マイラ・グランヴィルが幸せになるために1
悪役令嬢とは。
女性向けゲームに登場する、主人公のライバル的ポジションのキャラクターのことではあるが、その名の示すとおり主人公に対して悪辣な妨害を仕掛けるパターンが非常に多い。この場合高貴な身分の女性であることから『悪役』の名を冠した貴族の令嬢となる。
――彼女が生前十年以上もプレイし続けたそのゲームもまた悪役令嬢が出てくるし、何だったら彼女はそのキャラクター一筋でずっと推していた。それこそ死する時まで、そのキャラクターのことばかり考えていた。ずっと、ずっと、ずっと……
自分の顔を自覚したのは、生まれてからしばらく経ってからだった。
というよりも生まれた直後は頭がぼんやりとして意識がはっきりせず、これはきっと脳と目がそこまで成長していないからに違いない、という考えに至るまでに数日。割と短期間でそう思えたのも恐らくは赤ん坊特有のすさまじい成長速度のおかげであり、それまではまるで身体とそこに入っている魂が別々であるという奇妙な感覚しかなかったのだ。
だから目が見え、頭がはっきりとしてきて、この顔がおおよそ『何者』かが判別するまでにさらに数年の月日を必要とした。自分の周りにはいつも誰かが控えていて、恐らくこの肉体本来が持っている自己意識を潰してまで『自分』という他者の意識が乗っ取っていなければ、この家の規模と仕える人間の数に不信感を抱かす済んだことであろう。忙しく動く人間が絶えない屋敷は、そう、いわゆる貴族とか豪族とか言われる、普通よりも遙かに格上の家系ではないか。または商売によってそれらの地位を手に入れた成金か。
(どちらでも構わないけれど、そんなことをまだ生まれて二歳か三歳程度の私に話すなんてことはない)
何かを聞こうとしても、確かに言葉を出すことは出せるのだが、どこかおぼつかない口調で頼りない。しかも懸命に意思を伝えようとすると同じ単語を繰り返しで口から出すことになるため、どうしたって赤ちゃん言葉にしか受け止めてもらえないのだ。
人の言葉は理解できるのに、自分の言葉は理解してもらえないもどかしさ。
しかし自分が知っている言語とはまた別種の、そもそも自国の言葉どころかかつて授業で習った英語ともまるで違う文脈、単語……あるいは自分が知らないだけでそういう国があるのかもしれないと思いつつ、乳幼児の柔らかい頭は『恐らくは前世であろう』記憶を思い出したとしても柔軟に大人達の――親の言葉をするすると覚えていった。聞き覚えのない単語ならばただの音とさして変わらないが、相手の表情や仕草、あるいはおもちゃらしきものを差しながら語る言葉で朧気ながらも意味を理解していく。
(あー、他にできることないから、どんどん覚えていくんだー)
最初は身体の感覚すら怪しかったのに、三歳となった今はすっかり発音も良くなり、喋ること自体は苦にならなくなっていた。自分の名前も何度も呼ばれたからかすっかり覚えてしまっている。
(マイラ……マイラ・グランヴィル、それが私の名前……さすがに初めて聞いた時は耳を疑ったわ)
よく知っている名前だったからこそ、驚きを隠せなかった。名前を耳にした時はまだ赤ん坊だったこともあり、驚きがそのまま泣き声となってしまったが。
――マイラ・グランヴィル。
偶然かどうかは分からないものの、それは前世でプレイしたとあるゲームの登場キャラクターだ。その時流行だった悪役令嬢の出てくる乙女ゲームであり、転生しても忘れることのない名前。そのゲームの悪役令嬢こそがマイラ・グランヴィルである。
(絶対に忘れない)
あのゲームは自分の青春そのものだったといっていい。いや、人生そのものだ。確かに主人公達へ言い逃れができないレベルで悪事を働いたマイラ・グランヴィルだったが、その心境を思えばこそ決してただの悪役としては描かれていなかったのだ。
むしろほぼ後半部分は彼女への糾弾が酷く、見ていられないシーンも多くあったほどだ。ゲームをプレイしながらマイラ・グランヴィルに同情をして、ここまでしなくてもいいだろう、もう彼女は十分に罪を償ったと何度涙したことか。
それでも数多くのエンディングにおいて、彼女は自殺か――殺されてしまうことになる。
だからこそ『あんな殺され方は嫌だ』と思うのも仕方ないといえる。
(そう、あんな『殺される』のは嫌だ。あり得ない。だって推しよ。推しが殺されるなんてあり得なくない?)
とはいえ、名前が似てるだけで自分が推しに転生したと思われるこの世界が果たして十数年とプレイしてきたゲームと一緒だと断言するのは、さすがに短慮が過ぎるだろう。
(まだ自分の顔を見るだけでは分からない、か)
幼すぎる自分の顔。濃く黒く深みを感じさせるワインレッドの髪と蒼の瞳はゲームに登場したマイラ・グランヴィルと同じだが、顔つきはまだまだ違う。とはいえ三歳の子供へ着せるにしては――ゲームでは――悪役だが令嬢らしい立派な身なりだが、この家に生まれたからには慣れるしかないので気にしないでいる。そんな自分を姿見鏡で確認しながら、顔をもにゅもにゅと両手で揉んだ。
(まさかゲームの中に転生なんて、現実問題として非現実的というか)
両親もまた母親が赤く美しい長髪であり、父親が黒くまとまった髪であることから、ちょうど足して二で割ったような色をしている。両親は優しく良い人達だと、子供目線ではそう感じるものの――
(子供に悪い姿なんて『まだ』見せないわよね)
しかも自分が第一子とのことなので、なおさら大事にされているようでもある。
(文明としては近代辺りなんでしょうね。何度か外の様子も見せられたけど、馬車が走ってたし。中世……は古すぎる。転生前の歴史の授業を思い出すと……ヨーロッパの十九世紀ぐらいかしら。いえ、もっと前かも)
まさにゲームでも似たような時代だった覚えがあるものの、あちらは完全なファンタジーだ。この現実とは比べるべくもない――筈なのだが、髪の毛と目の色、目つきと名前はゲームのマイラそっくりになってきているような気がしてならない。
そう思いながら過ごすこと数年。
その日も姿見の前で自分の頬を揉む。
――似てきている。とても似てきている。成長すればするほど推しの姿へと近付いていく。
「いやいやまさかぁ、それらぜーんぶひっくるめてもさ、自分が推しのキャラになるなんてさー、そんなことあるわけないない」
年齢にして八歳、しっかり喋ることができるようになったマイラは思わずぼやく。
「お嬢様、何かございましたか?」
メイドの耳にぼやき声が届いたみたいで、何事かと声を掛けてくる。それを「何でも無いんです」と誤魔化しながら、なんとなく不安が消えずにいる。
「そうですか、それならいいんですけど」
「ふふ、メイはいつも心配性ね」
彼女は自分より年上だが、それでもまだまだ少女と呼べる年齢だ。この年でここまで落ち着いた雰囲気で、しっかり自分の面倒を見てくれるのだから、元々は良い家の出なのかもしれない。貴族の娘というのは教養があるため、他の家のメイドとして勤めに出すことは何も珍しいことではない。――その場合良縁に恵まれることはない、と早々に判断されているのだが。
「お嬢様がもう少し落ち着いてくだされば、私も安心できるというものです」
マイラと二人きりの時は言いたいことを、何も遠慮せずに言って欲しいとメイドのメイに頼んである。
「もう、これでもレディよ」
「はい、これからもレディとしての勉強を続けなさってくださいませ。少しやんちゃなところもあるみたいですけどね」
恐らくこっそり行っている体術訓練のことを言っているのだろう。屋敷に勤める軍隊上がりの警備兵と仲良くなって、さすがに剣は危ないと言われて教わることこそないものの、彼らが身体を鍛える時の訓練にこっそり参加させてもらっているのだ。さすがに全部についていくことはできないが、少しずつ彼らに追いついていくのは楽しいものがある。
「メイったら、私のお母様みたいだわ」
「あら、そんな光栄なことを仰ってくださるのですか。どちらかといえば姉のほうが年齢的にうれしく思います」
「お姉様ね。うん、それもいいわね」
「あらまぁ」
最初は辿々しかったメイも、何度か話す内にこうしてずいぶんと砕けてくれた。そのメイの言うとおり、まだ自分は幼く、弱い。顔立ちも未来の自分に繋がるようでいて、まだ少しあやふやだ。
(もうちょっと成長しないと判断できない。けれどもし本当に私が推しに転生してるのなら……)
まずは勉強だ。可能な限り習い事の種類を増やして自分の中に知識を蓄えておく。それと念のため肉体的にも自衛する手段を増やしておいたほうがいいだろう。何しろ場合によっては殺されるのだ。自分を守るのは自分しかいない。
「ねぇメイ、本格的な剣術の稽古とかってお父様に頼んだらイケるかしら?」
「貴族のお嬢様はあまり嗜むものではありませんので、難しいかもしれませんねぇ」
「うーん、そっかぁ……」
それでも頼めるだけ頼んでみよう。
駄目なら自己流でもいいので運動能力を高めておくべきだ。――本当に自分がゲームに登場したマイラ・グランヴィルなら今後必須になるはずだから。
そう、生き残るためにも。生き残るための計画を実行するためにも、自身を鍛えるのは必須だった。