泣いた赤鬼(1)
ここでいちいち、最初から最後まで全て語るつもりは無いのだが、僕は僕自身の事に関して誰よりも知っていると自負している。それこそこれだけは、誰よりも何よりも、16年間一緒につれそって来た自分自身の事なのだから、僕以上に精通している誰かがいたとしたら、その事の方が驚きである。
誰だって、自分の事は自分が一番知っているものだ。自分の知らない事を他の誰かが知っていたとしても、きっとそれ以上にその誰かが知らない事を知っているだろう。歩いてきた道全てを思い出す事は出来なくても、きっとその道を見た時僕は思い出す事が出来る。
どんな人生も、どんな毎日も、どんな日常も、どんな歴史も、自分の記憶以上に綿密でもないし、緻密でも無い。多分、正確ですら無い。
例えば今現在の自分を自嘲する意味で、あの頃の自分は今の自分を見た所でそれが自分であることを認識できないだろう、と言う事がある。そんな仮定に意味があるのかどうかは知らないが、とりあえずそんな事を言うのは自分がタイムトラベルした時にとっておく事にして、しかし、そう言う物言いをする事はあってもその逆は少ない。誰だって、昔の自分がどんな自分であったのかくらいは、しっかりと記憶している。忘れたくても捨てたくても、忘れられるものではないし捨てられるものでもない。
今更捨てたいと思うほど程度の軽い過去でも無いが、しかし、あの頃に戻りたいかと言われれば、僕は決して戻りたくないと答える。みっともなく這いつくばって、懇願するかもしれない。忘れられないし捨てられないからこそ、過去の自分は克明に焼き付いている。今だって、目を閉じればあの頃の気持ちがよみがえるのではないかと思うことすらある。
多分蘇る事は無いし、きっとあの頃と同じ僕になる事も、もうないだろう。緩やかで穏やかな日々を経験した僕は、あの頃の僕とは違う。それこそあの頃の僕は今の僕を見ても、それが未来の自分だと思う事は無いのだろう。それくらい、考えもしないような、思いもしなかったような日々だった。
だけど不意に思う事があるのだ。確かに今僕は満ち足りていて、誰に憚る事も無く幸せであると言えるし、事実幸せだと思っている。毎日に感謝できるし、周囲に居る人たちを愛している。あの夜の誓いも、新年の誓いも、心からそう思い続けている。しかし、だからと言って、あの頃の僕が救われた事にはならないのではないだろうか。
どんなに幸せでも、どんなに満ち足りていても、過去が無くなるわけではないし、僕にはそれを捨てる事も忘れることもできないからこそ、過去が変わる事は無い。あの頃の僕がどんなに可愛そうな人間であって、今の僕がその先に幸せを手に入れているのであっても。
言っても仕方がないし、そもそも過去が変わる事も無い。今の僕が何を言った所で、結局それも恨みごとのようなものになってしまう。どうしてあの頃、僕はこうなる事が出来なかったんだ、なんて。そんな事、誰に行っても仕方がないし、きっとそこには自分自身の責任だってある。
人のせいばかりにするつもりはない。こうして人と関係を結んで、愛情を注いで欲しいのなら同じだけの愛情を注がなくてはならないのだと、あの頃の僕は知らなかった。その罪が僕に無かったとしても、責任はあったのだ。僕は愛されないのならだれも愛さなくて良いと思っていたし、愛されないことだって諦めた振りをしていた。
我ながら思い出したくも無い話ではあるが、しかし、忘れるような事でもない。
それは僕の話で、きっとこれは僕の物語だ。始まりがどこにあったのかはもう分からないけれど、話を始めるのならそれは今年の節分、日付が二月三日に変わってすぐ、そこからだろう。鬼の関わるこの話をするのなら、鬼の関わるその日の初めから話を始める事が相応しい。
繰り返すが言っておこう、これは、僕の物語だ。
日付が変わった時に布団の中に居る事は少ない。僕と同年代の人間が、普通その時間何をしているのか、僕は知らないけれど、少なくとも僕は体調が悪いかよほど疲れているかしない限り、その時間まで起きている。
正月に現れなかった鬼は、その分を取り戻そうとするかのように、毎晩こっくり荘へ向かってやってくる。毎晩、毎晩、ご苦労さまではあるのだが、こうも続くと迷惑千万極まりない。ここまで来ると本当に、僕以外の人間がこの町に居て、僕に悪意を向けているのではないかと疑いたくなってしまう。
まあ、安易に人のせいにするものではない。
「しかしまあ、今夜ばかりは仕事も楽じゃ」
「はあん?」
急にわけのわからない事を言ったナイトの方を見ると、彼女はどうやら市販の落花生を持って来たようだった。わざわざ鬼丸をもちだしてきた僕が馬鹿みたいに見える。そう言えば今日は、節分だった。
「なんだよ、節分だからって鬼に豆を投げようっていうのか?」
節分に関してそこまで詳しいわけではないのだが、以前テレビで見たのか誰かに聞いたのか、それに関して話を聞いた事がある。節分の豆はもともと、熱く炒った大豆だか何だかで、生のイワシの頭だかの匂いが苦手とか、そんな話だった。熱く炒った豆って、豆が苦手と言うよりもそんなものをぶつけられたらそりゃあ逃げるだろうと言う感じだった。
もしかしたら、そのせいで豆が苦手になったのかもしれない。
「まあ、由緒正しい風習に関して妾は知らん」
「僕もそこは期待していない。日本文化に関してあれこれ薀蓄を垂れ流す吸血鬼なんて、想像できないからな」
そんなのはかぶれすぎだ。デイ辺りならまだしも、由緒正しい吸血鬼には似合わない姿だろう。
「うむ。しかし現代の日本文化についてならばある程度知っておる。節分には豆まきをして、恵方巻きを食べるんじゃろう?」
「うん」
……うん。なんか違和感があるが、文句を言っても仕方がない。考えてみたら吸血鬼でプラチナブロンドの外人姿であると言っても、ナイトはそもそも日本語を話しているのだし地理的な意味で考えれば日本人なのだ。一緒にテレビも見るし。
「つまり今日は全国的に豆まきをする日で、豆をまけば鬼がいなくなるという理屈を日本中で進行していると言っても良い」
「回りくどい言い方をしなくても、つまりその理屈で今日は豆をまけば鬼が退散していくと、そう言いたいんだろう?」
説明が下手な奴だなあ。要点をまとめるまでも無いと思うのだけれど。要るんだよ、聞いてもいないような理屈とか、仮定とか、相手に理解させる気も無いのに喋り倒してくれる奴。
「まあそういうところじゃ」
「ふうん。お手軽なもんだな、今日だけしかできないって言う理屈は良く分からんが、何事もそう簡単にはいかないってことかもな」
鬼は外、か。
「そう言えば家の中から撒かないといけないんじゃなかったっけ?」
「そうじゃったか?」
お互いにあやふやだった。困った話である、せっかく楽が出来そうな所だったと言うのに、知識の浅さ加減が足を引っ張っている。こんな事ならもっとしっかりテレビを見るなり話を聞くなりしておくべきだったのだ。
「仕方ない」
「なんじゃ、良い方法でも思いついたのか?」
「いや、あれこれ考えるよりもいつも通りやった方が早いと思って」
「普段ならばそれに賛成しておる所じゃが、しかし今夜はあまり気が乗らん。何せ、節分じゃ」
ナイトの中での節分がそんなイメージなのか分からないが、回りくどい説明以上に言葉が足りないと分かりにくい。
「何が言いたいんだよ」
「豆を撒けば簡単じゃが、そうしなければ難しい。普段以上に、と言う話じゃ。今夜来る鬼の数は、普段の比ではない」
ふうむ。要するに、たくさん来ると言うことか。
それも、普段と今回とを比較するまでも無く、比較できないくらいの数。クリスマスも多かったけれど、おそらくそれすら問題にならないのだろう。面倒な話だ。しかしだからと言って、適当に豆を撒けば来ないと言うわけでもないのだろう。
もしもそうだったら、多分ナイトはもう豆を撒いている。
「やって来た鬼に直接ぶつけるのもありじゃが、そんな事をしていては豆が足りんし、いつもと大して変わらん」
「まあ、お前はそうかもな」
鬼の手が届かないところから撒いても良いかもしれないけれど、豆が足りないという点は何一つ解決していない。もっといっぱい用意しておけばよかったのに。
今更文句を言っても始まらないが、ナイトはどこで落花生を用意したのだろうか。買い物に行く姿が全く想像できない。もしかしたら昼間の内にデイが用意していたのかもしれないけれど。
うーん。何気に絶体絶命の状況へと近づいているのだろうか。いまいち鬼に対する危機感が薄れているせいで実感できない。そもそもそれ自体、良くない傾向だし、今まで何度も改めようとしているのだけれど、しかしあっさり退治できると言う事は僕からどうしようもなく緊張感を奪っている。豆が無くても今までどおりの数であれば、もはや簡単に撃退する事が出来る。
そのせいだろうか、あまりこういう事で言い訳をするのもどうかなあと思うのだが、考えるにあたってもいまいちどうにもモチベーションが上がらない。いや、場合によっては死活問題だと分かっているのだが。
「ううむ」
「あまり言いたくは無いがのう、緊張感を抜きすぎると死ぬぞ、アキナ?」
「わかってるさ」
勿論そんな事は分かっていて、しかしどうしたって生きていれば避けられない。人生を語るほど長く生きたわけでは無くても、こうして思春期を超えようとするくらいまでやってくれば、人生というものに慣れ始める。惰性でもどうにかなる事を、理解してしまう。
「その考えは、危ういぞ」
ナイトははっきりと言った。まるで年長者のように毅然とした声で、僕の目を真っ直ぐに見て、そう言った。
「危うい、というか危険じゃ。慣れたとか、そんな言葉は人生に当てはまらん。アキナが言っている事は、ただ、人生に対して手抜きをする事の言い訳にすぎん」
「まあな」
言葉も無い。詰まらない言い訳どころでは無く、木の緩みどころでも無い。人生に対する手抜きとは、はっきりと言われたものだ。ちょっとばかり幸せになったくらいで、確かに気が緩んでいた。人生がそこまでぬるくない事を、僕は身をもって知っているはずだろうに。
「とはいえ、気合いをどうにか入れなおさないとな」
「なんじゃ、妾の言葉では足りないか?」
「そうじゃないけどさ。しっかりとこう、きっちり何か気合を入れる意味でやっておきたいんだよ」
「なるほど……良く分からん!」
うん。我ながら何一つ伝えられていない割に言葉だけ重ねた説明だった。
「じゃが、こういうのはどうじゃ?」
「良い考えがある、って感じの顔で言ってくれるな。期待するぞ?」
「うむ。最初の話に戻るんじゃが、節分の風習として鬼は外福は内、と叫ぶじゃろう」
ほうほうそれでそれで。
「正しい風習が分からずとも、そんな事は現代において珍しくないし問題でも無いと思うのじゃ」
「しっかりと形を整えておけばいいってことか」
しかしそこから、どういう風に気合を入れる事につながるのだろうか。
「そこは、大声を出すのじゃ。ほれ、良く武道ではやっておるじゃろう。後は新入社員の教育とか」
「なるほど」
前者はともかく後者は一概には言えないと思うけどな。あれだろ、駅の前で大声で歌わされるとか、そう言う類の教育。実際あれで何を学ぶのだろうか。恥を捨てるのか?
「どうじゃ」
「確かに、悪い案じゃなさそうだな。一石二鳥で二兎追って両方捕えられそうなくらいだ」
「その二つは相容れぬ言葉だと思うがのう」
「まあ良いさ、一石二鳥で一挙両得。それで悪い話じゃない」
「そうじゃろうそうじゃろう。何せ妾のアイディアじゃからな」
普通の節分だけどな。
「どこでやるのが良いかのう?」
「こっくり荘の屋根の上だな」
で。お互いに屋根の上へと昇り、袋入りの落花生を握り締め、僕たちは節分の豆まきを始めたのだった。僕たちのやり方が正しかったのかどうかは分からないが、結局その夜鬼は一体もあらわれる事は無かった。期せずして徹夜してしまった事は問題だったが、しかしまた一つ危機を乗り越え、人生に対する気合も入ったのならば、そんな事は問題であっても些細なことである。
まあ、豆を撒き終わった後で、屋根に上って来た大天狗先生に思いきりげんこつをもらう事になったのは、その代償として釣り合っているのかどうか。しかし、夜中に屋根の上で大声で叫びながら大騒ぎしていたのだと考えれば、げんこつも仕方がない事なのかもしれない。
そうしてこの夜湧いて出た鬼は、こっくり荘まで来ることも無く、どこかへと退散していった。被害が出る事も無く、命懸けの状況も無い、どうという事も無い日常。後になれば、げんこつの事だって笑い話にしかならない。
しかしこの夜現れた鬼のうち一体。その、特別な一体だけはこの夜を超えても霧散することなく僕と出会う事になる。その鬼こそ、僕の生み出した鬼であった。