泣いた赤鬼(2)
あれこれと、いろいろと、偉そうな顔をして偉そうなことを並べては見たが、そう、確かに昔の僕が救われる事は無かったし救われる事も無いのだけれど、しかしだからと言ってあの頃の僕が誰かに救われたがっていたわけではない。そう言うものだと思っていたし、そういうものだとしか思っていなかった。
救われたいとか、そんな事は結局それ以上のものがあると確信できるからこそ出会って、もしかしたらここが自分の限界点なのではないかと思っている人間は、もはや余計な事をしようとはしないだろう。
今とは違うのは当たり前だが、しかし、確かに今とは違う。今の僕は、自分が幸せだと思っているし、もっと幸せになれると確信している。だからこそ毎日を確かに生きていて、誰かを愛している。あの頃の僕はなにも愛していなかったし、本当に生きていたのかどうかは怪しいものだ。
その違いがどれ程のものなのか、それを計る物差しをもっていない以上、僕がどれだけ変わったのかは、僕にはわからない。少なくともこの町に来て、こっくり荘に来た瞬間から僕は救われていたのだろうと言う事しか、僕にはわからない。
僕が僕の生み出した鬼に出会うにあたって、まず前提としてそれだけは言っておきたい。
そう。
僕は救われたいと思った事も願った事も、無い。絶対に、確実に、それだけは絶無であったと言いきる事が出来る。それだけだ。
普段は誰かと二人だけで下校すると言う事は無い。こっくり荘の住人が増えた事もあるし、デイが料理を覚えようとしているから、買い物に付き合うにしてもまっすぐ帰るにしても、どうしても人数は三人以上になるのだ。
あるいは僕がこっくり荘の外に居る友人と遊んで帰るときは、誰とも一緒ではない。何にせよ、こっくり荘の住人と二人だけで下校する事は、少ない。
だから、今回の事はその珍しい方の一例である。
「こういう事って珍しいね!」
「僕も今そう思っていた所だよ。まあ、僕がこの町に来た頃は珍しくも何とも無かったんだけどな」
そもそも、その頃はキツネと二人しかいなかっただけである。懐かしいと言えば、懐かしい記憶だ。大天狗先生とたぬきおばさんと、キツネと僕。こっくり荘にそれだけしかいなかった頃が、あったのだ。
「ふうん」
「なんだよ、気に入らないって顔をするじゃないか」
「だってアキナ、その頃の方が良かったって顔をするんだもん」
そんな顔をしていたのかどうかは知らないが、そんな事を思っていたと思わるのは心外だ。今になってあの頃を思い出した所で、あの頃に戻りたいとは思わない。そのために失うものを考えれば、そんな事は決して考えられない。
「そんな事は無いよ。昨日よりも今日で、あの頃よりも今の方が、僕は幸せだ。出会ってきた全部の人を、僕は失いたくないし、あの頃に戻ってそのために支払う代償と釣り合うものがあるとは思えない」
「そっか!」
そう言って嬉しそうに笑うデイとの出会いだって、同じ事だ。ネコだって、ツルさんだって、ナイトだってそうだ。今の僕が幸せなのは、僕が何を下からでは無くて、皆に出会ったから。
こういう珍しいイベントも、悪くない。一緒に変える相手によって帰り道は様変わりする。寄り道をしたりしなかったり、ゆっくり歩いたり早く歩いたり。誰一人同じ奴はいない。
昨晩一緒に大騒ぎしたナイトだって、双子の姉妹であるデイとは決して同じではない。顔は似ていても髪の色は違うし、性格も喋り方も、全然違っている。
と。
そんな事を話したり考えたりしながらこっくり荘に帰っている途中で、不意にどこかで感じたような視線というか、感情というか、感覚を感じた。騎士感というほど遠い感覚では無く、つい近頃、それも頻繁にそれと似た感覚をどこかで、というより様々な所で感じた事がある。
悪意では無いからすぐに確信を得る事は出来なかったが、それは確かに鬼だった。悪意を感じさせない鬼というものに出会うのは初めての事だったが、しかしそれは確かに鬼だった。
「デイ」
「なに?」
悪意は無くても、鬼は鬼。デイが存在に気が付いているかどうか分からなかったが、この反応で分かった。デイは、鬼という存在を知らない。デイからの情報はナイトに筒抜けになっているが、やはりどうやらナイトからデイに対する情報はかなり制限されているようだった。
「悪いけど先に帰っておいてくれ」
「………え?」
「用事が出来た」
そう言うわけでデイは先に帰してしまう事にした。先に変えるように告げた時の顔を思い出すと、後で何か買って帰ってやりたくなる。悪気があっての事ではないのだが、悪い事をしてしまったような気がした。
ま、しかたがない。お前を危険から遠ざけようとしたんだよ、なんて、そんな寒い説明をするつもりも無いのだし。隠し事は中途半端にするのが一番良くない。
ふうむ。気を取り直してみたものの、そこまで警戒しているわけでも無かったりする。鬼丸を持ち出して来てはいないのだが、僕の制服のポケットには落花生がいくつか入っている。折しも今日は節分、豆を投げれば鬼は去る。
だからまあ、デイが一緒に居た所で危険は無かったと思う。感覚でものを言えば数が多いという事もなさそうだし。しかし、鬼に関する事にこっくり荘の住人を関わらせたくないので、そういう意味で、やはり本当の事は言えないし、一緒に居る訳にもいかなかった。
少々、自分勝手かなあと思わなくもないけれど。
まあ、こういう所は自分で決めるしかないのだし、自分で決めた事だ。
視線というべきか、感覚というべきか。それは橋の下から感じられた。放っておく事は出来ないだろう。こっくり荘から距離はあるが、だからと言って安心して居られるほど遠いわけでもない。
「………やあ」
橋の下の鬼は、予想外にも言葉を発した。鬼が人語を操る事は、あり得ないとまでは思わなかったが、そんな鬼に出会うとは思っていなかった。そしてそれ以上に、目の前の赤鬼から負の感情を、全く感じない。
悪意も、害意も、それどころか感情というものを何一つ感じない。感じるのは羨望だけ。僕を見て羨ましいと思う、感情というよりも感覚。あまりに、僕に馴染み過ぎたその感覚は、僕にとって心地良いものではない。
まあ、悪意や害意よりかはましだ。
「お前は、鬼か。でも……僕が知っている鬼とは違う、お前はなんだ、もしかして鬼じゃないのか?」
慎重に、探るように僕は言った。
目の前に居る赤鬼から感じるどうしようもない親近感は、僕にどこまでも真実を告げているようにしか思えないが、だからと言って、昨晩その辺りに関する緊張感を入れなおしたばかりなのだ。気を許すには、あまりにも確証がない。
「おれは鬼だよ、君が知っている通りの、君が思っている通りの鬼だ」
赤鬼はそう言った。
穏やかな声、どこでもきいた事のない声。せいぜい、似ているとしたら大天狗先生の声だ。大天狗先生とかかわりがない鬼の声が大天狗先生の声に似ていた所で意味は無いけれど。
「お前、こんな所で何をしているんだ?」
「何もしていないよ」
赤鬼はそう言って俯いた。
「おれは何もしていない。ただ、おれが出ていけばみんな怖がるし、おれを好きだと言う人は誰もいない。おれは鬼だから、そういうものだ」
だからこうして、人目につかない場所で蹲っている。何も望みはしないとうそぶいて、見て見ない振りをすることで自分を守っている。こいつが何を考えているのか、嫌になるほど簡単に、手に取るように分かってしまう。
本当に、嫌になる。
今まで出会ったどんな醜悪な鬼よりも、僕はこいつから目を逸らしたい。
「君がこの町の人間か、出雲アキナ」
「……」
「そんなに警戒しなくても良い。おれは君に何もしない、そんな事は君だって言うまでも無く、言われるまでも無く、分かっているだろう?」
「……大きなお世話ではあるけれど、確かにその通りだよ。僕はお前が何も出来ないことくらい、お前を見る前から知っている」
最初から、それこそ僕はきっと、生まれた時からそれを知っている。
こいつは求めていないし、だからこそ何も奪う事も無い。ただ何も奪われたくないだけで、そのためになにも所有しないで生きていたいと考えている。そしてそれだって、願う事は無く考えているだけなのだ。
どこまでも、どこまでも、本当に何一つ求めてはいない。
失わないために所有しないなんて、そもそも論理が破綻している。
「おれの事は、やっぱり君が一番良く分かっている」
「お前の事は、そりゃあ僕が一番分かっているに決まっているだろう」
この赤鬼は、正真正銘、僕から生まれた鬼だ。否定しようも無く、これは僕の内側から生まれた、影の鬼。情けなく、女々しく、ひ弱で軟弱な僕の心そのもの。
手に取るように分かるのも、当たり前の話だ。
多分こいつは僕がこの町にやって来たと子に生まれて、今までずっと、僕にすら見つけられる事も無く静かにここで蹲っていた。およそ、10カ月と言ったところか。
10か月が、15年と比べて短いのかどうかは、僕には判別できない。そして判別するほど僕は偉くも無い。
ただそれでも、もっているものは無くても、もっていないものだけはあった事を、僕は忘れていない。僕が目の前の赤鬼みたいだった時がある事を、僕は理解しているし認識している。
「おれは何もしないし、何も求めていない。だから君も僕放っておいてくれ、今までのようにおれの事は忘れていてくれ」
何もしないし、何も求めない。そんな事は知っている。生まれてからずっと知っていて、忘れた事は無い。自分もそうだった事は、今だって覚えている。過去になったからと言って、無かった事になったわけではない。
「お前は何もしないし、何も求めていない。それは確かにその通りで、お前の言う通りなんだろうよ」
間違っていないし、嘘も言っていない。
「でも、何も欲しくないわけでも、何も要らないわけでもない。お前は僕じゃないけれど、僕にはお前の考えていることくらいわかるし、お前が目を逸らしているものだって見ている。お前じゃないから、お前の事がお前よりも分かるような気すら、している位だ」
「おれの何が分かると言うんだい……?」
「何も分かんねーよ。考えている事は想像できるけれど、それですべてを語るつもりもない。お前が見てきたものを僕は知らないし、その時何を思ったのかだって、想像できるだけだ。お前が、昔の僕に似ているから、僕には何となくわかる」
「似ている?」
赤鬼はそう言うと首を横に振って、こう言った。
「似ているなんて、そんなものじゃないだろう。おれは昔の君だよ」
「僕は鬼じゃないし、昔の僕はもういない」
救われなかった僕はもういない。今いるのは、救われて、何かを求めている僕だけだ。
「お前は僕じゃない、ただ似ているだけだよ。お前は昔の僕に似ている、ただの赤鬼だ」
「君の言っている事は詭弁だよ、確かにおれは君から生まれた鬼なのだから」
「僕が言っている事は事実だよ。僕が救われるよりも以前ならきっとこんな事は思わなかったけれど、でも、今の僕だからこそこう思うんだ。あの日の僕はもういない。膝を抱えてうずくまって、求めないとか救われたいと思わないとか、そんな事ばかり言っていた僕は、もういないんだ」
「その先に居るのが、今の君であってもかい?」
「ああ」
そう言いきれる。
どんな出会いも、どんな出来事も、今の僕を形作る全てだ。この町にやって来た時の僕と、今の僕はもう別の人間だ。どの出会いが掛けたとしても、きっと今の僕とはどこか違う別の人間になってしまうように。
だとしたらやはり、目の前に居る赤鬼は僕の一部ですら無い。過去に置き忘れた忘れ物でも無い。
確かにこの赤鬼は僕から生まれたのだろうけれど、今となってはこいつはただの寂しがりな鬼でしか無い、僕とは違うものだ。
「だから」
そう。
「だから友達になろう、赤鬼。僕はお前を、それなりに分かってやれる」
こいつが欲しいものを僕は知っているから。
「………」
「握手だよ、お前だって知らないわけじゃないだろう?」
こいつが欲しいものを僕は与えてやれるから、僕はこいつを救ってやりたいと思う。おこがましくても、そう思うのはきっと、やはりこいつが僕に似ているからだろう。