「謝らぬ人」
はじめまして、赤馬です!
今回は、享保年間の小さな藩を舞台に、普段は目立たぬ下級武士が己の信念と向き合う物語をお届けします。戦国や幕末のような派手な戦乱はないけれど、江戸の片隅で生きる人々の葛藤や誇りを描きたくて、この作品が生まれました。 主人公・木島一刀は、どこか「自分」を重ねたくなるような男。いつも謝ってばかりの彼が、なぜ刀を手にし、何を貫こうとしたのか――その一瞬を、ぜひ一緒に感じてください。史実の隙間に息づく「人間ドラマ」を大切に書きました。 感想や応援メッセージ、どんな小さなものでも励みになります! 桜の花弁が舞う春の路地裏、一刀と一緒に歩いてみませんか?
それでは、本編をどうぞ!
時は享保年間、江戸の外れ、下総の小藩に木島一刀という侍がいた。
齢三十五、痩躯に薄い髭、目つきは柔和だが、どこか焦点がぼやけている。
藩の勘定方を務める下級武士で、刀は腰に差すものの、抜いた試しは皆無。
なにしろ一刀は、謝る男だった。誰かが肘で茶碗を割れば「拙者の不注意で」と頭を下げ、上役が書類を紛失すれば「拙者が預かりを怠り」と平伏す。町で酔っ払いに絡まれても「ご無礼を」と詫び、果ては犬に吠えられても「騒がせて申さぬ」と呟く始末。藩士仲間は彼を「謝り一刀」と呼び、笑いものにした。
だが、一刀は意に介さず、ただ穏やかに謝り続けた。それが彼の処世術だった。波風立てず、刀を抜かず、生き延びる術。ある日、一刀は城下の狭い路地を歩いていた。陽は傾き、春の風が桜の花弁をちらす。ふと、前方からどすどすと足音。見れば、隣藩の荒くれ侍、猪狩十蔵が三人の供を連れて歩いてくる。十蔵は巨漢で、顔は赤らみ、酒の匂いを漂わせていた。通りすがりに一刀の肩が十蔵の鞘に触れた。瞬間、十蔵の目がぎらりと光る。「おい、貴様! 拙者の刀に触れたな! 無礼を詫びろ!」と怒鳴る。
一刀はいつものように「これは拙者の不注意、誠に申さぬ」と頭を下げた。十蔵は鼻で笑い、「軟弱な奴め」と吐き捨て、供を引き連れて去った。路地の隅で物売りの婆さんが「また謝ったか、一刀さん」と笑う。一刀は苦笑いで返すだけだった。だが、事態はそれで終わらなかった。数日後、藩の重臣・大石内膳が一刀を呼び出した。大石は厳めしい顔で言う。「木島、隣藩との評定に立ち会え。猪狩十蔵が来る。例の領境の水争いだ」。一刀は「はっ」と答えつつ、胸に嫌な予感がよぎった。
水争いとは、両藩の田を潤す川の水門を巡る争い。藩の面子がかかる場だ。評定の日、城の一室に両藩の者が集った。一刀は末席に控え、書類を手に汗をかく。議論は白熱し、十蔵が声を荒げる。「我が藩の水門は古来の権利! 貴藩が勝手に堰を動かしたのだ!」大石が反論するが、十蔵は一刀を指差し、「おい、謝り一刀! 貴様の藩の不始末、さっさと詫びろ!」と哄笑。
場が凍る。一刀は立ち上がり、いつものように「拙者の不徳、誠に…」と言いかけたが、言葉が止まった。なぜか、胸の奥で何かがひっかかった。水門の書類を何度も確認した一刀は知っていた。堰の移動は隣藩の仕業であり、こちらに非はない。なのに、謝るのか? いつも通り、頭を下げて済ませるのか? 十蔵の嘲る目、大石の冷たい視線、部屋の空気が一刀を押し潰す。だが、その瞬間、彼の脳裏に浮かんだのは、幼い頃、父が語った言葉だった。「刀とは、己の信を貫くものだ」。一刀は目を閉じ、息を吐いた。
「猪狩殿」と、一刀の声は静かだった。「水門の件、拙藩に非はござらぬ。証は書類にあり。貴殿の言い分こそ、詫びねばならぬ」。場が静まり返った。十蔵の顔がみるみる赤くなる。「貴様、謝らぬだと? この軟弱者が!」と刀の柄に手をかける。一刀も無意識に腰の刀に触れた。抜いたことはない。だが、今、抜かねばならぬ気がした。「木島、控えなさい!」大石が叫ぶが、一刀は動かない。
「拙者は、藩の名誉を汚さぬ。それが侍の務め」と、静かに言う。十蔵が「ならば試してみせろ!」と刀を抜く。瞬間、一刀の刀が閃いた。一合、刀は鞘に戻り、十蔵の刀が地面に落ちる。十蔵の手首から血が滴り、彼は膝をついた。誰もが息を呑む。一刀は無言で十蔵を見下ろし、こう言った。「謝らぬ。貴殿が謝れ」。その後、一刀は咎めを受け、勘定方の職を解かれた。だが、藩士たちの目は変わった。「謝り一刀」はいなくなり、ただ「木島一刀」がそこにいた。夜、桜の木の下で一人酒を飲む一刀は、刀を手に呟いた。「父上、これが信か」。春風が答えの代わりに花弁を散らした。(了)
「謝らぬ人」をお読みいただき、ありがとうございます!
木島一刀の小さな、でも熱い一歩、いかがでしたか? 彼の「謝り続ける生き方」は、私自身、日常でつい波風を立てないように振る舞う自分の姿を投影した部分でもあります。それでも、どこかで「これだけは譲れない」と立ち上がる瞬間って、誰しもあるんじゃないかな、と思いながら書きました。 今回は短編ですが、一刀や彼の周りの人々――大石内膳や猪狩十蔵、物売りの婆さんなんかも、実はもっと深い物語を持っていそうで、続きやスピンオフも考えてみたいですね(笑)。皆さんはどのシーンが心に残りましたか? 特にあの剣戟の瞬間、ドキドキしながら書いたので、感想で教えていただけると嬉しいです! 次回作も、歴史の片隅で生きる人々のドラマを準備中です。戦国か幕末か、それともまた別の時代か……乞うご期待! 引き続き、応援よろしくお願いします。