狐の嫁入り(1)
そして、一月と少したった。ツルさんがこっくり荘にやって来てから変わったことと言えば、彼女が積極的に僕の身の回りの世話をしてくれることで、主に食生活が変化した。ツルさんは基本的に毎日夕飯をつくってくれ、こっくり荘全体でそれを食べている。もしも僕一人にだけ作るような人だったら、お断りしていたところだ。
朝昼晩。余すところなくツルさんの領域となって、僕たちは毎日和食を食べている。京都風の味付けらしい。毎日おいしく頂いて、余計なカロリーはないそうだ。時々作ってくれる和菓子も非常に美味で、僕は僕の食生活に満足している。たぬきおばさんをして、嫁にするのならツルちゃんだね、と言わしめる完ぺきぶりである。働き者で、出来る人はどこへ行っても歓迎されるものだ。
既に僕たちの学校生活は、中間考査も、期末考査も終って、目前に夏休みを控えている。あっという間の一学期だった。いろいろな事があり過ぎて、本当に光のように一瞬で過ぎ去ってしまう。
僕の学校での成績は、学年で上から二番目だった。中学校の頃からは考えられない成績なので、これで喜ぶわけにも居かなそうである。どうやら、ツルさんも頭がよさそうでいてそうでもないらしく、僕のテストの点数で驚いていた。学年一位は一体誰だったのだろう。
「ツルさん、買い物に行くなら一緒に行くよ」
「ありがとうございます」
ツルさんが学校帰りに買い物をして帰るときは、必ず一緒に行くようにしている。以前に一度、ツルさんが重たそうにお米を担いで帰って来た時にそう決めた。料理を手伝うには、ツルさんの手際が良すぎて、たぬきおばさんぐらいしかそれが出来そうにもない。多分僕辺りが手伝おうとしても、邪魔なばかりだろう。なので、それ以外で出来る事は、これくらいだ。
まあ、時折部屋の掃除をしてくれているので、こんな事をしても決して対等にはなれない。むしろ、僕がツルさんに何かをすると、その分ツルさんがいつもより働いてくれるので、マッチポンプにしかなっていないのではないかと思う事がある。しかし、だからと言って、それに胡坐をかいているわけにもいかないのである。
「何か食べたいものはありますか?」
帰り道、一緒に買い物に行く時、ツルさんはいつもそう尋ねる。
「んん、今日は肉の気分」
「この前もそう仰いましたね」
以前こう答えた時は、普段のボリュームが足りないのではないかと言われてしまった。しかし別段、普段の料理に対して不満があるわけではない。ただ、今日食べたいものを聞かれた時には大抵肉と答えてしまうのが、思春期の男子の宿命なのである。
「大抵のものは好きだよ、あえて言えば、いつでも肉が食べたい」
「欧米の方のようですね」
そうなのかな?
ものすごく偏ったイメージじゃないのだろうか、その物言いは。欧米には、ベジタリアンだっているのだし。まあ、実際の所は知らないのだけれど。知り合いがいるわけでも無し。
とりあえず、なんだかすき焼きが食べたい気分になってきた。季節にはまだ早いのだったっけ?
「ツルさんはどうしてそんなに家事スキルが高いの?」
なんとなく気になっていたので、聞いてみる事にした。言いにくい事ならそれでもいいのだし、まあ、こんなのは話の切り口みたいなものだ。
「私に限らず、鶴は日本の象徴のようなものです。それに、女性的なイメージもあるのでしょうね、私の元となった鶴の恩返しが、そう思わせるのかもしれませんが。ですから、私がそう言った事に長じているのは、人々の抱く、日本人女性に対する理想のようなものなのです。ですから、設定と言っても良いかもしれませんね。大天狗先生が、天狗の団扇をもっているように、私は家事に長じているのです」
「ふうん」
現代において、まさか自分の羽ではた織りをするわけにもいかないだろうから、だからこそ、そうなっているのだろうか。現代社会で機織りをした所で、そこでどんなに身を削ったとしても、きっとそれは自己満足にしかならない。そもそも、それをどこで売ればいいのだ。
恩返しをするにあたって、相手に負担をかけては意味がない。鶴の恩返しは、確かに美談のようなものなのだろうけれど、それをそのまま現代社会に置き換える事は出来ないのだ。あるいは、そういう区域に行けば成立するのかもしれないけれど、生憎、僕が住んでいる区域は、現代日本と変わりがない。
お話を始めるには人間で、僕がここにいるからこそ、ツルさんはそうなった。
「じゃあ刀は?」
「これの事ですか?」
常日頃から何かに襲われるわけでもないのに帯刀している危険人物。そんな彼女と肩を並べて歩いている僕は、命が危険なのかもしれなかった。
「銘刀鶴丸。鶴の名がついているから、私が持っています」
なんだかよく分からないけれど、そういう事らしかった。この町にいるのは、妖怪の類であると言いながらも、そのほとんどが動物のようなものである。擬人化された動物であると言っても良い。創作の中において、半ば人間扱いを受けているからこそ、そうなのであるわけだ。
そして、既存の物語の中には、キーアイテムが存在することがある。桃太郎は刀を携えていたし、金太郎は鉞を担いでいる。そういう道具は、一体どこにあるのか。そうなったときに、まさか一人の人間がその全てを所有しているわけにはいかない。かといって、その世界に存在しなければ、物語は矛盾して進まない。
その辺りの苦肉の策のようなものが、それにまつわる存在が人間に代わってそれを所有する、という事らしい。そして、人が、主人公となるべき人が何かを必要としたときに、その何かを手渡す役回りになる。僕が一度、大天狗先生から天狗の隠れ蓑を借りたように。
とりあえず、刀が必要となる時が訪れないように祈るとしよう。
「まあ、何でもいいや。その辺りは関わらずに生きていきたいし」
「良いのですか?」
「うん。刀には心惹かれるものが無いわけではないけれど、荒事なんて苦手だしね。疑心暗鬼じゃないけれど、そんな話をしていると、本当にそんな話になってしまいかねない」
僕は言った。
「刀よりも、今日の晩御飯の方が重要だと思う」
「ふふ………分かりました。今日は、ジャガイモとニンジンがあったので、肉じゃがにしましょうか」
やー!
と、はしゃぎたい気分だったけれど、ツルさんはそういう所で乗ってくれる人では無いので自粛。こういう所は、ネコが居ないとどうにも調子がくるってしまう。僕だってあまりはしゃぐような人間ではないけれど、ツルさんはなんだか大人っぽ過ぎて、おいそれとふざける事が出来ない。
この際、というかすでに終わってしまったことであって、いまさら言っても仕方がない話なのだが、こんな事があった。僕は知ってのとおり、ものをもたない人間であり、したがって僕の部屋も、以前のようにキツネとネコが暴れたりしなければ、綺麗なものだ。そのせいなのか、どうにも、自室の掃除が雑になってしまう事がある。それをも咎めたツルさんが、僕が留守にしている間に僕の部屋を掃除してくれた事がある。
結果、部屋は見違えるように綺麗になっていた。当然僕は感謝したし、あれだけ徹底した掃除をしていながら、僕の持ち物の配置は変わっていなかった。それを見た瞬間、僕は血の気が引いた。僕の秘蔵図書館は、一体どうなってしまったのか、という事だ。
即座に確認すると、結果的に僕の秘蔵図書は、僕が隠しておいた場所方動く事無く、そこに存在した。
ただし、非常にきれいに整えてあったのだった。
同年代にそんな配慮をされて、僕は一体どうすれば良いのだ。いっそ不潔だと言ってくれた方が気は楽だというのに、ツルさんは何も言わなかった。その日の夕飯は、僕に取って死刑執行を待つようなものだったが、結局それが執行される事は無かった。もう何だ、そこまで行くと物分かりの良い母親みたいだった。
奥さんにすると良いのは、こういう人なのかなあ?
大人のようで、はしゃがない。そんな言い方をすると、以前住んでいた所にいた頃の自分を思い出す。自己完結して、誰かのためと言い訳して、何よりも自分をだましていた。今のツルさんが楽しそうでは無いとは、言わない。けれど、それが嘘で、律儀に恩返しをしているだけという事はないのだろうか。
「ツルさんは」
「なんですか?」
んー。
上手い言葉を探すけれど、なかなか見つからない。変な言い方をしたくはないし、誤解を恐れずに言っているわけでもない。率直に聞きたいけれど、なんだか誤解を招いてしまいそうな気がする。
「ツルさんは、恩返しのために、弧狗狸荘に来たんだよね?」
「はい、そうですよ?」
「だったら、いや。もしも、その。もしも………?」
「最初は、最初は確かに恩返しでした」
最早、臆病者の謗りは免れない。誤解を恐れて、口ごもって、挙句の果てに相手が察する。自分じゃ何も出来ていないし、これじゃあ、言わせているのと変わらない。
「確かに最初は恩返しで、始まりはそれだけでしかありませんでした。
けれど、こっくり荘に住んで。いいえ、きっとあなたとネコさんがあんなに仲が良かったから、二人で本当に楽しそうだったから、だから私は今でもこっくり荘に居るのだと思います。恩返しに行って、あなたと、ネコさんを見たその時から、きっと恩返しは恩返しで無くなったのだと思います。あなたのような人は、あなた以外には居ないのですから。
ですから今はきっと、もう恩返しなんて関係なくて、ただ、あなたが喜ぶ顔を見たいだけなのです」
「………ありがとうございます?」
疑問形。
まあ、嫌々やっているという訳ではなく、恩返しのためだけにやっているのでないのならば、それで良いと思う。仲が良かった云々は、良く分からない。友達が欲しかったのだろうか。
でも、少なくとも。誰かに喜んで欲しいと思う事は、僕だって同じだ。誰かに何かをしてもらえば嬉しいし、だからこそ相手にもそう感じて欲しい。僕は誰かに何かをしてあげる事が出来ているのだろうか。
「アキナさん」
ツルさんは言う。迷いなく、何事においても言いきってしまえる彼女たちは、僕から見れば本当に眩しい。その強さは僕には無いからこそ、手が届かない星のように、僕にとって尊く映るのだ。
「あなたは、自分は周りの人たちに何も出来ていないと、そう思っているかもしれません。
ですが、決してそんな事はありません。何よりも誰よりも、あなたはあなたの周囲の存在に、影響を与えているのですから。人が物語を動かす存在である以上に、あなたが作った、あなたの人間関係は、私たちに影響を与えています。
私たちがこうして幸せなのは、あなたのおかげでもあります。全てがそうでは無くても、全てがそうではないからこそ、意味があるのです」
全てがそうであったなら、それはきっと、生きていないという事だ。幸せになろうという意思があってこそ、人は幸せになれるのだから。その意思を抱く事無く、ただひたすらに幸せを享受する存在は、きっと、何一つ意義がない。
「そっか、そうなのかな………」
ここまで言われても、ここまで言わせても、僕は良く分からなかった。
自分が他人に与えている影響。そんな物を、測った事はない。そんな物を、考えた事も無かった。今この状況に、僕の影響がないとは言わないけれど、そのほとんどは、ある意味僕が無理やり巻き込んでしまったに過ぎないと、そう思っている。
僕は確かに僕の選択を重ねてきたのだろうけれど、後悔は一つも無いけれど、それが正しかったのかどうかは、分からないのだから。僕が選んで、一体何が本当に動いたのか。僕に見えているものは、所詮僕に見えているものだけなのだ。
僕が、僕の両親が僕を他人の子供としか見ていなかった事を、知らなかったように。自意識過剰であると分かっていても、必要以上にそういう事を考えてしまう。僕は、皆の事をどこまで理解できているのだろうか。
「ところでアキナさん。一つ、怖い話をしてあげましょうか?」
「はい?」
急にどうした。
「あなた以前にこの町にやってきた数多くの方々がどうなったのか、知っていますか?」
「うん。忘れられるって言っていたよ、大天狗先生が」
確か、そう言っていた。人の一生は、妖怪や、この町に住んでいる住人から見れば、一瞬の光に過ぎない。
だからこそ、特別な何かを残さない限り、覚えている人はいなくなるだろう、と。
「忘れられる、ですか………」
「うん」
「確かにそれは、その通りかもしれません。
ですがそれ以前に、もっと重要な事があります。この町は、一つの町であって、それでいて一つの世界です。善悪の観念も、外の町とは隔絶し、正義と悪が確実に存在しているのです。
そして、その街を動かし続けるために、この町に招かれる人。あなた以前に招かれた人々の全てが、老いる事によって死んだのではない事は、想像しておられたでしょう?」
うん。
先程の、刀の話もそうなのだろう。そんな物が必要となる状況を、語り手であるというだけの理由で、何事も無く乗り越えていけるとは限らないだろうから。
「彼らもまた、善悪に染まります。何にも影響される事無く存在できるものなんて、そもそも存在しません。あなたは私たちに影響を与えるために、この町に招かれました。けれど、同時にあなたもまた、私たちから影響を与えられるのです。
作用すれば、反作用が生じる。どこへ行っても、どこまで行っても、それだけは変わる事がありません。何かに影響を与えたその時、逆に何か影響を受け取ります。
あなた以前にこの町に招かれた、数多くの人間。彼らは、彼らの周囲の存在に影響を与え、そして影響を受けました。悪意をもって接すれば、悪意をもって返される。善意をもって接しても、悪意をもって返されるかもしれない。
悪に染まり、善に染まる。そのどちらが、正解という事もありません。悪意の身で、ただ一色に染めあがった存在は確かに怪物です。ですがその逆に、善意のみで形作られる人型もまた、化け物に他なりません。
悪は人に対する甘さで、善は人に対する厳しさです。悪は人に対する毒薬で、善は人に対する劇薬です」
一切の甘さを許さない存在と、その全てを厳しさでつくられた存在。毒薬は少量ならば薬になり、劇薬は当然過ぎれば毒薬となる。どちらも、過ぎれば外でしかない。どちらも欠ければ、健全ではない。
清濁併せ持つ。それでこそ人間であって、そうでなければ幻想だ。
「片方に染まり切れば、それはもはや人の精神ではあり得ません。そもそも人は、そんなものには成り得ません。私たちとは違うから、だからこそ人間なのです。ですから、もしもその境界を失う事があれば、それは人としての終わりです。私たちのような、概念へとその身を落とします。変わるのではなく、落ちるという意味は分かるでしょう?」
それはきっと、その選択があまりにも安易だからだ。バランスをとる事を辞めて、何か一つの事に身をゆだねる。悩まず、迷わず、極端から極端へ。僕たちの精神がどこまで危ういものかは知らないが、確かに何かのきっかけで均衡が崩れる事はあるだろう。
世の中に溢れている事だ。精神を、一瞬とはいえ衝動に任せきってしまう瞬間。悪意をもってのみ誰かに接するからこそ、犯罪という概念は存在する。犯罪とそれを呼ぶ事は、僕たちの精神を律することだ。
「そのなれの果てが猿であり、いくつかの存在です」
「猿が」
「そうです。分かりやすい存在でしょう?」
本能にのみ、身を任せてしまう事は、人にとって罪悪だから。それを失って人は成立しないけれど、それだけの存在ならば、人は非力な猿だから。
だから。
だからあの猿たちは、非力だったのだ。非力で、無力だった。
「ああなるのは、怖いな」
「でしょう?」
そう言って、ツルさんは笑った。
「気をつけるよ」
僕はそう言った。ツルさんがこんな話をしたのは、きっと僕に自制を促すためであって、気をつけないといけないからであると思ったからだ。猿になって、それ以前の自分を忘れ去られてしまうのが怖いのならば、選ぶものは慎重でなければならない。
そう思ったのだけれど、ツルさんはそうでは無かったらしい。
「大丈夫だと思いますよ」
「どうして?」
ツルさんは言った。
「もしもあなたがそうなるのだったら、きっとこの町にやってきてすぐに、そうなっていたと思います。こっくり荘であんな生活をしているあなたはきっと、これからもやって行けますよ」
それは一体どういう意味だ?