失う側に回る それでも続けるために
決断は、人目につかない場所で行われた。
王城の地下、記録保管庫。
石造りの通路の奥にある、古い書庫だ。高い天井まで積み上げられた棚。木箱に詰められた記録文書。空気は乾いていて、埃と紙の匂いが混ざっている。足音がやけに響く。
人の気配はほとんどない。
(ここでいい)
俺は、積み上げられた木箱のひとつに腰を下ろした。
向かいに立つのは、王女アリシア。
その少し後ろに、エリス。
三人だけ。
逃げ場も、観客もいない。
「反対派は」
アリシアが静かに口を開いた。
「制度実験の即時停止を求めています」
声は落ち着いているが、内容は重い。
「理由は理解していますね」
「はい」
俺は頷く。
「軍事予算の圧迫。人員配分の歪み。それから象徴化の危険」
アリシアがわずかに目を細める。
「ええ。あなたが中心人物に見え始めている。それは、致命的です」
否定できなかった。
街でも議会でも、いつの間にか俺の名前が制度と結びついて語られている。
それが、反対派の攻撃軸になっている。
「だから」
アリシアは、はっきりと俺を見る。
「あなたに選択肢を提示します」
提示。
命令ではない。
「一つ。制度実験から完全に降りる。あなたの存在を切り離す。反対派は“目的”を失います」
つまり、俺を切り離して制度を守る。
「もう一つ」
「あなたが前に出る。公に語り、矢面に立つ。その場合、制度は長くは持たないでしょう」
俺が象徴になる。
そして制度ごと叩き潰される。
「私は」
アリシアは静かに続ける。
「あなたに前に出てほしくありません。ですが、それを選ぶなら止めません」
重い沈黙が落ちる。
エリスが口を開きかける。
「俺は――」
だが、言葉が続かない。
彼女は視線を落とす。
(言わせるな)
俺は深く息を吸った。
(ここだ)
(ここで間違えたら、全部壊れる)
「降ります」
自分の声が、やけに大きく響いた。
胸の奥が、ずきりと痛む。
アリシアが目を伏せる。
エリスが小さく息を呑む。
「制度実験から、完全に降ります。監督もしない。助言もしない。現場にも顔を出さない」
一つずつ、はっきりと言う。
「理由は?」
アリシアが確認する。
「俺がそこにいる限り、これは“男を救う男の物語”になる」
地下の空気が、さらに重くなる。
「それは、反対派の正論を強化するだけです。“男が制度を歪めている”という構図を、自分で作ることになる」
アリシアは小さく頷いた。
「自覚はある、と」
「はい」
だからこそ、降りる。
「その代わり、失います」
エリスが顔を上げる。
「何をだ」
「立場を。居場所を。信用を」
はっきり言う。
「俺は、制度の中でも反対派の中でも、どちらにも属さない存在になります」
つまり、味方がいない。
エリスの声がわずかに震えた。
「それは、一番孤立する」
「はい。でも制度は続きます。制度が残るなら、俺一人が余剰になる方がマシです」
言い切った瞬間、胸がひりついた。
アリシアはしばらく考え、そして静かに告げた。
「分かりました。あなたの決断を受け入れます」
「公式には、あなたは“試験的施策とは無関係な観測対象”。事実上の後退です」
「構いません」
「失う覚悟は?」
「あります」
怖くないわけではない。
だが、嘘ではない。
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その日の夕方、王都に通達が流れた。
《試験的施策に関する関与者の再編》
《特定個人の関与は確認されていない》
俺の名前は、どこにもない。
噂はすぐに変わる。
「あの男、消えたな」
「やっぱりやりすぎだったか」
「口出ししてただけだろ」
英雄でもない。
怪物でもない。
今度は、無関係な男だ。
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夜、宿の部屋。
エリスが訪ねてきた。彼女はまだ階級章を外したままだ。
「本当に、それでいいのか」
「はい」
「私は」
彼女は言葉を探す。
「守れなかった」
「違います」
俺は首を振る。
「守ってくれました。“前に出ない”って選択肢を、許してくれた」
エリスはしばらく黙り込む。
「騎士としては、最悪の判断かもしれん」
「そうかもしれませんね」
「だが」
彼女は顔を上げる。
「人としては、誇れる」
その一言で、胸が詰まった。
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翌日。
俺は倉庫街に行かなかった。
少年にも会わない。
約束通りだ。
偶然も、作らない。
遠くから街を眺める。
誰も俺を探していない。
制度は、静かに回っている。
医療窓口も、雇用区画も、俺がいなくても動いている。
(これでいい)
主人公が前に出ない物語。
希望を語らない物語。
それでも、誰かが切り捨てられなかったなら。
その裏で、一人くらい消えてもいい。
俺は、自分でその位置を選んだ。




