泣いた赤鬼(4)
この町に来てからの事をいちいち挙げていたら、きっと僕のこれまでの人生を全て羅列する様なものだろう。どんな思い出も、どんな楽しかった事も、今のところこの町であった事しか思い当たらない。
キツネに出会った事。
大天狗先生とたぬきおばさんに出会った事。
猿たちとの争い、キツネと仲良くなった日。
入学式。
ネコと出会った事。
ツルさん拉致監禁未遂事件。
ツルの恩返しが始まって家族がまた増えた事。
大天狗先生とたぬきおばさんが僕の両親だと聞いたこと。
急に現れた婚約者。
デイとナイト。
吸血鬼ドラキュラ・ザ・ヴァンパイア。
僕の両親たちの時代の話。
鬼退治。
クリスマスを超えて年が明け、節分に出会った赤鬼と僕は友達になった。孤独で痛がりな赤鬼は、昔の僕に似ていた。
全ての思い出が、どんな思い出も、僕を形作る全てだ。きっとどれか一つの出来事が掛けても、今ここに居る僕という人間は成立しないだろう。僕は決して運命論者ではないけれど、運命というものがあったらそれに感謝したいくらいだ。
神も運命も、この世の中には居ないだろう。神様を気取る人間がいたとしても、現実にそんなものがいたとしたら、そいつはあまりにも怠け過ぎている。
悲しい事や苦しい事が必ずしも世界に必要ないとは言わないけれど、それでも世界には、必然性の無い悲劇と悲しみが溢れている。死ぬ必要がない人間が、死んではいけない人間が、死んでいく。死んだ方が良い人間が、死んでも良い人間が、どこかで生きている。
世界のどこかで誰かが泣いていて、世界のどこかで誰かが救いを求めている。救いを求める事を忘れて、救われたいと願うことすら止めてしまう人間だって、世の中には居るのだ。
僕は神様では無くて、誰かの上に立つような人間でもない。誰に言われるまでも無くそんな事は分かっているのだけれど、そんな僕にだって大切なものがあって守りたいものがある。
今の僕には大切で守りたいものがある。
自分の命よりも、きっと大切だと願えるものがある。勿論それは、この町に来たからこそ僕にもそんなものが出来て、きっとそれこそが今僕がこの町に居る理由だ。今僕が生きている理由だと、そう言っても良い。
彼女のためなら僕は死ねる。
年明け、初詣に言った朝に僕はそう思った。キツネと一緒に居てそう思ったのだけれど、しかし、これは言うまでも無く、僕はこっくり荘全員のために死ぬ事が出来る。きっと、迷い無く、後悔無く、死に際に笑うことだってできるかもしれない。
キツネのためにそう思った事と同じように。
ネコのために。
大天狗先生やたぬきおばさんのために。
ツルさんのために。
デイのために。
ナイトのために。
そしてきっと、赤鬼のためだってそれが出来る。
僕に似ていて、一人で居た時間の分だけ僕よりも不幸な彼。僕には両親がいたけれど、人の心から生まれてくる彼にはそんな物はいない。生みの親と言えば僕になるのだろうけれど、しかしその想像は、あまりぞっとしない。
彼は僕に出会うまで、生まれてからそれまでの時間をどう考えていたのだろうか。何を感じていたのだろうか。僕ではない彼が何を考えて、何を感じていたのか、それはもう、想像するしかないし、その想像には最早根拠もない。
多分、どこまで行っても的外れな想像だろう。
今の僕は昔の僕に関してすら、もはや想像するしかない。その、昔の僕に似ていると言うだけで、僕が赤鬼の何を分かっていたというわけではないのだ。理解しているなんて、どこの誰にだって言えることではないし、言っていい事ではない。
神様でもないのに、他人に対して理解しているとかそんな事は言えない。僕にだって誰にだって、そんな事は言えない。どこまで似ていても、僕たちは同一人物ではないのだ。
双子の姉妹であるナイトとデイだって、あれだけ違っていて、僕たちはそれ以上にずっと違っている。
僕が見ていないものを、彼は見てきたのだろう。
僕が見たものを、彼は見ていないように。
僕が思った事を彼は思っていないし、彼が思った事を僕は知らない。
知らないし、分からないし、きっと理解できない。理解しているつもりには慣れても、完全な理解は、きっと死ぬまで出来ないままなのだと思う。どこまで行っても、僕たちはほんの少しだけ自分に都合の良い考えをそこに混ぜていて、そういう部分に現実で格差を感じる。
寂しかったのかもしれない。
羨ましかったのかもしれない。
苦しかったのかもしれない。
もしかしたら、妬ましかったのかもしれない。
分からないけれど、きっとそんなところなのではないだろうか。分からなくて、理解できなくて、想像するしかない。想像した所で、きっとそれもまた、的外れだけど。的外れでも、それでも何かを思う事が、人を思いやると言う事だ。
大切で、大切に思うのなら、思いやる事を、考える事を辞めるべきではない。
考える事を辞めるべきでは無かった。考えておくべきだったし、現実に満足して疑問をそのままにしておくべきでは無かった。自分の身の回りにあるものが善意ばかりでは無い事を、僕はどうして忘れていたのだろうか。
鬼。
悪意の鬼。
なぜ、どうして僕は、その事をそのままにしていたのだろうか。もう少し考えていれば、成果に至る事が出来なかったわけではないのに。歩いていても、歩いてさえいれば、進んでさえいれば、いつかゴールまでたどり着く事が出来るというのに。そんなことを、なぜ忘れていたのだろう。
簡単な事だというのに、決して難しい結論では無かったのに。
いつだって気が付くときには遅すぎる。致命的なことほど僕達の視界を逃れて、僕達の懐深くまで入ってくる。悪意が無くても人は傷つき、悪意があれば人が傷つくことを証明してきた歴史と、過去。
詰まらない話であっても、例えば人が事故や自然災害に備えるように、この町に居る僕は自分の周囲に真剣に目を配っておくべきだった。それこそ、ナイトに一度くぎを刺されたように、緊張感は必要だったのだ。ぬるま湯で、慣れあって、慣れた気になって安心していた。
その結果が、今、僕の目の前にある。
あんまりな現実で、以前考えた事が呪いだったのではないかとさえ思える。この現実を僕は受け止めなければならないし、逃避して逃げる先は、現実には無い。見て見ない振りをしても、何も変わらないのだ。
変わらない、変わらない。
何もかも変わらない。今も、昔も、現実も、過去も、何もかも変わる事は無い。目の前にあるものを無かった事にはできないし、僕が経験してきた事は無かった事にならない。いやな事も苦しい事も、僕に出来るのは目を逸らす事ばかりで、後は意を決して立ち向かうしかない。立ち向かった所で、嫌な事も苦しい事も、辛い事も居たい事も悲しい事も寂しい事も妬ましい現実も狂おしい毎日も、無くなってしまうわけではない。
見たくない。
見たくない。
もうこれ以上、辛い事を考えたくない。
これが意味する事を理解したくないし、耐える事は出来ても立ち向かう事をした事がないから、こんなのは嫌だ。
そうして。
逃避した所で現実は変わらない。
不意に赤鬼の気配に異変を感じて、一人で鬼丸を手にとって彼を助けようと思ったのだ。悪意を感じて、そこにはつまり鬼がいるという事で、鬼丸があれば僕にだって鬼をどうにかできる事を、僕は半年ほど前に知っていたから。
だから今回だって、今までのようにどうにかなって、今までのように丸く収まるのだと思っていた。思っていて、思いこんでいた。
信じていて、信じ込んでいた。文字通りそれが家臣に過ぎない事は、重々肝に銘じていたはずだったというのに、結局僕は考えが甘くて、もしかしたらそもそも、こんな状況に至ったこと自体僕のせいなのかもしれない。
目の前には赤鬼はいない。もうそんな彼は、世界のどこにも居なくて、僕の前にあるのはかつてそれが赤鬼であったのだとかろうじて分かる程度の、残骸だった。意外であるとすら、それを見て言う事は出来ない。無残で、惨たらしい、陰惨で、悪辣すぎる死に方だった。
ばらばらで、ずたずたになった彼。彼だったもの。
赤鬼だったもの。
生きていて、生きていたのに、救われたかもしれなかったというのに。
「もう良いじゃないか、そんなのは」
幸せになって、幸せになれたかもしれない。そしてそれ以上に、これから彼は幸せにならなければならなかったはずなのに。僕が気が付く事無く、彼が一人で無為に過ごした時間は取り返しがつかなくても、これから先、そんな事がどうでも良くなるくらいに、彼は生きていくはずだった。
僕が救われたように、彼を救いたかった。
理解できなくても、想像しかできなくても、的外れな想像であっても。それでも、少なくとも僕は、彼の孤独を知っていて、それ以上にそこから救われる事がどんなに嬉しいか、知っていたのに。毎日が、家族というものが、どれだけ温かいものであるのか、それを彼に分け与えることだってできたはずなのに。
「彼は所詮鬼だ」
生きてさえいれば、いつかどこかで、僕が何かしなくたって、幸せになれたかもしれないのに。死んでしまったらそれまでだ。死者は蘇らないし、過去は変わらないし、失ったものが戻る事も無い。
どうしようもなく、どうしようもない現実。重く、沈み込んでいくような無力感を、ここまで感じさせられる事は、きっと昔は無かった。
もっと世界がどうでも良かった事ならば、こんな事があってもきっと、僕は自分の足で立って世界を見透かしたような顔をして、歩いていたはずだ。
「毎晩、毎晩、鬼を打ち倒す事と何も変わらない」
変わらないのかもしれないけれど、変わらないなんて事は無い。こんな事を口に出す事は無いけれど、地球の裏側で誰かが死ぬ現実は、身の回りで誰かを失う事とは全く違う。交通事故を目撃しても、多分、同じ事だ。自分に関わりのある人、そうでない人とには、明確な境界線がある。
悪意の鬼に同情は無い。
悪意の鬼と赤鬼は、全く別の事だ。全く知らない人間の死と、僕の身の回りに居る人たちの詩は同じではないように。同じに扱う事は、きっと身の回りに居る人たちに対して失礼だ。
大切なら、大切に思うべきなのだから。
「変わらないさ」
「変わるさ」
だから、奪った奴は許さない。
僕は彼のために死ねたのだから、そいつも同じく死ぬべきだ。死んで詫びろとは言わない、ただ死ね。
「変わるさ。有象無象の他人と、僕の友達を一緒にするな」
目の前に居るこの男が、どこの誰であってもかまわないし、関係ない。この男が血の滴る刀を握っていて、赤鬼の首を握っていて、誰がどう見ても、誰に見せるまでも無く、赤鬼を殺したのだと分かるから。
それ以上はどうだっていい。
この町に僕以外の人間がいたことだって、こうしてしまえば以外でも何でもない。もっと早く、この結論に至っているべきだった。この結論しかあり得ないのだと、自分を信用しているべきだった。自殺願望とか、そんな言葉でごまかしていないで、悪意と害意をそういうものだと受け取っていれば、誰かが僕に悪意と害意を向けているというだけの事だった。
こいつがどういう経緯でこの町に居るのだとしても、こいつが以前から僕を知っていた事は間違いない。明確な僕に対する悪意を抱く程度には、こいつは僕を知っている。何を持って悪意を抱いたのかは知らないが、そんな物、せいぜい嫉妬だとかその程度なのだろう。その程度にしか、僕はこの男に興味がない。
この血まみれの現実の中で、僕が殺意を抱いているのはこの男に対してである事が分かっていれば、僕にはそれ以上いらない。
赤鬼は死んだ。
無残に、陰惨に、否定しようも無く、取り返しのつかない形で、彼は死んだ。
幸せにもなれず、救われもせず、物語は結局悲劇的な結末に収束した。
シリアス