ドラキュラナイト/ヴァンパイア(3)
午後はほとんど、お腹が苦しくて動く事が出来ない毎日である。
で。
「ネコ―、散歩に行くぞ―」
クーラーの利いた部屋で寝転がっていたネコを、蹴りとばす。大して食べもせずに、一日中何もせずゴロゴロと過ごす。羨ましいような、いろいろと残念なような。
「蹴るにゃよう」
「天誅じゃ」
「天誅にゃのか」
正しくは、天誅ならぬ人誅かもしれない。なんだったっけ、天が裁きを下さなくても俺が下してやる、みたいな。
「ほら、スカートのすそをちゃんとしろ、パンツ見えてんぞ」
「見てやってんだろにゃん」
露出狂か。
嬉しくない。こんなシチュエーションでパンツ全開になっても、全くもってドキドキしないのである。僕はシチュエーションを重んじる人間であるし、チラリズムに興奮する人間である。いきなりパンツ全開にされると、何というか、引く。
「ふうん、じゃあ、こんにゃのはどうかにゃん?」
立ち上がったネコは、スカートの端をちらりと持ち上げて、パンツが見えるか見えないかの状態にした。確かにチラリズムである。
「興奮してたまるか、本当に露出狂じゃないか。お前は僕を興奮させて何を得するんだよ」
賞金でもかかっているのか?
お金は充分持っているくせに。
それともこれは、いざ僕が乗ってきたらはしごを外して笑いものにする、そんな定番のいじめなのだろうか。
「ほら、馬鹿な事やってないで、散歩に行くぞ。お前がそのまま行きたいって言うなら、僕の半径十メートル以内には立ち寄るなよ」
「にゃんだよう、乗りが悪いにゃあ」
どう乗ればいいんだよ。
萌え―、とか。そんな事を言うのか?
嫌だよ。
外に出ると、夕方になったとはいえ夏本番、まだまだ気温は高く、夕焼けの中に居ても肌が焼けそうだった。
「ふふん、分かっているんだにゃん」
「なんだよ、まださっきの話を引っ張るつもりなのか?」
「モチロンにゃん。おれっちのプライドがかかっていにゃん」
力強い口調でそんな事を言われても、そんなプライド捨ててしまえとしか言いようがない。そもそも、そんなプライドをもつな。いつもったんだ。
「お前が興奮している事は分かっているにゃん。さっきのお前の言葉は、全て嘘にゃんだから」
ああ、そう言えばそういう事を言った事があった。
僕が酷い事を言ったら、全て嘘だと思え、か。とんだ失言だった。あるいは、とんだ失敗だった。
悪口が言えないどころか、率直な感想も、全て曲解されてしまう。
「いや、マジでさっきのは興奮しないよ」
「マジにゃのか?」
マジだよ。
本気と書いてマジと読め。
「そんなにショックを受けるなよ。というか、あんなもの毎日見ているんだから、僕がその度に興奮している方が嫌だろ」
「確かに、それはそれで嫌だにゃあ」
「だろ?」
同居人の一挙一動にいちいち興奮しているようなら、多分僕は今頃こっくり荘を追い出されてしまっている。あるいは、こっくり荘がハーレムみたいになってしまう。
全く、とんでもない話だ。
「ふうむ」
「なんだよ、まだ文句があるのか?」
「いや、つまりあれかにゃん。然るべき時であれば、興奮すると、そういう訳にゃのかにゃん?」
「いや、全然」
「酷いにゃん……つまり、嘘だにやん!」
まあ、実際分からない。
というか、しかるべき時って何なのだろうか。そんな時がやってくる事はあるのだろうか。そもそもそれは、一体どういう事なのだろうか。
「ふふん、その時を心して待っておくにゃん」
「怖い言い方するなよ……」
別の意味でドキドキしてきた。
ま、何事もなるようにしかならない。あるいはその内そんな事もあるのかもしれないし、一生何も無いのかもしれない。考えようによっては、一生そんな事がないよりはましであると言えるだろう。
相手がネコと言うのも、考えものだが。
そんな事を考えながら、二人揃って歩いているうちにあたりは暗くなっていた。この暑い中、我ながら御苦労様な話である。時間も忘れて散歩をするには向いていない季節だというのに、文字通り忘れていたというわけだ。
こう言う時、携帯電話をもっていないとだめだと思う。今頃、こっくり荘では捜索隊が結成されているに違いない。
「出会いと言うものはいつだって突然やってくる」
突然、歌いあげるような声が上から聞こえた。
こんな事が日常茶飯事であるこの町で、そんな事になれるつつあるのだと、僕は考えてさえしたのだが、そんな認識がどこまでも甘いものであった事を思い知らされた。こんな事、慣れる筈がないし、慣れる事は無い。
そこに居たのは吸血鬼だった。
どこからどう見ても、誰がどう見ても、吸血鬼と言うものを知っていれば誰だってそうであると分かっただろう。その格好に、その吸血鬼が誇りを抱いている事さえ、窺う事が出来る。
しかし、こんな所で会う事になるとは、思っていなかった。
こんな程度で出会う事になるとは、考えていなかった。
情けない話になるが、僕の認識が甘かった。僕の考えが浅かった。吸血鬼なんてものに出会うとしたら、それはきっと劇的なものになるだろうなんて、そんな事を考えていた事が、馬鹿馬鹿しい。僕は馬鹿なのではないかと疑いすらした。
交通事故だって、火事だって、そのほかの何であっても、死は本来唐突なものだ。
夢物語でもあるまいし、何を夢のような事を考えていたんだ。
「しかし突然であるからこそ、それは心に残るのだ。緩やかな出会いなどに価値は無い。緩やかにであった先に見るべきものは無い。そう思わないかね、出雲アキナ君?」
黒い外套、青白い肌。既に日が落ちた後であるからこそ、彼はそこに存在する。吸血鬼は、日の光を嫌う。
出会いは突然だが、そこには理由が存在する。僕たちが知らないだけで、伏線は存在する。だから僕には、電柱の上でピッコロさんよろしく外套をはためかせている吸血鬼とは、意見を同じくする事は出来ない。
何よりも、緩やかな出会いに価値を認めないという言葉を、僕は認めない。
どんな出会いにも意味はあるし、だからこそ価値がある。
僕の横に居るネコは、顔を真っ青にして、しかしそれでも電柱の上でたたずむ吸血鬼を睨みつけている。しかしその顔色を見る限り、ネコに頼るという選択肢は外しておくべきなのだろう。どうにか出来るのだとしても、おそらく大きなリスクが伴うと考えておくべきだ。
まあいいさ。どうにもならない状況であるとまでは、僕は考えていない。今、現時点において、ネコほど絶望的にはなっていない。
自分の立場を考えれば、あるいはこの時点においても五分五分以上であると考えている。そう、考えておくべきだろう。
「なに」
吸血鬼はこちらの考えを、全て見透かしたように、安心させるような声を出した。今まで熱に浮かされていたように喋っていたとは思えないような、急な変化だった。
「心配はいらない。君に何かしようとは考えていないし、吾輩は何よりも吸血行為を自身に固く禁じている」
背後から急に聞こえた声に背筋が凍る。喋っている内容次第では、悲鳴を上げていたかもしれない。しかしそれでも、吸血鬼が言った事は理解していた。
人の血を吸わない。
しかしそれは、吸血鬼らしからぬという範囲を、超えているのではないだろうか。血を吸わないというのは、自己否定なのではないだろうか。そんな選択肢を、本当に選び得るのだろうか。
ごくり、と。自分が唾を呑み下す音が、やけに大きく響いた気がした。
吸血鬼のいう事は、本当に信用に足りるのか。あるいは、ありきたりすぎる嘘なのだろうか。僕は悪い狼じゃないよ、と嘘をつくようなものなのか。この判断を間違える事は致命的だ。
信用はしない。しかし、それを表に出してもいけない。
「そう。硬く禁じている。それを誓い、守り抜く。吾輩がそれを誓ったのは、出雲アキナ君。君が生まれた頃の事だ」
暗に、僕の事を知っていると言いたいのか。
振り返り、吸血鬼の顔を見た。どうたら、イメージ通り外国の、西洋の人間らしい顔立ちと、貴族然とした髭。撫でつけられた髪は、きっちりと整えられている。外套がはためいていたのに、その影響をまるで感じさせない。
しかし、その青白い肌。人ではあり得ない、生気の無さはどこまでも非人間的だ。受け入れられない、とさえ思う。
こんなときにいう事ではないし、考える事ではないが、少し前の事を思い出した。別に僕は自分が差別的な人間であるとは考えていないし、そうでないように努めているのだが、あるいはそうなりかねない経験がある。学校にやって来た黒色人種の教師を見たときに抱いて感想は、相手に悪意を抱いていなかったからこそ、自分の小ささを感じさせる。自分とは違うと、どうしても感じてしまったのだった。黒い肌も、その頭髪も。初めて見たことで、衝撃が大きかった。その後に白色人種の教師を見たときには、そこまで衝撃を受けなかった事が、さらにその時の衝撃を、強く記憶に残したのだろう。こんな事を考えること自体が、彼らにとっては大きなお世話だろう。しかしいまだに僕はその時の経験と記憶を、引きずっている。
僕が吸血鬼に対して受けた衝撃は、その時の衝撃に良く似ている。しっぽが付いているとか、獣耳が付いているとか、そんな事よりもずっと衝撃的だった。多分、なまじ人に限りなく近いからこそ、そうなのだろう。
「さあ、話をしよう」
「一体、何の……」
ひきつって声を上手く出せない。多分それはネコも同じで、だからこそ黙って窺っているのだ。もしも吸血鬼が、僕を襲う素振りを見せたら行動を起こすために。
そんな事は、させない。
「あんたは血を吸わない、だったか。そういったけれど、けれどそんな事を言われて、僕が簡単にそれを信じるわけにはいかないし、信じることもできない。あんたがどれくらい生きているのか知らないけれど、それでも少なくとも僕よりは生きているだろうし、あんた自身そう言う言い方をしていた。だから言うまでもないだろうけれど、吸血鬼と人間がそう簡単に仲良くできると、簡単にお話だけしてそれで済むと、思えないよ。こんな所で、こんな声のかけ方をしておいて、こっちに何を求めているんだ?」
上手く言えないせいで言わなくて良い事まで行ってしまったかもしれない。それでも、何も言わないよりずっと良いだろう。
蹲って何もしないままいるよりは、何かしら動いていた方がましだ。今までだって、確信があって動いていたわけではない。確信を得るまで決めてこなかったわけではない。
「………」
吸血鬼は無言のまま、僕の顔をしげしげと観察している。僕が言った事が特別だったとは思えない。もしかしたら、以前同じような事を誰かが言った事があったのかもしれない。以前から僕を知っていたような口ぶりを冠枯れ場、それが誰であったのかは、想像できる。
生まれる前なんてそんな言い方は、どうしようもなくそんな可能性を示しているとしか、僕には思えない。言いたくて仕方がないのか知らないが、あからさまに示してくれるじゃないか、吸血鬼。
「いや、失礼」
吸血鬼は言った。
懐かしむように、謳うように、感じ入るように。
「この吾輩とした事が、何とも面目の無い話。礼を書くとはこのことか、紳士たるもの挨拶を欠かしてはならないというのに」
空を仰ぎ、星に向かって宣言する様ですらある。劇場で行われる演劇の一部のような、役者じみた行いだ。
「吾輩は、ドラキュラ・ザ・ヴァンパイア。この町における吸血鬼の長。夜の支配者にして、人外の化け物を統べる王。吸血鬼にして吸血鬼たるこの吾輩の名を、今ここに深く刻んでおくと良い。ドラキュラ・ザ・ヴァンパイア。忘れるな、君にとってこの名は深い意味を持つ。吾輩は君の母親を知っている。誰よりも深く愛したとすら、自負している。この意味は分かるだろう、君は賢い子供だ。君は察しの良い子供だ。君の傍に居るネコが、まかり間違っても無理をしないように立ちまわっている。しかしその心配は無意味であると言っておこう。なぜならば吾輩は、君の父親であるからだ」