夫にアレを奪われた
『これは契約結婚だ。君を愛することはないだろう』
初夜に、夫からそう告げられたのは一年前のことだった。
私たちの結婚には愛がなかった。それは貴族同士の婚姻では珍しいことではない。
私の夫、カミル・リーベナウ侯爵は、若くして家を継いだ。
妻がいなければ体裁が悪いという理由で、家柄のよいヴァルトハイム伯爵家の次女である私、エーファが彼の妻となった。
整った顔立ちに、すらりと高い背丈。銀の髪に太陽のような金色の瞳。
そんな美しい彼を見て、最初は少し期待してしまった。
こんなに素敵な人の妻になれるなら、たとえ契約結婚でも悪くないかもしれない。
……そう思っていたのに。
あの夜、緊張しながら迎えた初夜で冷たく言われた言葉に、私は結婚生活に期待するのをやめた。
それでも私たちは、毎晩同じ寝室で、同じベッドで眠っている。
広すぎるそのベッドで、彼と身体が触れ合うことなど一度もないけれど。
でも――。
私には、どうしても我慢ならないことがある。
今夜もまた、夫に毛布を奪われたのだ。
「……どうして自分の毛布があるのに、私の毛布を取っていくのかしら」
そう、彼はなぜか、自分の毛布があるにもかかわらず、私の毛布を引っ張り、そして奪ってしまう。
その度、私は寒さに震えて目を覚ます。
奪い返そうとしても、寝ているくせに妙に力が強くて、彼は毛布を手放そうとしない。
だから、私は決めた。
この人と一緒に寝るのは、もうやめる。
*
「――もう僕と一緒に寝ないって、どういうことだ!?」
出張から戻ってきたカミル様は、寝室を見て何かを察したのか、転がるようにしてティータイム中の私のもとへやってきた。
そんなに慌てることかしら、と私は内心で首を傾げる。
彼がいない間、私は使用人に頼んで寝室を別にしてもらっていた。
この一週間の、なんと快適だったことか。
自由に寝返りを打てるし、毛布を奪われることもない。
ぐっすり眠れたのなんて、いつぶりだろう。どうして今まで我慢していたのか、不思議なくらいだ。
「どうもこうもありません。そもそもよく考えたら、私たちが今までずっと一緒に寝ていた理由がわかりません」
「そ、それは……僕たちは夫婦なのだから、当然だろう!」
「白い結婚の夫婦には、必要ありませんよね?」
「……っ」
意外だったのは、彼が本気で困った顔をしていることだった。
そんなに使用人の目が気になるのだろうか。
けれど、私たちの関係に愛がないことなど、屋敷中の誰もが知っているはずだ。今更取り繕う意味なんてない。
「……何がそんなに不満だったんだ。僕は君に手を出したことは一度もない。君が嫌がるようなことをしたつもりはないぞ?」
探るような目で私を見つめながら、彼がぽつりとそう言う。
私は一つ、溜め息をついた。
「自覚がないのでしょうね。あなたはいつも、ぐーぐー寝ていますものね」
「!? そ、それは……疲れているんだ……夜は寝るだろう……」
確かに、彼が忙しいのは知っている。
若くして侯爵を継ぎ、この一年、仕事に慣れようと、そして誰からも舐められないよう、必死だったのだろう。
でも。
「あなたは毎晩、私の毛布を奪っていくのです。自分の毛布がちゃんとあるのに! おかげで私は、何度風邪を引きかけたことか」
「……えっ?」
彼の目が見開かれる。
「そんなことで?」とでも言いたげなその反応に、じわりと怒りが湧いてくる。
でも、私にとっては些細なことではないのだ。
この一年、ずっとそれを我慢してきたのだから。
実際、何度か軽い風邪を引いたことがあったし、寒くて夜中に目を覚ましている。
……もう、本当に勘弁してほしい。
「そういうわけですので、あなたとはもう一緒に寝ません」
これは契約結婚。彼が私を愛することはないし、私もそれで構わない。
だから、何も問題ない。
彼が侯爵として地盤を固めた後は、白い結婚のまま静かに離婚する予定なのだから。
本当に、どうして今まで一緒に寝ることにこだわっていたのか、わからない。
「これであなたも、のびのびと寝られますよ。毛布も好きなだけ独り占めしてください」
「いや……、それは……」
にこりと笑顔で告げた私に、彼はやっぱり歯切れが悪い。
もしかすると、男のプライドというやつが邪魔をしているのだろうか。彼はまだ二十一歳。
まったく、若くして侯爵になった男は大変ね。
「では、話は以上ですね。私は失礼します」
これ以上話しても仕方がないと思い、私は椅子から立ち上がった。
けれど、そのとき。
「……待ってくれ!!」
突然、彼が私の腕を掴んだ。
切羽詰まったような、必死な声だった。
「……何か?」
「…………すまなかった」
「はい?」
小さな声で、俯きがちに、彼は言った。
「君の毛布を奪っていたなんて……知らなかったんだ」
「……はあ」
申し訳なさそうに視線を落としながら謝られても、正直反応に困る。
「別に謝罪はいりませんよ。もう寝室を分けたので、解決しています」
「でも……、君に寒い思いをさせていたなんて……本当に、すまなかった」
「ですから、もういいんですって」
プライドの高い彼が、ただの契約妻にこんなふうに謝罪するなんて、意外だ。
けれど私は、謝ってほしかったわけじゃない。
ただ、自分の睡眠と健康を守りたかっただけ。もう一緒に寝なければ済む話で、それはもう解決したのだ。
これは相談ではなく、報告だった。
だというのに、なぜか彼はいつまで経っても私の手を離してくれない。
「あの、カミル様?」
「……僕は、君と寝室を分けるのは…………嫌だ」
「…………はい?」
なんて? 今、なんて言ったの?
「すまない!! これからは毛布をもっと用意する! もし僕が君の毛布を奪ったら、僕を引っ叩いて起こしてくれ! だからどうか……これからも一緒に寝てほしい!!」
「…………」
私は今、いったい何を頼まれているのだろう?
あまりに真剣で、必死なその姿に、ただ戸惑ってしまう。
「あの……なぜそこまでして私と一緒に寝たいのでしょう?」
静かに問いかけると、彼はわずかに視線を逸らしながら答える。
「それは……僕たちは、夫婦だから……」
「でも、夫婦らしいことなんて、何一つしていませんよね?」
「……それはそうだが……それでも僕は、君と一緒に……いたいんだ」
最後の言葉は、かすれてよく聞き取れないくらい小さな声だったけれど。
確かに彼はそう言った。
「でもカミル様、私のことは〝愛さない〟って」
「そのことも、謝りたい。僕は、君のことを誤解していたんだ」
我がヴァルトハイム伯爵家は四人姉妹で、それぞれに個性が強い。
中でも私の双子の妹、イーファは、社交界で派手に振る舞い、若い貴族男性たちと華やかに遊びまくっている。
顔も名前も似ているから、時々私と妹を間違えられることもあったけど……もしかして、カミル様も妹の噂を私と勘違いしていたのかもしれない。
「姉妹の中で一番まともだから、父が私をカミル様の結婚相手に選んだんですよ」
「そうだな……そうなのだが……当時の僕は侯爵になりたてで、余裕がなくて……」
彼は少し自嘲するように笑って続けた。
「こんなのは言い訳だな、本当にすまなかった」
そう言ってもう一度頭を下げる彼の姿に、私は思わずくすりと笑ってしまう。
「まぁ、そんなに寝室を分けるのが嫌なら……戻してもいいですよ」
「本当か!?」
「ええ。でも、もしまた私の毛布を奪ったら……容赦なく叩き起こしますからね?」
「……もちろん。そのときは素直に謝るよ」
「まあ」
彼は安堵したように、大きく息を吐いた。そして小さく、嬉しそうにつぶやく。
「よかった……」
その顔が、どこか子供のように素直で、思わず胸があたたかくなる。
「……それに、私も」
「ん?」
「あなたのこと、全然知らなかったみたいですから」
まさか彼に、こんな不器用で素直な一面があるなんて思わなかった。
いつも余裕のない、怖い顔で、仕事ばかりしているから。
「これからは少しずつ……あなたのことを知っていきたいと思います」
「……エーファ」
名前を呼ばれて、ふわりと胸がくすぐったくなる。
こんなふうに穏やかに話せるのなら、もっと早く伝え合っていればよかったのかもしれない。
私も少し、我慢しすぎていたようね。
そう思ったとき、彼がぽつりと、けれど真剣な顔で言った。
「もし寒かったら……僕にくっついてきても、いい……んだぞ?」
「……それは考えておきます」
「そ、そうか……そうだな……!」
耳まで赤くしながらそう言う彼を見て、私はそっと微笑んだ。
――今夜は、あたたかく眠れそうだ。
お読みいただきありがとうございます!
母が「父に布団を奪われて風邪引きそう」とぼやいていたので、私が昇華しておきました(ง •̀_•́)ง笑
暑くなってきましたがエアコンつけててもタオルケットなどをかけて寝ましょうね⸜( ◜࿁◝ )⸝
7/5追記↓
感想ありがとうございます!
この2人エーファとカミルが出てくる作品、ついにシリーズ化しました\(^o^)/
『都合のいい契約妻は終了です』
https://ncode.syosetu.com/n2376ks/
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