ドラキュラナイト/デイウォーカー(2)
あれこれと慌ただしく、息をつく間もないといっても、僕の日常は概ね穏やかである。例えば、ツルさんと一緒に買い物に行ったり、ネコと一緒に昼寝をしたり、キツネと一緒に料理をしたり。誰が何と言おうと、幸福な毎日である。
吸血鬼との出会いから、まだ一晩明けただけではあるが、しかし今となっては遠い昔の事であったような気すらしてくる。なんというか、この町へ来る以前の事に至っては言わずもがなと言う感じ。
まあ、昨夜のことであり、ほんの数ヶ月前の事だ。過去と呼ぶには少々近すぎる。現実を直視するのであれば、深く考えておくべき事なのだろう。
しかしだからと言って、今よりも重要だとは思えない。今よりも重要な過去なんてものは、はたして存在しないのではないだろうか。出会いは始まりで、それは大切なものだと思っているけれど。
平凡だと言われなくても、平凡だと思っている。周囲の状況が特殊である事は充分に理解しているつもりであるし、自分の存在以上に立場が特殊であることも十分に把握しているつもりだ。
しかしそうはいっても、これまでの全ての出会いは、ある種の常識の範囲内にあったように思っている。特殊だの何だのと、いろいろと言ってはいても、だ。例えばバトル展開なんて無かったのだし、不幸な結末も、不吉な出会いも無かった。思いつく限りそんな事が無かったことで、僕は安心していたと言っても良い。
このまま平穏に過ごすのだと、過信していたのだ。思いつく限りのネガティブなんてものは、所詮僕に思いつく程度のものでしか無かった。想像力が貧困であるのかどうかは、論じるまでもなく答えが出てしまっている。
貧困な想像力でもって今まであれこれと偉そうに語っていた事が、正直恥ずかしくて仕方がない。貝のように口をつぐんで生きて湯事を決意しかねないほどの、自責の念である。
忸怩たる思いという奴だ。遺憾の意であります。
「忸怩たる思いも遺憾の意もかまいませんが、まずは現実を受け止めましょう」
「直視したくない現実もあると思うのだよ、ツルさん。何も現実にはいつだって立ち向かわなければならないなんて事は無いと思うよ。立ち向かう事が蛮勇ではなく無謀である事もあるし、見え見えの地雷を踏みに行く事は無いと思うんだ」
「仰る事は分かりますけれど、だからと言って見えている地雷を何時までも放っておく事は正しくないと思います」
そうは言うけれど。
言われている事が正論だという事は分かっているのだけれど、しかしだからといってはいそうですか、と頷けるのであれば、そもそもこんな言い訳じみた事を言ってなどいない。それ以前に、それこそ自分から、自発的にいち早く地雷処理を行っているだろう。
しかしどうだろうか。目に見えた地雷であるからこそ、余計に手を出しづらいという事もある。爆発物が爆竹程度のものであれば、何も言わず何も考えずに被害を気にかける事無く処理している。やけど程度の事は気にしない。だが、爆発物が火傷で済まないものであれば違ってくる。それこそ、はじければ致命的ともなれば手をこまねいている事も、ある程度理解してもらえるだろう。
棺桶に足を突っ込みかねない。笑い話にもならない。
過去よりも今が大切だとか言っておきながら、過去は過去に過ぎないとか、出会いは大切だがそれよりも今だとか言っておきながら、結局のところ、昨日の出会いが明らかに今日へと続いている。尻切れトンボであっても終わった事であると考えていた事は、とんだ勘違いであったというわけだ。
さて。いい加減に現実を直視する事にしよう。どれだけ目を逸らした所で、視界の端に映ってしまう。見えていない振りをしても仕方がない。
「しかし……開けて良いのかな、この棺桶?」
日光に当たると、灰になるのだったか。見ず知らずの、あるいは僕の命を狙って来る吸血鬼ならば、そうすることもやぶさかではない。
むむう。真偽は不明とはいえ、仮にも僕の父親を名乗った吸血鬼だし、あまり手荒な事をしたいとは思わない。思わないし、思えない。とはいえ、一緒に住むとなるとこれほど不安な相手もないだろう。吸血鬼である事を差し引いても、大天狗先生との因縁もあるのだし。
案外冷たいのか、ツルさんはあっさりと僕を残していってしまった。今頃、買ってきた食材を冷蔵庫に入れたりしているのだろう。僕って一体何なのだろう。
まあいいや。深くは考えまい。僕の部屋の隣室。つまり、こっくり荘における最後の空室の前に、この棺桶は置いてある。その事は、言うまでも無くこの部屋に引っ越してきたということを意味するのだろう。入居者を決める権限が僕には無いのだから、そうなったというのなら仕方がない。僕の事情を分かっている人がそれを決めたのであれば、大丈夫だという事だ。そう思おう。そう思って、納得するしかない。
ここを出ていっても僕には行く先がないのだし。
というわけで決断。触れないでおこう。夜になれば答えは出るでしょう。
「あっ!」
はっ!
知らない声だ。いくらなんでも、こっくり荘の住人の声を聞き違えたりはしないし、聞き覚えの無い声である。ちなみに、女の子の声である。キツネでもネコでも、ツルさんでも無い。
「さあ僕と結婚しようよ、アキナッ!」
僕が振り返った瞬間、金髪ショートカットの娘はがばーっと僕にしがみ付いてきた。言葉の内容に関してあれこれと考えるよりも以前に、そちらの衝撃の方が大きい。二人でそのままもつれ合って、廊下を転げまわるくらいだった。
交通事故みたいだ。埃まみれ。
で。当然、そんな大暴れをすればこっくり荘の住人にそれが聞こえないわけがない。それぞれがどこで過ごしていたのかは知らないが、僕がくらくらする頭を抱えてたちあがろうとしたときには、すでにその時間に居なかった大天狗先生以外の住人が勢ぞろいしていたのだった。
「どうしたの、アキナ!?」
「大丈夫ですか?」
そんな感じに、それぞれ声を掛けてくれたりしたのだが。
「………」
「………」
「………」
「……もう手篭めにしたのかい、アキナちゃん?」
冷静な反応はありがたいけれど、その認識には異を唱えたい。どうでもいい所で、たぬきおばさんが僕をどう思っているのかが明らかになったのだった。
酷い話だ。
あと、他のみんなもそれに同意するような顔をしないように。
「で」
全員今に集合して一体この金髪ショートカットが誰であるのかを確認する事になった。勿論、僕との関係を含めてである。なぜか僕が座布団なしで正座させられているのかは分からない。
「正直なところ、ここまできたら、というか一連の流れから大体の所は想像が付いているのだけれど、それでも一応聞いておくよ。君は一体誰で、何のつもりであんな事を言ってあんな事をしたんだ?」
うん。まあ、言うまでも無く分かるけれど。
棺桶。暗示的というか、あからさま。昨晩の裏返し、旧式に対する新式、裏に対する表、おっさんに対する美少女。
「僕の名前は、ドラキュラ・ザ・デイウォーカー。長いからデイで良いよっ!」
漂う馬鹿の香り。質問に一つしか答えていないうえに、名前だけ言われても必ずしも答えにならない。
どうでもいいけれど、自分の名前を長いと一言で断じる奴に初めて会ったよ。そんな扱いで良いのかなあ。自分のものなのだし、好きにしてもかまわないのだけれど。
まあ、わかったけれど。少なくとも僕とネコは分かったはずだ。
「………」
ネコは何も言わない。しかもこの顔は、分かった上で何も言わないのではなく、分かっていない顔である。昨晩の事をもう忘れてしまったのか。
余談であるが、彼ら彼女ら吸血鬼の名前は、ファーストネームやミドルネームといった形ではないそうだ。要するに、ドラキュラ・ザ・ヴァンパイア、ドラキュラ・ザ・デイウォーカー。それ一つで一つの名前であって、それ以上でもそれ以下でもない。
「名前は分かったよ。で、お前はヴァンパイアの娘なのか?」
「そうだよっ、お父さんに言われてこのこっくり荘に住むために来たんだ!」
あっそ。というか、なぜいちいち語尾が強い。
面倒臭いなあ……。
「住むのは良いさ、僕が決める事ではないしたぬきおばさんはその辺り、了解していたみたいだしね」
分かっていてなぜわかっていない顔をしていたのかは知らないが、しかし、住むことしか知らなかったという事も考えられる。
「聞きたいのは、さっき言った事についてだよ」
「ここに住むって話かなっ?」
そこに疑問は無いって言ったろうが。頭を使おうぜ。会話を逆戻りさせてどうするんだよ。
脳みそ詰まっているんだろう?
「話を戻すな。その話じゃない。さあ結婚しようよ、とか何とか言ったろうが、僕が言いたいのはその事だよ」
「え、結婚してくれるの?」
だから何故そうなる。
周りの目が怖いだろうが。お前は無神経なのかよ。周囲にもう少し目を配ってくれ。僕の立場を悪くするためだけに送り込まれた資格だったとしたら、その目的は順調に達成されている。
やめてー。
「結婚できる年齢ですら無いよ、そうじゃなくて」
「つまり18歳になったら結婚するんだね!」
聞けよ!
話が進まない。さっきから何一つ前に進んでいない。なんだよこの無駄な時間は、僕が悪いのだろうか。何か間違えているのか?
「そうじゃなくて、どうしていきなりあって結婚する事になっているのかって、それを僕は聞いているんだ」
僕がそう言うと、デイはさも心外そうな顔をして、しかも腹立たしい事に、出来の悪い生徒に諭すような調子で言った。
「そんなの」
当たり前の事を言うような調子で、何でもない事を言うように。
「僕とアキナが許嫁だからに決まっているじゃないか」
……へえ。
そりゃまあ、そうだったなら失礼しました。許嫁。ふうん。世の中、こうしてふざけた町に居るけれど、そんなものが実在するなんて思わなかった。世の中広ければ、思いつくものは大抵存在しているのかもしれない。
うんうん。あれはもう絶滅したはずだとか、そんな事を言われるようなものだろうに。ふうむ。この調子であれば、毎朝起こしに来てくれる幼馴染も、本当に世の中どこかに存在しているのかもしれない。後は、義理の妹と一緒に過ごしていていつの間にか恋仲になるような展開もあるのかもしれない。
うむ。
「許嫁?」
「そう、許嫁」
「あの親同士が本人の知らない間に子供の結婚を決めてしまう、世に言う許嫁?」
「イエス許嫁!」
のー!
「どういう事、アキナ?」
「どういうことにゃん?」
「どういう事ですか?」
知らないよ。僕は何も知らないよ。
「一応聞くよ、誰がそれを決めたんだ?」
「お父さん」
吸血鬼ぃぃいいいいいいい!
僕の父親を名乗る奴は、どうしてこうも空気が読めないんだ。勝手にあれこれ決めてくれるなよ、大天狗先生といいヴァンパイアといい!
「一応、聞くまでもないかもしれないけれど、それでも聞いておいてやるよ……」
絶対無駄だけどな。
「お前はそれでいいのか、デイ?」
「良いに決まってるよ、アキナ、大好きっ!」
そう言って人の首にしがみつくように飛びついてくるデイウォーカー。
一体どういう理由でそうなのかは知らないが、どうやらこの吸血鬼は本当に僕という許嫁を受け入れているのだろう。一体そこにどんな理由がるのか、そもそも、そんなもの最初からないのか。
しかし当面の問題は、この自称許嫁をどのように扱うべきであるのか。
「………」
「………」
「………」
勘弁してほしいというのが、今の僕の偽らざる本音であった。