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純文学の運命

一つ前の文章で、このサイトは純文学を書いている人、好んで読んでいる方は少ないと書いてしまった。悪い意味で書いたのではないので、削除したりせず、補足的なことを書きたい。


別にこのサイトだけでなく、ガチガチの純文学というのは読む人は減り続けていて、古典芸能でも特に人気のないもの(能とか琵琶とか)と同じような運命をたどっているような気がする。しかし、私はそのこと自体を一概に悪いとは思っていない。

実は私の考え自体まとまっていなくて、二つの考えの間で揺れている。

一つは純文学は使命を終えたので、やはりなくなっていくのではないか、ということである。その場合、マンガやライトノベルなどが今まで純文学が担っていた役割を負うんじゃないかと思う。




ところが、同時に私は純文学や古典がしぶとく強かに再生するんじゃないかとも思う。何とはなれば、ライトノベルやマンガでも本当にすぐれたものは過去の偉大な作品の何らかの影響を受けていることが多い。またマンガやライトノベルを愛読している子も一定の量を読みこなすと純文学や古典を読みたいと進歩、進化してくることが多い。

私は生徒とある程度、信頼関係を作っているので、よくおすすめのマンガなどを見せてもらうが、その下敷きに名作があると指摘すると強い興味を示すことが多い。また私もマンガやライトノベルの進歩にびっくりすることがある。最近で言うと、「罪と罰」の日本を舞台にしたマンガ版は原作の細部までしっかり再構成していて、びっくりした。



今、比較的有名な出版社が古典を新訳して出しているのも潜在的な需要を示しているような気がする。




何より私は思うのだが、現代の社会は閉塞感に覆われ、刹那的な快楽を追い求めている。そういう生き方を強いられる人を見下すつもりはないが、本当にもっと行き詰まってきた時、人は明るく楽しいだけの作品ではなく、重厚で本格的な作品や、民族のアイデンティティを感じられるような作品を求めるのじゃないかと思う。

最後の方は私の祈りも込められた思いである。

悪文乱筆ごめんあそばせ!

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