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八話

 「お嬢様、今日も私が言い訳考えておきますから楽しんできてくださいね」


 タエと買い物にいくと言って家を出た後、るいの住む長屋がある区画の近くまで来るとタエは自分から去って行ってくれる。姫子ひめこの相手が何処に住んでいるか、何をしているかなどを深く探ろうとはしない。

 といっても、姫子の行動範囲は狭いのでタエだって相手が病院関係者じゃないかなんて薄々勘づいているはずだ。


 「ありがとう、タエ」


 そう言って姫子はタエに金を握らせた。これは口止め料という意味もあるが、タエはこの金でいかにも姫子とタエが街で買い物をしてきたとわかるような品物を買っておいてくれる。そうして、祖父や母からの疑いの目を逸らすことができる。

 姫子としては余った金でタエがちょっとした贅沢でもしたらいいのにと思うが、彼女は余った金を臨時収入と見做し実家に送ってしまう。

 

 「最近、姫子はタエと一緒にお出かけするのが好きねぇ」


 母が何気なしに言った言葉に姫子はひやりとしたことを思い出した。冷静を装って返事をした。


 「タエとは一番の仲良しだもの!」


 そういうと母は嬉しそうな顔をした。母は最近の姫子が幸せに溢れていることを何となく察しているのかもしれない。それが、タエと一緒に出かけたことではなく累と出会ったことによるとは流石に気付いていないだろうけど。


 タエと別れて、姫子の足取りは軽くなる。累の住む長屋は姫子にとって未知の世界の入り口だった。累の部屋に出入りしていると、長屋の近所の奥さんから累の恋人だと思われたことは嬉しかった。姫子は他人から累の恋人に見える自分が嬉しかった。

 辰巳たつみと並んだ姫子はどれだけ許嫁の関係にあると説明しても、歳が離れすぎていると驚かれることから始まるから。


 累は部屋で医学書を読んでいた。姫子が来ると嬉しそうに隣に座るように手招きする。姫子は横に座って累の肩に頭を寄りかからせて本の中を覗いた。


 「甘えたがりの猫みたいだな」


 累はそう言いながらも、姫子を邪険に扱うことはしなかった。それどころか、時折髪を撫でなり指に髪を絡ませて手元で暇つぶしするかのように遊んでいた。


 累が姫子に触れるのはこういった子供のお遊びのような触れ合いだけで、姫子を無理矢理暴こうとはしなかった。彼だって女郎屋育ちなんだから、よく知ってるはずなのに何もしなかった。

 累が姫子に体を求めないことで、安堵して彼を信頼している反面、姫子は彼にとって魅力的に映らないのではないかと不安になる。自傷ではない、本当の愛を彼に感じていた。


 「全部、外国語だわ。読める単語もあるけど、わからない単語が多いわ」


 「少しでも読めるだけですごいよ」


 累はそう言って頭を撫でてくれた。彼の手は暖かい。そして触られた時に産毛が逆立つような嫌な感じがしない。彼は父とは違う。

 姫子は本に視線を落とす、累の横顔を見た。色素が薄いまつ毛が、窓からの光に照らされてきらきらと輝いていた。


 「私、あなたのことが好き」


 口に出してみた。そうしたら言霊になってくれるかもしれない。形のないものを必死にこの世に残したかった。


 「知ってる。熱烈に告白してくれたからね」


 慈愛に満ちた瞳に見つめられ、姫子は赤くなった。そういえば、あんなに巨大で熱烈な思いを一人の人間に抱いたのは初めてだった。今まで姫子は自分勝手だった。誰かに好かれたいと願うのは、昔に父から受けた暴力を愛だと誤認し、自分の首を絞めたりしてくれる人を探していた。


 首を絞められると苦しいが、父は姫子に愛しているといってくれた。累の言葉がなければ今も、姫子はのしかかられて無理矢理首を絞められることこそが最大の愛情表現だと疑わなかっただろう。


 「私、子供っぽい? 私には女の魅力がない?」

 

 姫子は決死の思いで尋ねた。ここで、君は子供っぽいから魅力的には映らない。君が好きだ好きだとしつこいから同情で恋人になっただけ、なんて言われたらどうしようかと震えた。


 「魅力的だと思うけど」


 返ってきた答えは簡単だった。


 「じゃ…じゃあ、なんで私に手を出さないの! 意気地なし、据え膳食わぬは男の恥って知らないの!?」


 姫子は累が読んでいる本を取り上げて、頰を両手で挟むと無理矢理自分の顔の方を向かせた。驚いたような空色の双眸が姫子を見つめていた。


 「君の傷は深いから、抉りたくないんだよ。君は人間関係は肉体関係を結ばないと安定した関係にならないと深く信じている様子があるから。もちろん、肉体関係は恋愛関係において重要かもしれないけど、全てじゃない。でもプラトニックな愛が存在することを君が確かめてからでも関係を結ぶのは遅くないと思わない?」


 「ぷ…ぷらと…?」


 姫子は首を傾げた。累の言い方からして、愛の一種であることはわかる。そしてそれが父みたいに、麻縄で姫子を縛ったりしないものであることは想像がつく。


 「肉体関係がない愛のことだよ」


 優しく累は教えてくれた。累は知識がない姫子を馬鹿にしない。それどころか、新しく知識を与えて「偶然、君がまだ知らなかっただけだよ」と言ってくれる。累はまだまだ知らない知識があって、知っていく喜びが多い人生を幸福だと考える。だから、姫子が知らない知識を知ったとき姫子の感じている知る喜びに思いを馳せて、自分のことのように喜んでくれる。


 「それであなたは満足なの?」


 姫子は恐る恐る尋ねた。今は関係ないはずなのに、なぜか辰巳たつみの姿が浮かんだ。夕暮れの街を、首筋がしっかり見えるように着崩した女と腕を組んで歩く様を。


 「今はこれで意外と満足だよ。未来永劫ってわけではないけれど。肉体関係がなくても、僕は君が好きだし、君も僕が好き。それでいいじゃない」


 本返して、と姫子が取り上げた医学書を累は優しく取り返した。姫子はまた累の肩にもたれかかった。


 「本の虫! 私にもかまってよ」


 累は優しく姫子の頭を撫でてくる。これは彼が少しずつ姫子に歩み寄っているのだとわかる。どこまで触れていいのか距離を押し測るみたいに。


 「一緒に読む? 読めないところは教えるよ」


 「じゃあ、これ何と読むの?」


 姫子が指差した単語は医学用語なのか、姫子は女学校で習ったことがなかった。女学校では日常で使う外国語を学ぶばかりで専門的なものはわからない。


 「頭蓋骨」


 「こっちは?」


 「精神分裂病」


 難しい言葉ばかりが並ぶ。これは何の医学書なのだろうか。姫子だって医学書には種類があることくらい知っている。そうでなければ累の部屋の本棚が一面埋まるくらいの医学書があるわけない。彼はまだまだ収集不足だと思っているようでこれからも増えるだろう。

 この狭い部屋が、本で埋まって累が窒息死してしまわないか心配だ。


 研修医として軍病院に勤務する累は特に戦争帰りの兵士を蝕むものに興味を持っているようだった。戦闘ストレス障害 アルコール依存、記憶障害、嘔吐、飲食障害、不安から来る攻撃行動など。


 その時、またなぜだか辰巳のことを思い出した。そういえばあの人も戦争帰りだった。戦功を立てた凄い少尉さんだって祖父が言っていた。

 あの人も戦闘ストレス障害に悩まされたのだろうか。魘されていたのも戦友の夢を見たからで──慢性的な睡眠障害? いや、もしかしたら愛しい女と交わる夢でも見たんだ。そうに違いない。そう思って姫子は思考に蓋をした。彼を知ることを拒んだ。


 累と一緒にいる時に、辰巳のことを思い出すなんて、申し訳なかった。累は自分と一緒にいる時に他の男のことを考えているなんて気分が良くないだろう。


 夕日が窓から差し込む頃になって、姫子は名残惜しくも累の部屋から出た。長屋が縦並ぶ区画から出てしばらく歩くと、タエと合流する約束をしていた店の前でタエを見つけた。

 タエは腕にしっかり包まれたお菓子と姫子が好みそうな簪を買ってきてくれていた。


 「お嬢様! 楽しめましたか」


 タエはこちらに手を振りながら向かってきた。


 「ありがとうタエ。タエのおかげよ!」


 タエは嬉しそうに微笑んだ。家に帰ると、タエは今日買った金魚が泳いでいるように見える菓子を皆に振る舞った。「お嬢様が選んでくれた」と言って。タエは本当に賢い。即興でお話を作ってしまう。今日もまるで姫子と一緒に買い物を楽しんだかのように話していた。


 今日はタエ以外の女中は、衣替えのために襖や障子を外して簾戸にしたり、畳の上を網代やムシロを敷いたり、座布団も皮やパナマ素材の夏用にしたりと大忙しだったようだ。菓子を振る舞ったのは自分だけ、姫子の買い物に付き添ったことにしていることへの罪滅ぼしと労いを込めたのかもしれない。


 「まぁ、涼しげねぇ」


 母も布団から起き上がって女中たちみんなと菓子を食べた。母の布団も夏用の素材に変わったようだ。


 「姫子」


 母が姫子を見つめて、名前を呼んだ。姫子は何か見透かされたのではないかと心臓が跳ねた。


 「ありがとうね」


 しかし、母が紡いだ次の言葉は感謝であり何もばれていないことに安堵した。




******




 夏の終わりの神社で催される祭りに累から誘われた。しかし、姫子は今まで祭りというものに行ったことがなかった。人が多いから危険だと、家でも女学校でも行くのは禁止だった。祭りの日ばかりはタエと出かけると言っても怪しまれるかもしれない。

 累の存在にまでは辿り着かないだろうけど、姫子がタエと祭りを満喫すると母も祖父も思うかもしれない。


 「どうしよう、タエ。私、お祭り行きたいのに!」


 姫子はタエに泣きついた。タエもうんうんと頭を捻ってどうにか祖父を説得できる材料を考えた。


 「お嬢様ももう立派な大人ですし、恋人さんと一緒にいくなら安全だし、いいと思うんですけどねぇ。私と一緒に行くって誤魔化せばいいだけですしね!」


 「そうなの、そうなのタエ! でもお祖父様ったらまるで言うこと聞いてくれない。お祭りくらいいいじゃない。私だってとっておきの浴衣着たい、出店周りたい」


 「ですよねぇ…」


 祖父の頑固さには姫子も辟易していたし、タエもちょっと驚くほど祖父は過保護だ。その時、女中たち全員に召集がかかった。母が部屋に呼んだのだ。姫子も着いて行った。

 母が着物の整理をするから、要らないものはお下がりであげるというのだ。冬物から夏物まで、女中たちはなかなか無い奥方からのお下がりで喜んだ。


 タエは朝顔柄の浴衣を貰っていた。女中たちは祭りの日はお休みをもらって祭りに行くことができる。しかし、姫子は籠の鳥だ。祭りに行けない。


 女中たちがはしゃいでいる中、姫子だけ不満そうにしているのに気づいたのか母が尋ねた。


 「姫子どうしたの。そんな不満そうな顔をして。あなたには新しい夏物をこの前仕立てたばかりでしょう」


 母は自分の若い娘時代のお古を女中たちに下げ渡してしまうことが、姫子に不満に映ったのだと思ったようだ。


 「せっかく、新しく浴衣を仕立ててもどこにも着ていく場所がないんですもの。そりゃあ、不満な顔にもなるわ」


 姫子の声を聞いて、下げ渡されたお古を大事そうに抱えていたタエが口を開いた。


 「奥様、お嬢様をお祭りに行かせてあげてください。私がしっかり着いていきますから」


 タエと姫子が必死に頼んだが、母は渋い顔をした。


 「でもねぇ、お祭りは暗くなってから始まるでしょう? それにお父様が許しはしませんよ」


 母は不安そうに姫子を見た。


 「私ももう立派な大人だわ。あまり遅くならないようにする」


 母はしばらく考えたようだが、いつも頑張って働いてくれる可哀想なタエと、外で仕事をしている姫子にご褒美をあげてもいいと考えたようだ。


 「では、私が何とか誤魔化しますからあまり遅くならない内に帰ってくるのですよ」


 そう言って母は姫子とタエに出店で何か買えるようにお金を握らせた。ただし、買っていいのは物だけで買い食いははしたないので食べ物は買わないようにと厳しく言いつけた。母は甘い。食べ物なんて消え物なんだから腹の中に収めて仕舞えばばれないのに。


 そうして、姫子は累と祭りに行くことができるようになった。祭り当日は夕方にタエと一緒に家を出て、累との約束の場所の近くになると、別れた。タエは暗くなったら店の中で姫子を待つそうだ。


 待ち合わせ場所に、累はもう来ていた。姫子は駆け寄って、飛びつきたいのを我慢した。


 「累! お待たせ」


 「そんなに待ってないよ」


 累の浴衣姿は彼の異国情緒溢れる外見と相まって少しちぐはぐに見えるかと思ったが、意外とに会っていた。累は懐から翡翠の珠がきらりと光る簪を取り出して姫子のまとめ髪に差した。


 「あげる」


 累は優しく微笑んで、簪が似合ってるというような顔をした。累から何か贈り物をされるのは初めてだった。お金があれば医学書を買いたいという人だから。累が姫子に贈り物をしてくれるなんて思っていなかった。しかし、すごく嬉しい。


 「ありがとう、累」


 姫子はそっと簪に触れた。他の何よりも、この簪が宝物になる予感がした。

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