狐の嫁入り(2)
買い物をして家に帰って、それ以上手伝えることも無いので、僕は日課の散歩をして、夕飯までの時間を潰すことにした。既にもう、夏真っ盛りといった感じで、なかなか日が落ちる事も無い。
「ネコ―、散歩に行くぞ―」
こっくり荘の表から声をかけると、にゃおーん、とネコが飛び出してくる。
ん?
「キツネも一緒に行く?」
「………うん」
なんだか元気のないキツネを連れて、初めての三人散歩だった。夕方になっても、まだまだ暑い。三人で歩く道は、登下校では今までもあったが、目指すものも無い、あての無い道は初めてだ。
近頃はツルさんと行動することが多くなったような気がする。夕飯も弁当も朝食もツルさんが作っているので、買い物について行くことが必然的に多くなる。登校時は四人で一緒だが、帰り道は僕とツルさんの二人。
そう言えば、ツルさんが来る以前は、キツネと二人である事が多かった。ネコとはほとんど毎日一緒に散歩をしているけれど、キツネと一緒という事は減っている。
この町にやってきて、最初に出会った。最初の友達。大切で無くなったわけでは無くても、大切なものが増えた。何も持っていなかった僕の両手は、それ以上の物で溢れている。僕の両手をとって、もっと高く、もっと遠くに、今までよりも高い所へ。
人に限らず、生きているものは一瞬ごとに移ろい変わる。それが良きにつけ、悪きにつけ、変わる事のないものはないだろう。終わる事のないものが無いように、明けない夜が無いように。
ぼんやりと、前を歩くネコの後を追って歩いていると、いつだったか、ネコに出会った空き地へとやってきた。普段よりも少し早い時間に歩きだしたので、夕飯まではまだ大分余裕がある。
「少し休んでいこう」
木陰は無いので、空き地の隅へ行って隣接する家の影の中に隠れた。湿度が高いので涼しくはならないが、それでも、じりじりと肌を焼く日差しからは逃れる事が出来た。適当に、転がっていたコンクリートのブロックをもってきてその上に腰をおろして僕たちは休んだ。
「先に帰っているにゃん」
そう言ってネコが帰ってしまったので、キツネと僕の二人だけになる。じめじめとした空気以上に、以前はあった気やすさのようなものが二人の間から失われた事が、鬱陶しさを感じさせる。
多分そういうものを感じて、気を利かせてネコは帰ったのだろう。本当に、良い僕の相棒だ。
作ってもらった機会は、活かさなくてはならない。気がついた事には対応しなければならないし、対面した困難には立ち向かわなければならない。逃げて良いのは、逃げる先がある人間だけであって、僕ではない。
「どしたの、近頃元気ないじゃん?」
僕は聞いた。キツネは、まるで僕がそんな事には気が付いていると思っていなかったかのような、そんな目をして僕の方を見ている。僕はいつだって、誰が何を思っているのか気になって仕方がないというのに、そんなに鈍いと思われているのだろうか。
怠惰である事は認める事もやぶさかではないけれど、軽率であり、虚栄心に塗れていることだって確かだけれど、無神経ではありたくない。誰かを思いやるのなら、無神経であってはいけないから。
偉そうなことは言えないけれど、そう思っている。
「そっか………そうかな?」
「そうだよ」
キツネが悩んでいる事は、ここ数日誰がどう見ても明らかだった。一日、二日なら誰にだってある事だし、相談されれば答えても、首を突っ込むべきだとは思わない。相談する相手が僕では適当でないのならば、他の誰かに相談するように言ってやる事は出来る。
何よりも、このまま一人で悩んでいるのが良くないと思う。一人では生きていけないからこそ、周りにみんなが居てくれる。誰かに頼る事は、決して悪い事ではない。
「悩んでいるなら、誰かに相談した方が良いよ。たぬきおばさんとか、大天狗先生とか、ツルさんとか」
「ツルさん、ツルさん………アキナにはしちゃダメなの?」
「もちろんいいよ、僕が力になれる限り、君の力になる」
それはきっと、僕がこの町に来て最初に選んだ事だ。この町の住人になって、僕の友達の力になる。そう決めて、選んだ。何かに依存し続ける事を辞めて、何かに頼る代わりに誰かに頼られたいから。
「ツルさんは本当にすごいよね………」
「うん」
お互いに万感の思いがこもっていたけれど、キツネの言葉には自嘲が籠っていた。だからきっと本当は、キツネの言葉の前には、自分と違って、と、付くはずだったのではないだろうか。
自分と違って、ツルさんは本当にすごい。
そう言いたかったのだろう。
「私は、ツルさんみたいになりたかった」
「ツルさんみたいに?」
「そう。ツルさんみたいに、誰かのために何かを出来る人になりたかった」
それは、僕と同じで、何一つ僕の想いと変わる事のない、悩みだった。違うのはただ、僕は悩んでいないという事だけだ。しかしその一点はきっと、決定的に異なるという事でもあるのだろう。
僕たちは似ているけれど、決定的に違うものだ。それこそ、兄妹の関係ですら無い。
「ツルさんみたいになりたくて、ツルさんみたいになりたいと思っていたのに。ツルさんに出会って、ああいう風にはなれないってわかったから」
「なんでだよ」
「だって私は、偽物だもん」
キツネはそう言った。
偽物。
自分自身をそう称した理由は、僕には分からない。僕はまだ、そんな事に答を得られるほど、キツネの事を知らないのだから。
それきり何も言わないキツネを連れて、こっくり荘へ帰る道中、僕はその事ばかりを考えていた。あんなに楽しそうに、お弁当を作ってくれていたキツネ。それが、それを偽物だったという。
一体そこには、どんな理由があるというのだろう。
僕の家族は偽物だった。いや、家族の中で僕だけが偽物だった。偽物で、それ以上に異物だった。目立たないように、関わらないように、自己完結していたけれど、終わってこそそれが間違いだった事が分かる。本当は、溶け込まなくてはならなかったし、頼らなければならなかったし、頼られなければならなかった。ただ依存しているだけの存在は、異物であって、異質でしかないのだから。
ツルさんが言った事は、別にこの町に限った事ではない。善悪に限らず、何か一つに染まるという事は、それに依存するという事だから。僕が、かつて孤独に依存しようとしたように、他の何かに依存する事は数多く存在する。
それが一概に悪いとは言わないけれど。何か一つに染まる事は、ひたむきであるという事だ。ひたむきに何かを目指し、その末に何かを成し遂げる。そういうことだって、世の中にはあるだろう。誰だって生きて一度は、何か一つのためだけに必死になる事がある。何かを願うのならば、そのためにひたむきでなくてはならない。
片手間でやって、その末にとり逃した事を嘆くのは筋違いだ。大切なものを守るためにそれ以外を切り捨てる事はきっとできる。それをしないで、痛みを恐れて、欲張った末に失敗した時は、それは自分自身の責任だろう。
愛さないのに、愛されたいと願う事は、誤りだ。それでも僕は、何かを願う限り偽物では無いと思う。何かを願い、思う自分自身は、その瞬間確かに存在していて、その事だけは自分に証明できる。
ツルさんみたいになりたくて、ツルさんみたいになりたいと思っていたのなら、たとえツルさんにはなれなくても、それだけで、それを思った自分は本物なのではないだろうか。それともキツネは、もっと別の、他の何かについて偽物だと言ったのだろうか。
そうなりたいと願った思いそのものが、偽りだったというのだろうか。嘘だったとでも言うのだろうか。嘘で、誰かのために何かをしていたというのだろうか。
そんな事は、そんな事はないだろう。
嘘や偽りで、僕たちと一緒に過ごしていたなんて事は、無いだろう。嘘で偽りだったというのなら、一体どこからどこまでが、一体いつから嘘で偽りだったというのか。何に対して、誰に対しての、偽りだったというのか。
ツルさん個人に対して、何か思う所があるわけではないと思う。あの人はあの人で、ネコと同じくらいマイペースな人ではあるけれど、決して悪人ではないし、悪い人ではない。全て知っているわけでも無くても、一緒に暮らしてきてそう思う。
完璧人間ぽいから、少し苦手に思っているのかなあ。コンプレックスというか、そんなもの、比較しても仕方がないと思うけれど、異性だから僕はそう思えるだけかもしれない。同性で、自分よりも全てにおいてきっちりこなす人がいたら、そうは思えなかったかもしれない。
「ツルさんって」
こっくり荘の目の前まで来た時、ようやく一つ思いついたので言ってみる事にした。僕が足を止めたのに合わせてキツネが足を止めてくれてよかった。スルーされたら、僕が誰かに悩み相談をしなければならないところだよ。
「ツルさんって、親子丼だけは作ってくれないんだよね」
「………」
挫けるな、挫けるんじゃない、僕。
「この間も、一緒に買い物に行ったときに頼んだらさあ、いつもの優しそうな眼差しが一変しちゃって。理由を聞いたら、共食いさせる気ですかって」
「あはは」
あれはもう、汚物を見るような目だった。蔑んでいるというか、その辺りに汚らしいゴミが落ちていたら、僕もそんな目をするかもしれない。それくらい、容赦のない視線である。まあ、無神経だったのは僕なので、仕方のない話だ。
そしてさりげなく、ツルさんも完璧では無いというアピールをしようと思ったのに、単なる僕の失敗談を話してしまっただけであった。何だろう、一人で傷を負っている気がする。空回りしているのだろうか。
まあそれでも、キツネが笑ってくれたので、良かった事にしよう。元気が出れば、考える事が出来る。キツネもきっと、誰か一番相談するべき相手に、近いうちに相談するだろう。後はその人に任せるだけだ。
そういう訳で、自分の役割は終わったのだろうと僕は考えていた。キツネが具体的な事を口にしなかったのは、僕には言いづらい事だからで、それを誰か別の人にでも相談するのだと思い込んでいたのだ。
結局それは誤りで、この問題にはそもそも僕とキツネ、二人が等しく関わっていたのだ。この町にやってきてすぐに、キツネが大天狗先生とたぬきおばさんの本当の娘ではないと確信していながら、なぜその事をこの時思いだしていなかったのだろうか。
家庭に、家族。それは僕にとってもキツネにとっても、重要なキーワードだった。言われるまで、そんな事に思い当たる事が無かった理由は明らかだが、しかしやはり、これもまた僕が無神経であったと、そう言えるのかもしれない。他人に対してマイペースだの何だのと、そんな事を言う資格はなかったという事だ。