二輪、咲く
◆
──恋とは戦争である。
それが男爵令嬢マルグリット・ヴァリエの揺るぎない信条だった。戦場において奪い奪われるは世の常。そこに感傷や同情が入り込む隙間などない。ただ、己が持つ武器を最大限に活かし、勝利を掴むのみ。
マルグリットにとっての武器は神が授けたもうた美貌と、誰をも虜にする駆け引きの巧みさ、そして何より、欲しいものは必ず手に入れるという鋼の意志だった。
だから公爵令嬢アリシア・エル・クライネルトの婚約者である王太子レイフォン・エルズ・ヴァルモントを己のものと定めた時、彼女の心にはいささかの躊躇も罪悪感も生まれなかった。
むしろ、それは胸躍る挑戦ですらあった。
国内で最も高貴な血筋を引く公爵令嬢から次期国王たる王太子を奪う──これ以上の戦果があるだろうか。
マルグリットは細心の注意を払って計画を練り、大胆に実行した。
だが決してアリシアを罠に嵌めたり、根も葉もない噂を流したりはしない。そんな卑劣な手段は彼女の美学に反する。純粋にマルグリット・ヴァリエという一人の女の魅力だけでレイフォンの心を射貫いてみせる。
それが彼女の戦い方だった。
幸いにも戦況はマルグリットに味方した。王太子レイフォンと公爵令嬢アリシアの関係が政治的な結びつきだけの冷え切ったものであることは貴族たちの間では公然の秘密であった。
レイフォンは快活で華やかなものを好み、アリシアは書物を愛する物静かな令嬢。水と油ほどにも違う二人の間に愛情が芽生える土壌はなかったのだ。
マルグリットはその隙間を巧みに縫うようにして入り込んでいった。学園のパーティーでは誰よりも鮮やかなドレスでレイフォンの目を奪い、談話室では彼の興味を引く話題を巧みに提供し、乗馬の授業では彼と競い合うように馬を駆って、その気概を示した。
アリシアにはないもの、そのすべてをマルグリットは持っていた。
そしてレイフォンはまるで渇いた喉が水を求めるようにマルグリットの与える刺激に溺れていった。
◆
ついにレイフォンがマルグリットの手に落ちたのは初夏の薔薇が咲き誇る、ある日の午後だった。
温室で二人きりになった時、彼は熱に浮かされたような瞳でマルグリットの手を取り、こう告げた。
「君こそが私の隣に立つべき女性だ」
マルグリットは優雅に微笑み、その手を受け入れた。
略奪成功。
彼女の計算通り、戦いは完璧な勝利で終わるはずだった。──そう、この時までは。
マルグリットの計算が狂い始めたのはその直後からだった。
レイフォンの心を手に入れたことで、彼はマルグリットという存在をアリシアと比較するための物差しとして使い始めたのである。
「アリシアはいつもそうだ。君のように気の利いたことも言えんし、表情も乏しい」
「君と話していると楽しいがアリシアとの会話は苦痛でしかない」
最初は恋する男の愚痴として聞き流していたマルグリットだったが次第にレイフォンの言動はエスカレートしていった。それはもはや愚痴ではなく、アリシアに対する明確な敵意と侮蔑に満ちた嫌がらせへと変貌していた。
学園の廊下でアリシアとすれ違う際、わざと聞こえるように溜息をついてみせたり、アリシアが提出したレポートを教授の前で「こんなつまらないものを読まされる身にもなれ」と貶したり。そのやり口は陰湿で、王太子という立場を利用したあまりにも幼稚なものだった。
マルグリットは眉をひそめた。彼女はアリシアに勝利したのであって、彼女を辱めたいわけではない。そもそもこれはマルグリットとレイフォンの恋物語であるはずだ。そこにアリシアという存在が介在する余地はないはずだった。
「殿下、そのようなことはおやめください。アリシア様がお可哀想ですわ」
マルグリットが諌めても、レイフォンは得意げに笑うだけだった。
「何を言う。君も、あの女が気に食わないのだろう? 君のために私が少し灸を据えてやっているだけだ」
その言葉にマルグリットは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(違う。そんなことを望んでいるわけではない。これは私の戦いであり、私の勝利だ。あなたがしゃしゃり出て、私の勝利に泥を塗る権利などない)
しかしレイフォンはマルグリットの内心の不快感に気づく様子もなく、むしろ彼女が喜んでいるとさえ思い込んでいるようだった。
一方のアリシアはただ黙って耐えていた。何を言われても、何をされても、表情一つ変えずに俯いているだけ。
その奥手な性格が事態をさらに悪化させていた。彼女が少しでも反論したり感情を表に出したりすれば、レイフォンもまた違う反応を見せたのかもしれない。だが彼女はまるで感情のない人形のようにただされるがままになっていた。その姿がレイフォンの苛立ちをさらに増幅させていることは明らかだった。
マルグリットは苛立ちと、それからほんの少しの同情を感じながら、事態を眺めるしかなかった。彼女にしてもこの時点ではまだレイフォンへの情愛があったのだ。疑念の種は多く植えられてしまっているにせよ。
そんな中、マルグリットの中で決定的な疑念が芽生える出来事が起こった。
それは期末試験を間近に控えた日の放課後だった。忘れ物を取りに教室へ戻ったマルグリットはレイフォンと彼の取り巻きの一人である子爵令息が声を潜めて話しているのを偶然耳にしてしまったのだ。
「……本当に大丈夫なんだろうな。もし漏れたりしたら……」
「心配いりません、殿下。父が担当教授にうまく取り計らっております。これで、前回の失態を挽回できますとも」
「そうか。ならばいいが……」
マルグリットの存在に気づいた二人は慌てたように会話を打ち切った。レイフォンはぎこちない笑顔で「ああ、マルグリット。どうしたんだ?」と声をかけてきたがその目は明らかに動揺していた。
「忘れ物をいたしましたの。お邪魔だったかしら?」
マルグリットが探るような視線を向けると、レイフォンは「いや、そんなことはない」とだけ言って、そそくさとその場を立ち去っていった。
(失態の挽回? 不正……?)
マルグリットの胸にきな臭い煙が立ち上る。女の勘がこれは単なる学生同士の悪戯ではないと告げていた。王太子という立場を利用し、彼は何か許されざることを行っているのではないか。
恋という熱に浮かされていた時には見えなかったものが少しずつ見え始めていた。レイフォンという男の、その本質が。
そして、運命の日は訪れた。
その日、レイフォンのアリシアへの嫌がらせはついに一線を越えた。学園の中庭で、アリシアが読んでいた本をレイフォンがひったくり、近くの噴水へと投げ捨てたのだ。それだけではない。咄嗟に本を拾おうと手を伸ばしたアリシアの肩を彼は強く突き飛ばした。
「いつまでもうじうじと私の前に現れるな! 鬱陶しい!」
きゃ、という短い悲鳴とともにアリシアの華奢な体は石畳に打ち付けられた。幸い、噴水の縁にぶつかっただけで大事には至らなかったが彼女の白い腕には赤い擦過傷が生々しく刻まれていた。
周囲にいた生徒たちが息を呑んで遠巻きに見ている。誰もが王太子の暴挙に驚き、恐怖していたが彼を止めようとする者は一人もいなかった。マルグリットはその光景を離れた場所から見ていた。血が急速に冷えていくのを感じつつ。
(……もう、たくさん)
これは恋ではない。これは戦争ですらない。ただの弱い者いじめだ。そして、こんな男を自分の勝利の証として戴くことなどマルグリ-ット・ヴァリエの誇りが許さなかった。
彼女は固く拳を握り締めると、踵を返し、その場を去った。
向かうべき場所はただ一つ。
今この瞬間まで敵であると定めていた、公爵令嬢アリシア・エル・クライネルトの元だった。
◆
アリシアが学園の図書室の片隅にある閲覧室で、一人静かに本を読んでいた時のことだった。不意に目の前に影が落ち、顔を上げると、そこに立っていたのはマルグリット・ヴァリエその人だった。
アリシアは驚きのあまり、手にしていた本を取り落としそうになる。彼女は今、この学園で最も顔を合わせたくない人物だったからだ。
マルグリットはアリシアの向かいの席に音もなく腰を下ろした。その表情はいつもの自信に満ちたものではなく、どこか硬質で、真剣な光を宿していた。
「ごきげんよう、アリシア様」
静かだがよく通る声だった。アリシアは小さく頷きを返すのが精一杯だった。何を言われるのだろう。また、何か嫌味でも言われるのだろうか。婚約者を奪われた惨めな女だと、嘲笑われるのだろうか。アリシアの心臓は不安に縮こまっていた。
しかし、マルグリットの口から紡がれたのは予想とはまったく違う言葉だった。
「単刀直入に申し上げます。私と手を組みませんか?」
「……え?」
アリシアは自分の耳を疑った。手を組む? いったい、何のために。
マルグリットはアリシアの戸惑いを意にも介さず、話を続けた。その瞳は射るようにまっすぐにアリシアを見据えている。
「その前に一つだけ私の信条をお話しさせてください。あの時の私はレイフォン殿下に本気で恋をしておりました。そして、恋は戦争である、というのが私の考えです。自身の魅力を武器にして戦う限り、奪われるほうが悪い。少なくとも、私はそう信じております」
マルグリットは一度言葉を切り、はっきりと告げた。
「ですからアリシア様から殿下を奪ったこと、そのものを詫びるつもりはございません」
そのあまりにも堂々とした物言いにアリシアは呆気に取られた。だが不思議と不快な気持ちはしなかった。むしろ、その潔さに胸の奥で何かがすっと解けていくような感覚があった。目の前にいる女は少なくとも陰でこそこそと画策するような卑劣な人間ではない。彼女は彼女自身のルールと誇りに従って戦い、そして勝利したのだ。ただ、それだけのこと。
アリシアは初めてマルグリットという人間を正しく認識したような気がした。そして心のどこかで、マルグリットへの好感を抱いている自分に気づいた。
「……分かります。あなたが謝罪などしない方だということは」
ようやく、アリシアは声を絞り出した。
「あなたはいつだって真っ直ぐでしたから」
その言葉に今度はマルグリットが少しだけ目を見開いた。
アリシアは続けた。
「ずっと、不思議に思っておりましたの。あなたは殿下の隣でいつも笑っておいでだったけれど、殿下が私に何かをなさる時、決して加担なさいませんでした。それどころか……」
アリシアの脳裏にいくつかの光景が蘇った。それは今日まで誰にも話さず、胸の内にだけ仕舞っていた記憶だった。
あれは音楽の授業でのこと。レイフォンがアリシアの演奏を「まるで葬送行進曲だな」と揶揄した時、隣にいたマルグリットが静かだが凛とした声で言ったのだ。
「いいえ、殿下。アリシア様の演奏は月の光のように静かで、美しい音色ですわ。華やかさだけが音楽ではございません」
レイフォンは不満げな顔をしたがマルグリットにそう言われてはそれ以上何も言えなかった。
またある時は美術史のレポートで高い評価を得たアリシアに対し、レイフォンが「どうせ公爵家の力で良い評価を得たのだろう」と多くの生徒の前で口にした時もそうだった。マルグリットはふわりとレイフォンの腕に自分の腕を絡め、甘い声で囁いた。
「まあ、殿下。そんなことより、わたくし、新しいブローチを買っていただきましたの。ご覧になって?」
巧みに話題を逸らし、その場の空気を変えてしまった。あの時、彼女はアリシアを庇ったのだと、今なら分かる。アリシアのプライドを傷つけない実にスマートなやり方で。
アリシアはずっと一人だと思っていた。誰にも理解されず、助けてももらえず、ただ耐えるしかないのだと。しかし、違ったのだ。この誇り高き恋敵は彼女が見ていないと思っていた場所で、確かに彼女を守ろうとしてくれていた。
「あなたは殿下を諌めてくださっていた。何度も……。感謝しております」
アリシアがそう言うと、マルグリットは少しバツが悪そうに視線を逸らした。
「感謝されるようなことではございません。ただ、私の美学に反しただけです。私の勝利に無用な泥が塗られるのが許せなかった。それだけのこと」
強がりだと、アリシアには分かった。この人は本当はとても優しい心を持っている。ただ、それを素直に表に出すのが苦手なだけなのだろう。
「それで……手を組むとはどういうことですの?」
アリシアが本題に話を戻すと、マルグリットの表情が再び引き締まった。
「殿下はおかしい。私が恋をした殿下はもっと……そう、もっと輝いて見えた。けれど、今の殿下は違う。幼稚な嫌がらせに固執し、人を傷つけても何とも思わない。そして、おそらくは不正にも手を染めている」
マルグリットは先日耳にしたレイフォンとその取り巻きの会話をありのままアリシアに伝えた。アリシアは息を呑んだ。王太子が試験で不正を働いているかもしれない。それは国家を揺るがしかねない大スキャンダルだ。
「そして、今日のことも……。殿下はあなたに暴力を振るわれました。あれは決して許されることではありません」
マルグリットの声には静かな怒りが込められていた。
「私はあのような方をこの国の未来の王として認めるわけにはいきません。あなたも、同じお気持ちなのでは?」
マルグリットの問いかけにアリシアはゆっくりと頷いた。婚約者として彼のそばで見てきたからこそ分かる。レイフォンは王の器ではない。彼はあまりに未熟で、自己中心的で、そして残酷だ。このまま彼が王になれば、この国はきっと不幸になる。
「……ええ。私も、そう思います」
「ならば、決まりですわね」
マルグリットはすっとアリシアに手を差し出した。白くしなやかな、美しい手だった。
「レイフォン殿下の本当の姿を暴き、その罪を白日の下に晒しましょう。これはこの国のため、そして私たち自身のための戦いです」
アリシアは一瞬ためらった。しかし、目の前にいるマルグリットの真剣な瞳を見つめているうちに心の中の霧が晴れていくのを感じた。もう、一人で耐える必要はないのだ。自分にはこんなにも頼もしい味方がいる。
アリシアはおずおずとその手を取った。
◆
二人の令嬢の密約はその日のうちに実行に移された。彼女たちは単なる学生ではない。一人は国内有数の権力を持つ公爵家の一人娘、もう一人は小規模ながらも王家との繋がりが深い男爵家の令嬢。彼女たちが本気で動く時、その力は決して侮れないものとなる。
その夜、マルグリットは父であるヴァリエ男爵に学園で起こった出来事のすべてを打ち明けた。レイフォンのアリシアへの仕打ち、暴力沙汰、そして試験不正の疑い。彼女は感情を交えず、あくまで淡々と事実だけを述べた。
男爵は腕を組み、黙って娘の話に耳を傾けていた。すべてを聞き終えると、男爵は深く長い溜息をつく。
「……そうか。殿下はそこまで堕ちてしまわれたか」
そう言ってから、いや、あるいは──と男爵は内心で思う。
(マギーが仕向けた事、ではないだろう。この子の事は良く知っている。だが、この子には相手の心の奥底にあるものをさらけ出してしまう悪癖があるのだ。いやそれが悪かどうかは儂にも分からぬが。本人でさえ知りえぬ裏の顔も、この子の前ではなぜかあらわにしてしまう……)
勿論そんな事を考えているなどおくびにもださず、男爵は話を続ける。
「マルグリット。お前はどうしたいのだ?」
ヴァリエ家は代々王家に仕え、現国王とも浅からぬ縁がある。レイフォンが生まれた時には城に祝いに駆け付けたこともあった。それだけに彼の変貌ぶりは男爵にとって痛恨の極みだった。
父の問いにマルグリットは迷わず答えた。
「真実を明らかにしたいのです。そして、殿下には犯した罪の償いをきちんとしていただきたい。それがこの国を思う一貴族としての私の務めですわ」
その言葉に男爵は娘の顔をじっと見つめた。
「……分かった。お前の意志を尊重しよう。だが相手は王太子だ。一筋縄ではいかんぞ。この父に何か手伝えることはあるか?」
「はい、お父様」
マルグリットは頷いた。
「殿下の取り巻きである、ラパント子爵令息の家のことを調べていただきたいのです。彼らがどのような手段で不正を働いたのか、その証拠を掴む必要があります」
「うむ。承知した。すぐに信頼できる者を遣わそう」
父の力強い返答にマルグリットは深く頭を下げた。自分の戦いに家族という心強い味方が加わった瞬間だった。
時を同じくして、クライネルト公爵邸でも一つの決断が下されようとしていた。
アリシアから事の次第を聞いたクライネルト公爵の怒りは凄まじいものだった。彼は娘が王太子から虐げられていたことにこれまで気づけなかった自分を責め、そして何より、王家の血を引く者がそのような卑劣な行いに及んだことに激しい憤りを覚えた。
「許せん……! 王家も地に落ちたものだ。我が愛する娘を傷つけ、当家を侮辱するとは!」
書斎に公爵の怒声が響き渡る。
彼はすぐにでも城に乗り込み、国王にレイフォンの非道を訴えようとした。しかし、アリシアはそれを静かに制した。
「お待ちください、お父様。今、感情的に動くのは得策ではございません」
「しかし、アリシア! お前はこんな仕打ちを受けて、黙っているつもりか!」
「いいえ」
アリシアはきっぱりと首を横に振った。その瞳には以前のようないつもおどおどとした光はなく、澄み切った覚悟が宿っていた。
「黙ってなどおりません。ですが事を起こすのであれば、完全な勝利を収めなければ意味がありません。そのためには殿下がもはや言い逃れできぬほどの、確固たる証拠が必要です」
娘のあまりの変貌ぶりに公爵は目を見張った。あのいつも本の世界に閉じこもっていた内気な娘がまるで歴戦の将軍のような口調で戦略を語っている。
「……マルグリット嬢か。彼女がお前を変えたのだな」
公爵の言葉にアリシアは頬を微かに赤らめ、こくりと頷いた。
「はい。彼女はわたくしに戦う勇気をくださいました」
「そうか……」
公爵は娘の成長を眩しい思いで見つめ、そして頷いた。
「分かった。お前の言う通りにしよう。それで、私に何ができる?」
「殿下の学園外でのご様子を詳しくお調べください。あの方の素行の悪さは今に始まったことではないはず。きっと、多くの証言や証拠が見つかるに違いありません」
「よし、任せておけ。我がクライネルト家の情報網を総動員して、殿下の悪行のすべてを洗い出してくれよう」
こうして公爵家と男爵家、二つの貴族家による極秘の合同調査が開始された。
◆
調査は予想以上の成果を上げた。まるで、堰を切ったようにレイフォンに関する悪評や不正の証拠が集まってきたのだ。
ヴァリエ男爵が放った調査員は子爵家が試験問題を事前に手に入れ、それをレイフォンに渡していたという決定的な証言を口の軽い教授の一人から引き出すことに成功した。さらにレイフォンがその見返りとして、子爵家の事業に便宜を図っていたことも明らかになった。
一方、クライネルト公爵の調査ではレイフォンが王都の商人たちに不当な圧力をかけ、商品を安く買い叩いたり、気に入らない店を営業停止に追い込んだりしていた事実が次々と判明した。被害に遭った商人たちからの嘆願書は分厚い束になるほどだった。それ以外にも、夜会での女性たちへの無礼な振る舞いや、違法な賭博に手を出していたことなど──出るわ出るわ、彼の悪行は枚挙に暇がなかった。
マルグリッとアリシアは夜ごと人目を忍んで落ち合い、互いの家で集めた情報を交換した。最初は学園の古い温室を使っていたがやがてマルグリットがアリシアの部屋を訪れるようになった。二人の間にはもはや敵意など微塵も存在せず、目的を同じくする同志としての奇妙な連帯感が芽生え始めていた。
「見てください、マルグリット様。これは殿下が潰した菓子店の店主からの手紙です。涙ながらに訴えておいでですわ」
「まあ、酷い……。こちらも。試験の度に多額の金銭が子爵家に渡っていたようですわ。許せません」
二人は集まった証拠を一つ一つ丹念に整理し、来るべき日のために準備を整えていった。その作業は緊張を伴うものだったが不思議と苦ではなかった。むしろアリシアにとってはこれまでの人生で最も充実した時間だったかもしれない。マルグリットと二人、蝋燭の灯りの下で頭を寄せ合い、未来を語り合う。それはまるで禁じられた遊びに興じる姉妹のようでもあった。
そしてついに両家の当主、クライネルト公爵とヴァリエ男爵が会談を持つ日が来た。
場所はクライネルト公爵邸の密室。議題はただ一つ、王太子レイフォンの処遇について。
「証拠はもはや十分すぎるほどに揃いましたな」
ヴァリエ男爵がテーブルに並べられた書類の山を見て言った。
「うむ。いつでも、我らは王の御前にこれを突き付けることができる」
クライネルト公爵が重々しく頷く。
「問題はその時期だ。いつ、どこで、我らは切り札を切るべきか」
二人の父親が難しい顔で腕を組む中、それまで黙って話を聞いていたマルグリットが進み出た。
「お父様、公爵様。わたくしに一つ考えがございます」
彼女が提案したのは大胆不敵な計画だった。
それは国王も臨席する、学園の卒業記念パーティの場で、すべてを公にするというものだった。
「殿下はあの場所で、アリシア様との婚約破棄を宣言なさるおつもりです。多くの貴族たちの前でアリシア様を貶め、わたくしとの新しい婚約を発表することで、ご自分の力を誇示する──それは殿下にとって何よりの至福でしょう」
「馬鹿な! そんな事をすれば……いや……奴ならば、やりかねんな」
公爵が唸る。
「そこが絶好の機会です。殿下が自ら墓穴を掘ったその瞬間、我らが集めたすべての証拠を突き付けるのです。これ以上ない、劇的な舞台となりましょう」
それは相応に危険な賭けだった。一歩間違えれば王家への反逆と見なされかねない。しかし、同時にこれ以上効果的な方法がないことも確かだった。
クライネルト公爵とヴァリエ男爵は顔を見合わせた。互いが互いの目の中に渦巻く打算の色を視る。ただ糾弾するだけなら分の悪い賭けだが、こちらには大きな証拠がある。
そして、彼らの娘たち──アリシアとマルグリットの、覚悟を決めた強い瞳を見た。
「……面白い。娘たちの立てた作戦だ。乗ってみようではないか、男爵」
「ええ、乗りましょう、公爵。最高の卒業祝いを殿下に贈って差し上げようではございませんか」
父親たちの笑い声が密室に響き渡った。
断罪の日は刻一刻と近づいていた。
◆
王立学園の卒業記念パーティはその年の社交界で最も華やかな催しの一つだった。大広間はシャンデリアの眩い光に照らされ、着飾った貴族たちで埋め尽くされている。壁際には楽団が優雅なワルツを奏で、テーブルには目にも鮮やかな料理や美酒が並んでいた。誰もが笑顔で語らい、この国の輝かしい未来を担う若者たちの門出を祝っていた。
──そう、少なくとも、表面上は。
渦中の人物である王太子レイフォンは玉座に座る父、国王の隣で、得意満面の笑みを浮かべていた。彼の隣には本来であれば婚約者であるアリシアが立つべき場所だったがそこは不自然に空けられている。アリシア自身は父であるクライネルト公爵と共に少し離れた場所で静かに佇んでいた。その隣にはヴァリエ男爵と、そして今日のもう一人の主役であるマルグリットの姿もあった。
パーティは順調に進み、そして盛り上がりも最高潮に達した頃、レイフォンがおもむろに立ち上がり、高らかに手を打ち鳴らした。
楽団の演奏が止み、広間のすべての視線が彼に注がれる。いよいよ、幕が上がるのだ。
「皆、静粛に! これより、私から重大な発表がある!」
レイフォンは芝居がかった口調でそう宣言すると、侮蔑に満ちた視線をアリシアに向けた。
「ここにいるアリシア・エル・クライネルト! 貴様との婚約を本日、この場をもって破棄する!」
会場がどよめきに包まれる。国王の前で、公爵令嬢との婚約を一方的に破棄するなど前代未聞の暴挙だった。国王自身も、驚きと怒りで顔をこわばらせている。
しかし制止はしない。なぜならば、その暴挙に出るだけの理由があるはずだ、と考えたからだ。
レイフォンはさらに言葉を続けた。
「苦渋の決断ではあるがこれは私個人の感情ではない。この国の未来を思っての決断だ。考えてもみよ。王妃とは、ただ王の隣にいる飾り人形ではない。時には諸外国の使節と渡り合い、時には民の前に立ち、国の象徴として微笑みかけねばならん。だが貴様はどうだ? 夜会では壁の花を決め込み、賓客を前にしても気の利いた会話一つできず、ただ俯いているだけ。貴様のその内向的な性格は、個人の美徳にはなろうとも、王妃としての責務を果たす上では致命的な欠陥なのだ! この国は、より民に愛され、諸外国に敬意を払われる、輝かしい象徴を必要としている。私の隣には、その重責を共に担える、聡明で、華やかで、強い意志を持った女性こそがふさわしい! 私が次期王妃として選んだのは、そのすべてを兼ね備えた女性だ!」
彼はうっとりとした表情でマルグリットに手を差し伸べた。
「マルグリット・ヴァリエ嬢、君だ! さあ、私のところへ!」
すべての視線が今度はマルグリットに集中する。
しかし、マルグリットは動かなかった。彼女はレイフォンに憐れむような一瞥をくれると、彼の差し伸べた手を無視し、毅然とした態度で一歩前に出た。
「お断りいたします、殿下」
その凛とした声は静まり返った大広間によく響いた。
「な……何を言っている、マルグリット!? 私の愛を受けぬと申すのか!」
レイフォンの顔から、得意げな笑みが消え失せる。
「ええ。あなたの愛など、もはや一片たりとも欲してはおりません」
マルグリットの冷たい言葉に会場は再び大きくどよめいた。
事態の異常さに気づいた国王が「レイフォン! いったいこれはどういうことだ!」と声を荒らげた、その時だった。
静かに進み出たクライネルト公爵が国王の前に恭しく跪き、分厚い書類の束を指し示した。
「陛下。恐れながら、申し上げます。我が娘アリシアは長きにわたり、レイフォン殿下より不当な虐待を受けてまいりました。そればかりではありません。殿下は王族としてあるまじき不正に手を染めており、その行いはもはや個人の問題を遥かに超えております」
公爵は立ち上がると、朗々とした声で、レイフォンの罪状を一つ一つ読み上げ始めた。商人たちから巻き上げた嘆願書の内容、彼らの生活を脅かした数々の悪行。その一つ一つが否定しようのない事実として、会場にいる貴族たちの耳に突き刺さった。
「嘘だ! そんなこと、私がするはずがない!」
レイフォンが叫ぶがその声は空しく響くだけだった。
続いて、ヴァリエ男爵がもう一つの書類の束を手に前に進み出た。
「陛下。レイフォン殿下は王太子というお立場を悪用し、学園の試験において不正を働いておられました。こちらがその動かぬ証拠にございます」
教授の証言、金の流れを示す帳簿。レイフォンの顔はみるみるうちに蒼白になっていった。
そして、とどめを刺すかのようにマルグリットが再び口を開いた。
「殿下はわたくしを利用してアリシア様を貶めようとなさいました。わたくしがアリシア様を憎んでいると思い込み、ご自分の幼稚な嫌がらせを正当化しておいででした。ですがそれは大きな間違いです」
彼女はふわりとアリシアの隣に移動し、その手を優しく取った。
「わたくしはアリシア様の気高さと優しさを誰よりも存じ上げております」
そのマルグリットの言葉を合図にしたかのように、それまで黙っていたアリシアが初めて顔を上げて、まっすぐにレイフォンを見据えた。
「殿下。王家に連なる者には、その血にふさわしい高潔さが求められます。わたくしはあなた様個人の感情よりも、王太子としてのあなたの振る舞いに深く失望いたしました。この国の民が戴くべきは私怨で人を傷つける方ではございません。そのことだけは、どうかお忘れなきよう」
レイフォンは口をぱくぱくと開いては閉じ、何も言い返せない。アリシアがまさかこの様な事を、という想いと、そして──
憎悪と殺意で煮え滾った視線をマルグリットに向ける。憎悪というものにも品質があるならば、より品質の高い憎悪とは愛が反転したモノなのだ。
その強烈な負の念は腹を括ったアリシアでさえ一歩たじろがせるほどに凄まじいものだった。
しかし──
マルグリットは国王から見えない様にさりげなく立ち位置を変え、細い人差し指を軽く唇へ当て、そして首元に線を引くようにスッとなぞった。
これは要するにこういう意味である。
『黙ってろ。さもなくば──』
つまりは脅迫だ。だが慈悲でもある。
ここで更に醜態を重ねればどうなるかという話であった。
今、レイフォンはその首が離れるかどうかの瀬戸際にあるのだ。廃嫡は確実、蟄居も確定だろう。
問題はその後である。蟄居中に急遽容体が悪化する事もないわけではない。
マルグリットのそんな意図に気付けたのは幸いだろう、レイフォンはぐっとこらえた様に口を噤んで俯いた。
国王はもはやこれまでとばかりに怒りと悲しみに肩を震わせながら、玉座から立ち上がる。
「レイフォン・エルズ・ヴァルモント! 貴様にもはや王太子の資格はない! これより王籍を剥奪し、北塔にて終生、己が罪を悔い改めることを命ずる!」
国王の裁定が下された。それは一人の王族の破滅を意味する。まあといっても本当の意味での終身刑かどうかは国王次第なのだが。
ともかくも華やかだったパーティはこうして、歴史に残る断罪の舞台として静かにその幕を下ろしたのだった。
◆
卒業パーティでの劇的な事件から数週間が過ぎた。王都は依然として元王太子のスキャンダルの話題で持ちきりだったが、当事者である二人の令嬢の周りにはようやく穏やかな日常が戻りつつあった。
その日、マルグリットとアリシアはクライネルト公爵家の広大な庭園に設えられたガゼボで、二人きりのティータイムを楽しんでいた。テーブルの上には香り高い紅茶と焼きたてのスコーン。柔らかな春の日差しが彼女たちの顔を優しく照らしている。
「本当に夢のようでしたわ」
アリシアがカップを置きながら、ぽつりと言った。
「あのパーティでのことですか?」
マルグリットが尋ねると、アリシアはこくりと頷いた。
「ええ。あの時のマルグリット様はまるで、物語に出てくる騎士様の様でした。でも公明正大であるだけでなく、その、迫力もあってとても格好良かったです」
その言葉にマルグリットは思わず吹き出してしまった。
「まあ、騎士だなんて。柄にもありませんわ。それにあなたも決してか弱いお姫様などではなかった。最後にはご自分の言葉で、見事にあの男を打ち負かしたではございませんか」
「それはあなたがそばにいてくださったからです」
アリシアは熱っぽい瞳でマルグリットを見つめた。そのまっすぐな視線にマルグリットは少しだけ居心地の悪さを感じて、わざと明るい声で話題を変えた。
「さて。これからのことを考えなくてはなりませんわね。学園も卒業してしまいましたし」
「そうですわね。マルグリット様はこれからどうなさるおつもり?」
「さあ、どうしましょうか」
マルグリットは空を仰ぎながら、少し考える素振りを見せた。そして、悪戯っぽく微笑んだ。
「いっそのこと貴族なんて窮屈な身分は捨てて、市井に降りてみようかしら。パン屋さんか、お花屋さんでも開いて。そうすれば、もっと自由で素敵な恋が見つかるかもしれませんわ」
それはほんの冗談のつもりだった。いつものようにアリシアが「まあ、大変」とでも言って、可笑しそうに笑うだろうと思っていた。
しかし──
アリシアの顔から、さっと血の気が引いた。そして次の瞬間、ガタッと音を立てて立ち上がると、信じられないような力でマルグリットの手を掴んだのだ。
「だめです」
アリシアの低い声には、公爵家に連なる者としての圧がある。
「どこにも行かないでください」
「ア、アリシア様……?」
マルグリットは彼女のあまりの剣幕にたじろいだ。掴まれた手首がきりきりと痛む。
「わたくしが王都に屋敷を用意します。最高級の家具も、ドレスも、宝石も、あなたが望むものは何でも差し上げます。ですから……ですから、お願いです。ずっと、わたくしのそばにいてください」
アリシアは懇願するように言った。その瞳の奥を覗き込んだマルグリットは息を呑んだ。
瞳に宿る光は友情や親愛といった穏やかな光ではなかった。もっと激しく、もっと深く、そしてどこか歪んだ爛々と燃え盛る炎のようなものが渦巻いている。
(……これは)
恋は戦争。
けれど、目の前にいる美しい少女が自分に向けているこの熱く、重苦しい感情は果たして何と呼べばいいのだろうか。
一つの戦争は確かに終わった。しかし新たな戦争の火蓋が切って落とされたのかもしれない。
ギラギラとしたアリシアの目を見つめながら、マルグリットはひきつった笑みを浮かべるしかなかった。
(了)