彼の物語/敬語の距離
人それぞれ、という言葉は結局、どんな違いも無視してひとまとめにしてしまう魔法の言葉である。他者の個性を尊重しているように聞こえても、そういうときは案外、他人と自分との違いを見ないようにしているだけなのかもしれない。
人それぞれとか何とか、そんな事を言った所で、誰かに出来る事が自分にはできなかったり、誰かが持っているものを自分が持っていなかったり、そしてその逆も然り、そういう現実は歴然と存在している。人それぞれという言葉であっさりと納得できる事ばかりではないという事を、生きていれば誰だって経験の中で知るだろう。
僕だってそういう事があったからこそ知っているし、そのうえで諦めてきたものも数多くある。土台、欲しいものを全て手にいれようなんてこと自体無理なのだから、ならば、人それぞれという言葉はごまかしであるにしても、僕たちにとってある種の救いなのかもしれない。
少なくとも人それぞれという言葉は、嘘を言っているわけではなく、それでいて本質を、見たくない部分を綺麗に覆い隠してくれる気がするのだから。
今現在のこっくり荘の中にだって、そういう持っていたりもっていなかったり、出来たりできなかったりという、そんな面倒事の種になりそうなものは溢れている。親がいるとか、居ないとか、そういうことだって例外にはできない。
なぜこんな話をしているのかといえば、僕は今ある種のトラブルを抱えてしまっているからである。こっくり荘の住人として、別に自分が人間関係の中心に居るなんて事は考えていないのだが、しかしその誰に対しても自分が関係ないと言える相手がいない立場として、僕はそれなりにいろいろと考えなければならない。
元とは言え両親だったり、その両親の現在の娘だったり、僕が拾った迷い猫だったり、僕の婚約者だったり、そして恩返しにやってきたツルであったり。込み入ったように見える人間関係を繋いでいるのは、僕なのだろう。勿論、今となってはこっくり荘の住人として全員をくくる事が出来るが、その始まりはどうしたって僕にある。
僕にあるのだから、その責任も僕にあるというのが、たぬきおばさんの主張で、どうやら僕との関係に距離を感じて悩んでいるらしいツルさんに関して何かしなければならないというのが、今回のトラブルめいた展開である。人と人との距離なんて、それこそそんな物、人それぞれだろう。と、そんな無神経な物言いをするほど、僕は冷たくない。
人それぞれとか、そんな言葉を使うのは、結局持っている側の人間だ。ある種の救いなのだとか何とか、そんな事は言ったけれど、どこまで行ってもそんな事で救われはしないし、救われたような気にしかなれていない。そもそも、きっとそこには最初から救いなんてものは無いのだろう。救いがないから、誤魔化すしかない。だったら、誤魔化して悪い事もない。
さらに言えば、そもそもツルさんが僕との間に距離を感じているとか、そんな事を言われた所で、僕は何をしたらよいのだろうか。たぬきおばさんには悪いが、有難迷惑にだってなりかねないと思う。
まあ、あれこれ言って理屈をこねた所で、所詮僕の意見だ。どこまで行ってもツルさんの意見にはならないのだし、そもそも裏を返すまでもなく、たぬきおばさんの言っている事が正しいということだって、僕の主張が正しいのと同じ程度にはあり得るのだ。しかし、いざそう考えて、そのうえでたぬきおばさんの言った通りどうにかしたいと思っているのだが、そのうえで僕がやるべき事は何だろうか。
徹夜開けでぼんやりとした頭を最大限働かせたところで、大した考えが浮かぶ事がないのは分かっているのだが、しかしそもそもたぬきおばさんがこの事を僕に伝えたのは数日前の事である。いい加減、どうにもならないにしても何かしなければ、昨日現れた婚約者の事もあって、たぬきおばさんの視線がきつい。
そうやって意識しているあたり、案外、僕もツルさんとの距離をどうにかしなければならないと、そう思っていたという事なのかもしれない。その辺りに関して、別に結論を出さなければならないという事は無いだろう。世の中曖昧なものは多いのだし、それ以上に僕は曖昧なものを愛している。ゼロか100かみたいな極端さは、単純に肌に合わない。一番の人間がいれば二番の人間が生まれるのだし、一番がいなければ二番はいない。決めなくて良いのなら、僕は決めたくない。
で、こうなった。
「そうだ一緒に料理をしよう」
「はい?」
というわけで、いろいろと考えた結果、大した閃きも無い事は、そもそも考えるまでもなく明らかだという事しか判明しなかった。なので、とりあえず動いてみる事にして、そういう結論に至ったのだった。
些か唐突な切り出しではあったかもしれないが。
「いや、今日はツルさんと一緒に料理をします」
「……私は構いませんが。けれど、私一人でも十分ですよ?」
確かに。一理どころか、ツルさんの言っている事が一方的に正しい。一緒に料理をするというよりも、僕がツルさんの作業を邪魔する事になってしまうでしょう。小さい子供のお手伝いみたいになってしまいそうな気がする。ある程度でかくなると、ほほえましくもない話だ。
「そう……そうだ、僕がツルさんに料理を教えてもらう事にしたらいいじゃないか!」
「はあ……」
なーんだ。簡単じゃないか。うん、こうすれば何も問題ない。一緒に料理をするのになぜこうも理屈が必要になってしまうのか、その辺りに関して疑問がわかなくもないのだが、しかし必要ならば用意しよう。僕はツルさんと一緒に料理をするためなら、その程度のものは用意できる男なのだ。
「な、一回で良いから、な?」
「構いませんけど……」
やったー。じゃあ、今日の昼食にしよう、そうだ一緒にお昼をつくろう。そうめん料理の新境地を開拓しよう。
「ですが急にどうされたのですか?」
「え? やっぱり駄目だった?」
「いえ、一緒につくるのは構わないのですが、確か昨日は一緒に料理をする勇気は無いと仰っていませんでしたか?」
「言ったっけ?」
モノローグだったような気がする。口に出てたのかなー、気をつけないとなー、考えている事が筒抜けになってしまう。
「あれ、確かにそう仰っていたような気が……」
「気がするのなら気のせいさ」
「そんなものですか」
「案外世の中、そういうものだと僕は思うね」
「そうですか……お昼を一緒につくるのだったら、明日ですね」
「そうだ僕はアルバイトだった」
そういうわけで、計画倒れの無計画だったわけだが、しかしとりあえず何か動く事が出来る。身動きが取れないよりも、空回りでも動けた方が余程良い。空回りになるか、噛み合うのかどうかは、多分、僕次第だ。
僕次第だというのにどうやったら噛み合うのかさっぱり分かっていないので、あまり期待は持たないように。
そして次の日。
夜が明ければ朝が来る、狂った体内時計も一晩経てば元通り。朝がきたら、新しい一日が始まり、僕はツルさんと一緒にお昼ご飯をつくるために買い物へ行かなければならない。そういえば、ツルさんと一緒に居るタイミングはいつも買い物だったような気がする。
ううむ、どこかもっと別の場所にでも誘えば良かったのだろうか。考えてみれば、昨日の午後のお出かけにもツルさんは来なかったし。ちゃんと誘ったんだけどなあ。家事がありますから、の一点張りだった。
よく考えてみたら、僕の方が距離を感じて悩んでもおかしくない。
「何をつくりますか?」
「え……僕に聞くの?」
質問に質問で返すのは良くない事だが、しかし、料理を教えてくれと言って何をつくるか聞かれるとは思わなかった。僕の身の回りは主体性にかけているのではないだろうか。かといって、ネコやナイトのように振り回して欲しいわけでもないのだが。なかなかその辺り、バランス良く、というか都合よくいかないものである。
「任せるよ」
と言ってしまう僕も大抵主体性がないのかもしれない。しかし、あれこれ言えるほど知識も技術も無いのだ、そもそも一緒に料理をしようといっておきながらノープランだった僕が悪かったのかもしれない。
そういえば、どんな心境の変化なのか分からないが、昨日から大天狗先生もそうめんを消費する事に貢献し始めたらしい。まあ、自己責任といってしまえばそれまでだが、大天狗先生も自分で責任をとる事の出来る大人で、僕も胸をなでおろすばかりである。僕の父親が無責任だなんて、いきなり現れてそんな事実は受け付けられないのだ。
「だったら、今日は揚げ物に挑戦してみましょう。アキナさんは確か揚げ物に挑戦した事はありませんでしたよね?」
「うむ」
恐いんだよ、あれ。火事になりそうじゃん。僕はその辺りをきっちりと学ばない限り揚げ物に挑戦する事は無いだろう。というわけで、これは良い機会である。
「そういえば、どうして揚げ物に挑戦した事無いって知ってるの?」
「どうしても何も、キツネさんと一緒につくるメニューを見ていれば分かりますよ」
そっか。そうでした。
ふーん。でもそう考えてみると、ツルさんは僕とキツネが作ったものを大まかではあるにしても覚えているという事になる。別に毎日作っているとまでは言えないし、ほんの数カ月の話ではあるが、僕なんて一週間前の晩御飯だって思い出すのに少し時間がかかるくらいだ。凄いなあ。料理に対する姿勢が根本から違うような気がしてきた。
しかし、ツルさんは自分の料理に対する姿勢について悩んでいたけれど、そうして覚えている位なのだから、悩む事は無いような気がする。少なくとも、僕なんかよりはずっとひたむきで、一生懸命だ。
「揚げ物というと、てんぷらか。良いよねえ、てんぷら」
「好きですか?」
「うん。茄子とか好きだなあ、エビよりもずっと好きだ」
正直に言えば、エビのてんぷらはあまり好きではない。おそらく中学時代、エビのてんぷらを食べた後に体育で自給そうがあった際、じんましんが出た事に関係があるのだと思う。これでエビフライは大好きなのだから、本当にその記憶が関係しているだけなのだ。
アレルギーに関してエビを食べてはいけないと言われた事は無いので、おそらくエビを食べた後に運動するのが行けないのだろうと結論付けている。実際のところそれが正しいのかどうか試す気にはならないが、じんましんも一度限りで、エビそのものは普通に食べているのだった。
「でしたら、午前中の内に買い物に行きましょう。てんぷらの材料も買わないといけませんし」
「おっけい」
そんなこんなで、結局また一緒に買い物である。毎回、毎回、変わり映えがしないと言えば変わり映えがしない話だ。僕の解消の無さが問題である事は分かっているのだが、だからといって、いきなり劇的に変化する物でも無いだろう。それ以前に僕はまだ学生に過ぎず、経済力という点から言えば最低辺である。
この程度が精一杯。と言ってしまうのは、結論を急ぎ過ぎであるとしても、それにしたって上限は知れている。もっといろいろと経験したい事や、やって見たい事があるけれど、その全てというわけにはいかない。僕の立場と現状は、足枷ではないけれど、そこに限界はあるのだから。
こんな事に人それぞれなんて言葉を使わなければならないほど、僕は聞きわけの悪い子供ではない。
「そういえば」
「うん?」
道すがら、ツルさんにしては珍しい切り出し方だったので、少し気になった。珍しく、言おうと思っていた事をどう切り出したものかと悩んでいた末に、唐突に切り出してしまった時のような、そんな切り出し方だった。
「今日はありがとうございます」
「僕何かしたっけ?」
むしろお礼を言わなければならない立場だったような気がする。
「たぬきおばさまに聞いたのでしょう?」
「んー」
「その、私が距離を感じて悩んでいる、と。ですからアキナ様に無理をさせてしまっているのではないかと思いまして」
忘れてた。そういえば、そういう話だった。距離がどうとか、そういうのは所詮意図によって違うだろうとしか思えないので、そのために一緒に料理をするのだという趣旨をすっかり忘れてしまっていた。
てんぷらの具材について思いを馳せてる場合じゃねえ。
「ですが、大丈夫ですよ?」
「……そう?」
何かその辺り、自己申告でそう言われても信用しても良いのやら悪いのやら。
「今日でぐっと縮まりました!」
「ぐっと?」
「そう、ぐっと、です!」
まあ、力強くそういうのならそうなのだろう。それで悪い事も無し、僕だってそれなりに近づいたような気もしている。
しかし、具体的に何か変わったのかしらん?