九話
薄暗くなってくると縁日の屋台は灯りが灯って活気付いた。醤油が焦げる匂いだったり、風鈴が風に吹かれて鳴る音が人の雑踏に混じっていた。
累は逸れないようにと、姫子と手をつないでくれた。姫子は手汗がでないかちょっと心配した。可愛くないって思われたらどうしよう。
「何か食べる?」
祭りが初めてなので、きょろきょろと屋台を見物していた姫子に累が声をかけた。何か食べる、魅惑の誘いだ。家でも女学校でも買い食いは、はしたない、恥であると教えられてきたので最初の一歩を踏み出すのは勇気が必要だった。
「じゃ…じゃあ、あそこの飴細工」
姫子は金魚の形に成形された宝石のような輝きを放つ飴細工を指さした。累はいいよ、と朗らかに笑って飴細工を買ってくれた。姫子は買い物は家に行商人が来たり、女中が買ってきてくれるものだったので、お金のやり取りを見るのは初めてだった。
「何? そんなに珍しい?」
累はじっと見つめる姫子に笑いながら飴細工を手渡した。
「私、家が厳しくてお祭りに来るの初めてだから…」
「じゃあ、初めての祭りを楽しまないとね」
行ったことがないと馬鹿にされたり、住む世界が違うと距離を置かれるかと思ったが累はそうはならなかった。累は初めて知る楽しみを、羨ましそうに、そして姫子のことなのに自分も嬉しそうだった。この人のこういうところが好きなんだと改めて思った。
姫子は綺麗にできた飴細工を少し勿体無く思ったが、齧り付いた。じゃりじゃりとした飴の食感と砂糖の塊の甘さが舌に痺れるように絡みついて、飲み込んでも喉に張り付くような甘さが残った。
こんな甘い物、歯に悪いからって家ではあまり食べさせてもらえない。姫子は夢中で飴を齧った。食べ終わる頃には口の周りが砂糖でべたべたしていた。その様子を累は微笑ましそうに見ていた。
「口周り、砂糖でべたべただよ」
累が指摘した時に、姫子は初めての買い食いで夢中になってしまったことに気づいた。はしたなくなかっただろうか、累は幻滅しなかっただろうか。
姫子は口元を拭くためにハンカチを探していると、累が「姫子」と名前を呼んだ。「何?」と累の方を向いた時には唇が触れていた。
「うん、甘いね。味見になった、ありがとう」
累は何でもないかのように、唇を舐めた。姫子は顔が真っ赤になった。通行人たちはこんな若い恋人たちの戯れなど気にも留めないだろう。
「る…累」
姫子は自分が真っ赤になって顔に熱が集まっていることがわかった。
「もう、食べたかったなら自分の分も買えばよかったじゃない!」
姫子は軽くぽこぽこと累の胸板を叩いた。恥ずかしくて、照れ隠しで。
「姫子の家、厳しいんでしょ。買い食いとか大丈夫なの? ばれないように口周りの砂糖もっと舐めてあげようか?」
累はこちらを揶揄うように見つめていた。
「ここじゃ嫌」
姫子は目を逸らした。見つめ合っていたら、熱で自分の体が溶けてしまう気がした。神社の鳥居の近くは誰もいなかった。二人は鳥居の陰で啄んで舐めるようなキスを繰り返した。姫子は心の中で、神様ごめんなさいと呟いた。
一瞬だけ、仄暗い想像をした。累が物陰で姫子を押し倒して首を絞めるんじゃないかと。しかし、累はそれをしなかった。お互いの唾液が糸を引くくらい唇を貪り合ったあと、ハンカチで口元を拭って二人は手をつないで祭りの喧騒の中に戻った。
握った手が熱かった。姫子が仄暗い期待を抱いたように、累にもここで姫子を暴く仄暗い欲望が頭を過ったに違いない。でも、彼はそうしなかった。自分の欲に飲み込まれなかった。彼はプラトニックな愛を姫子に証明したいようだから。
射的や輪投げなど様々な遊びに興じ、普段は口にしない駄菓子やかき氷などを食べ歩き、楽しい時間を過ごした。
「ねぇ、あっちの方が盛り上がっているみたい。何かしら」
「行ってみようか」
姫子は累に手を引かれ、人が集まっている天幕の中へと入った。「逸れないようにね」と累が強く姫子の手を握った。姫子は離れないように累に体を寄せた。天幕の中は怪しげな明かりと音楽に包まれていた。
入場料を二人分払って、奥へと進む。中では赤い裸電球の明かりに照らされ、奇形の子供や不気味な剥製、蛇を体に巻きつけた女が、裸足でしなを作りながらあやしげな踊りを踊っていた。
そして司会の男に連れられて、真っ赤な長襦袢を着た高い髷を結った女が虚な顔でやって来た。男は女の襦袢を脱がす、女の体中には見事な刺青が彫られていた。
「我が空蝉座が誇る、刺青女郎です! どうです? なかなか良い体をしているでしょう」
司会の男が観客を笑わせようとおどけた調子で言った。女は客の前で自らの股を開いた。そこには真っ赤な、毒々しい程に美しい緋牡丹の花が彫られていた。
「どうです?見事な彫り物でしょう」
司会の男は自慢げに話す。姫子はただ黙ってそれを見つめているだけだった。
女の股から黄色い液体が流れ出し床を濡らした。どうやら失禁したようだ。
「やぁ! 花から蜜が垂れてきた」
観客達から笑いが起きる。女は恥ずかしそうに俯くと、そそくさと襦袢を着せられ小屋の外へと連れ出されていった。
黙ったまま目を開いている姫子に異変を感じたのか、累が腕を引っ張った。
「ちょっと君には刺激が強すぎたみたいだね」
そうして、天幕から出ると涼しい風が姫子の肺を落ち着かせた。天幕の中のむっとする熱い空気はここにはない。
「ちょっと昔のこと…お父様のこと思い出しちゃった」
「君にとってはトラウマだろう? ごめん、こんな出し物してると知ってたなら…」
累が謝ろうとしたのを姫子は止めた。
「私が見たいっていったもの。謝らないで」
それに以前の姫子は自分の身体を売り物にする女たちを卑しいと思うどころか、憧れすら持っていた。自分を大切にされなかった経験から、自分を愛してくれる人を探して。
「過去は辛いけど、今は辛くないの。累のおかげよ、あなたに出会えてよかった」
姫子は背伸びして、累にキスした。恥ずかしかったから頰にだけど。累は姫子から触れてきたことに驚いたようだが、嬉しそうだった。
「遅くまで連れ回してたら、ご家族に心配かけちゃうね。そろそろ帰ろうか」
「蕎麦の店に、女中が待ってるの。そこまで送って」
帰り道の道中、累はあまり喋らなかった。しかし姫子の手を強く掴んでいて、彼も離れ難く思っているのだとわかった。姫子も強く握り返した。この時間が永遠になればいいのに、と思った。
そんな時間が長くは続かないことを姫子だけが知っている。
******
「そろそろ、社会勉強も充分だろう。祝言の話を先方と進める。それでいいな、姫子」
夕食の席で祖父が酒を飲みながらそう言った。どうやら滝元家、特に辰巳の母から結婚の話を早く進めるようにせっつかれたらしい。
滝元家としては、跡取りの長男が三十路を越えても独り身なのが不安であるらしい。今までは許嫁である姫子が幼すぎるから、結婚してもすぐに子供は難しいだろうと結婚を先延ばしにすることを許してくれていたが、姫子が女学校を卒業した大人になったことでもう待てなくなったらしい。
辰巳の説得や、祖父が頭を下げたことで短い期間だけ社会勉強としての軍病院の勤務はもう辞めてもらいたいそうだ。姫子は早く家庭に入って、子供を産んで欲しいと。祖父の口から、滝元家の意向が伝えられた時、姫子は叫びだしそうだった。吐きそうだったのかもしれない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
心の中だけで留められてよかったのかもしれない。いや、叫び出した方が良かったのか。姫子にはわからない。病院を辞めさせられたら、累にもう会えない。
凍りついた夕食の様子を、離れた所からタエが心配そうに見ていた。
「お祖父様、仕事は楽しいしやっとこれからって時なの。辞めたくない!」
この場でタエだけが姫子の言葉の本当の意味を知っていた。
「もうこれ以上はお前のわがままは通らんぞ」
痺れを切らした祖父が机を拳で叩いた。母が小さく肩を揺らした。祖父は怒りを表すようにわざと大きく足音を立てながら部屋に引っ込んだ。
「姫子、辰巳さんはいい人だし…案外、病院で働くより結婚した方が楽しいかもしれませんよ?」
母は姫子を慰めようと肩に手を置こうと腕を伸ばした。しかし、姫子はその手を振り払った。
「うるさい! 自分の結婚がうまくいかなかったからって私でやり直しをしないで。私の結婚がうまく行ったからってお母様が失敗したことには変わりないのよ!」
思わず、叫んでいた。人生の正解であり幸福は結婚することしかないと信じている、そんな母に酷いことを言った。母にとって女は結婚することでしか幸せになれない。
「姫子…」
母は絶句しているようだった。姫子の名前を呟いた後、何も言わずに固まった。姫子はそんな母を残し、居間を出た。タエが「お嬢様!」と引き止めようとしたが、姫子は無視して家を飛び出した。
夜道の中を走るのはいつもと感覚が違って、深い霧の中を彷徨っている感覚がした。気がつけば、累の長屋の部屋の前まで来ていた。姫子はどうやって自分がここに辿り着いたかわからなかった。
静かに戸を叩く。部屋の灯りはついていたので、まだ累は小さな灯りで医学書を読み耽っていたのだろうか。目が悪くなるとわかっているのに、累は続きが読みたいという思いに勝てないらしかった。
「はい。どちら様?」
奥から物音がして、戸が開いた。累は玄関先に立っていた人物が姫子であることに気づいて驚いたようだった。
「どうしたの、こんな時間に。夜道を歩いて来たの? 危ないよ。とにかく、中に入って」
累の声を聞いたら、涙が溢れて来た。累は何も言わずに抱きしめてくれた。嫌な感じはしなかった。震えだって、過呼吸だって起こらなかった。優しく暖かかった。
累は姫子が泣き止むまで黙って抱きしめると、その後にお茶を淹れてくれた。ちょっと渋かったけれど、姫子のためにしてくれたことが嬉しかった。
「いきなり訪ねてごめんなさい。私、言わなきゃいけないことがあるの」
自分から幕引きにするのはこんなに苦しいんだと初めて知った。
「私、七歳の時から婚約者がいる。その人と結婚しなくちゃならない。病院も辞めさせられると思う。騙していてごめんなさい。あなたの時間、私が貰っちゃってごめんなさい」
姫子に騙されてなければ、累は本当に好きな人を探しにいく時間があったはずだ。婚約者がいる女じゃなくて、真剣に累を好きになってくれる人が。
でも、姫子だって真剣に累が好きだった。彼と過ごした時間は確かに幸せだった。騙していた分際で何を言っても言い訳に聞こえるだろう。姫子は謝罪の後は黙った。累が怒号を浴びせてくるのを待った。罵られるのを覚悟した。打たれることだって。しかし、累は其のどれもしなかった。
「うん。知ってた」
累は静かにそう言った。
「え、知ってた…?」
姫子は驚いて累を見た。彼の顔には怒りは滲んでいなかった。ただ切なそうな顔をしていた。
「少し前に、滝元辰巳さんという軍人が僕に会いにきた。姫子は婚約者だから、身を引くようにって手切れ金も渡された。お金は断ったけど」
辰巳が累に接触していたなんて知らなかった。それどころか、累との関係がばれていたことも。そういえば、最近は辰巳が栗花落家を訪ねることが少なくなっていた。仕事や恋人に会いに行くのに忙しいと思って気にしないでいたが、もしかしたら姫子と累の関係に気付き調査していたのかもしれない。
「いつか、君を辰巳さんに返さなきゃって思ってた。でも、この幸せを手放すのが怖くて君から言われるまで黙ってた。謝らなきゃいけないのは僕もだよ。ごめんね、君のこと好きになっちゃいけなかったのに」
累が謝ることは何もなかった。好きになったのは姫子の方からだし、何度も好きだ好きだと告白して半ば強引にしたことで累が折れてくれた形だった。婚約者がいる身でありながら、他に恋人を作った姫子が悪いと、祖父も母も辰巳も、世間だって姫子を非難するだろう。
辰巳に他に恋人がいることは非難されないのに、姫子に恋人がいることは非難される。その理不尽さに怒りはあるが、今は累を結果的には騙していた罪悪感が強い。
姫子は今のことだけしか考えていなかった。未来のことを意図的に考えないようにしていた。辰巳との婚約をどうにかしなければ、何も解放されないのに。姫子は累とどうなりたかったのだろう、どこへ向かいたかったのだろう。
「君のこと、もう引き返せないくらい好きだ。どれだけ離れていようとも、僕の心は君にある。忘れないで」
「まだ私のこと好きなの? 騙してたのよ。馬鹿じゃないの」
累の告白は嬉しかった。でも、突き放さなきゃいけない姫子は心を鬼にした。胸が軋む。胸が痛い。こんなこと、本当は言いたくないのに。
姫子は何処かここではない遠くに行きたかった。誰も知っている人がいない、自由な異国へ。その願望の中に、累と一緒に行けたら…という叶わないものが加わった。
累と一緒にいれるなら、何だってする。知らない異国の中でもいい。毎日、タエみたいに内職をしなければならなくなってもいい。昔に父にやられたみたいに、打たれたり体を縛られたりする、体を売ることになってもいい。
「家に帰った方がいいよ。家族が心配してるんじゃない?」
累は優しく言った。帰るように諭されたことにより、寂しさが溢れた。
「帰りたくない。一緒にいたい。私、結婚したくない。……子供は欲しくないの」
今まで蓋をして来た声なき叫びが、飛び出した。
「お菓子をあげるから、黙っていろと言われたの。お母様の体が弱いから私がお母様の代わりをしなくちゃならなかったの。暗い蔵の中に連れて行かれて、服を脱がされて首を絞められて縄で縛られて、色々された。毎日、毎日、毎日…」
累が息を呑んだ音が聞こえた。
「お父様は、私を愛しているからしたことだっていったの。愛しているから、これは酷いことじゃないんだって。お母様や他の人にばれたら、私は愛されなくなるって。孤独になるって…」
ひゅーひゅーと喉の奥が鳴り始めた。
「気持ち悪いの、この体が! 汚いの、もう嫌なの! 私は子供は欲しくないの。でも結婚したら、子供を産まなきゃいけない。周りから期待されるし、辰巳さんは跡取りだし。でも、私は子供は嫌なの、気持ち悪いの! 辰巳さんは他に恋人がいるからその人に生んで貰えばいい。私は石女だって罵られてもいいから、子供は欲しくないの」
涙が溢れた。色々なものが込み上げてきて、ぐちゃぐちゃだった。