マイラ・グランヴィルは匂わせる3
セイロが本気で逃げの一手に打てば、いくらマイラ・グランヴィルといえど追い着くことは不可能だった。身体を鍛えていようとも相手は己の身一つで様々な死線を潜り抜けてきた本物の実力者だ。
「まぁ、種は蒔いたから大丈夫でしょう」
しかしこうも掌で転がすように摩耗していく男を見るのは、何とも言えない気分になる。
(本当、こちらの狙い通りに自分自身への疑心暗鬼に陥るなんて、真っ直ぐで真面目な人なのね)
まず、あの男がフィデスの護衛に就く、ということ自体は疑問でも何でもなかった。はっきりいえば時間問題だったのだが、予想以上に早くその時が来たので慌てたのは本音だ。その後にフィデスがセイロの身体を心配して料理を作る、という話になった時も意外だったが、その時にマイラは元々描いていた計画を取りやめて新しく作戦を練り直したのだ。
セイロが与えられている情報は聖女であるフィデス・サンクが他国の者により狙われていること。そして不確定な人数から彼女を護るように言われていること。マイラ・グランヴィルについては何も知らない様子だったのは、マイラにとって都合が良かった。やや本音も入っていたが、セイロに対して自分のイメージを簡単に与えることが可能だったからだ。仮にマイラが貴族の令嬢ではなく厳つい男だったならばセイロとしても決して油断をしなかったことだろう。
セイロが最小限の情報しか与えられていなかったのは、恐らく彼の出身が故にだろう。彼を雇ったと思しきアズヴァルドはセイロの実力こそ信じていたが、やはりかつて貴族を殺して回った犯罪者ということで、何があってもいいように与える情報を制限していた。またはセイロに余計な情報を与えて行動が鈍ることを畏れてのことだったかもしれないが、マイラにとってはどちらでも構わない。要はセイロという男が必要最小限の情報しか持っていなかったため『新しい情報に飢えていた』ということなのだから。
(だからマイラという人物の印象を与え、フィデスには自由に料理を作らせた。彼は不幸な出身と長い牢獄で停止していた情報という欲を与え、フィデスに依存させることに成功した)
フィデス自身は何も知らず、ただセイロに美味しいものを食べさせたい一心からの行動だっただろう。しかしそれはセイロがかつて出会い、自首にまで至らせることになった『白髪の少女』を思い起こさせることになる。
(そして今までまともな食事をしていなかったセイロは、ちゃんとした栄養を得て頭を回し始める)
かつて出会った白髪の少女とフィデスが重なりだし、そして彼女を狙う曲者が絶え間なく襲ってくるという状況下でセイロが考えるのは一体何か。
(今まで思考停止して考えてこなかった『悪役の抹殺』について、本当に正しいのかどうか考える余白――というかエネルギーができる。殺すのを止めたきっかけになった少女に重なるフィデスを守るため、一体何人の人間を殺してきたことやら)
栄養が足りないままのセイロならばそこまで考えず、淡々と仕事をこなしていただろう。だが彼は勉学こそしてこなかったものの、元々頭の切れる男だ。そういう余裕ができてしまえば必ず気付くとマイラは信じていた。
――自身の行っている矛盾というものについて。
その矛盾は確実にセイロの心を蝕むだろう。彼がマシーンのように心を冷やしていたのならば、正直マイラ・グランヴィルとてつけいる隙はほぼなかったに違いない。だからこそ本来は綿密な計画が必要だったのだが、それを実行する必要がないほどセイロには大きな隙ができていた。ならば生前知り得ていた知識を以て追い込むだけでいいだろう。
「おめでとう、セイロ。あなたはただの野生動物から立派な人間に成れたわね」
僅かに小さな声でそう呟き、マイラは嘆息する。
「さて、こんな森の中に入ってきちゃったけど、汚れぐらいは取っておかないといけないわね」
マイラは最小限の魔力を用いて、魔術の構想を練る。そして口に出すことでその効果を発揮する。
「赤き血よ、我が身から離れよ」
マイラの服に付いた紅い液体が、まるで意思を持つかのように離れて空中を漂う。マイラの服には血一滴すらすでに付いていない。
(うーん、でも四回よ。四回も刺されてあんだけ動けるとは思わないじゃない。これだけは誤算だったなぁ。あのフィリップですら一刺しで動けなくなったのに)
もっともフィリップスの時は刺した直後に内臓をかき回し、さらに刃を上に押し上げたというダメ押しがあったからこその即死だった。今回は内臓にこそ届いているものの、そこまで念入りに刺し回したわけではない。
(とりあえずこの血はどうしようかしら。エドアルドの時みたいに井戸はないし夜中じゃないから湖に沈めることもできない。とはいっても血液鑑定が進んでいる世界でもないし、それに森の中はセイロが殺し回った人達の血液がそこかしこにあるから……まぁ、それに紛れさせておけば問題ないか)
集めた血液を適当にそこらへ撒いておく。
(気付かれなかったらそれで良し。気付かれたとしても問題なんてないものね)
だが、それでもマイラは考えることを止めるつもりはない。
(考えを止めた時、それは確実に油断となるもの)
それでも死にかけている人間を前にして口を開いてしまう高揚感は、なかなか抑え切れそうにもなかった。マイラ自身これが自分の弱点だと理解していてもだ。圧倒的に有利な立場にあるとよく喋るようになるキャラクターが創作物に出てくるものだが、恐らくこういう気分なのだろう。
(いつかうっかり致命傷になりそうで怖いわね……)
この懸念はすぐに克服すべきではあったが、やや悪い癖になっているのが困りものだった。




