがった。燃えている体を意に介さず、気にした様子もなく、まっすぐにこっくり荘へと向かっている。
痛々しく、そしてそれは同時に僕の心を傷つけるけれど。
今はただ、ほんの数秒先に泊まるのだとしても、大天狗先生の鼓動が続いている事が、僕には救いだった。きっとその鼓動は、燃えているのだとしてもヴァンパイアにまで伝わって、彼にもそれは分かっている。
親友たちは再会した。
今ここでそんな事を考えるのは、僕の勝手な想像だろうか。




