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七話

 ある日、また新しく研修医が来た。変わった容姿をしていた。色素の薄い髪と瞳。彼は星野ほしのるいと自己紹介した。それを聞いていた看護婦や見習いたちが少し頬を赤らめたのを見た。

 

 間の子だの何だの言っていたが、その美しさに看護婦たちは自分たちがのぼせ上がっていることにも気づけていないらしい。


 姫子はその珍しい容姿の彼を、自分の崇拝者の一人に加えようと思った。やることは簡単だ。今までと同じようにすればいい。

 先生が呼んでいると嘘をついて──大丈夫だ、先生は姫子の言いなりだからあとで話を合わせてくれる──累を呼び出した。彼は何の疑いも持たずに姫子についてきた。意外と可愛いところがあるじゃない、と姫子は微笑んだ。薄く色付けされた空色の硝子珠のような瞳は悪くない。

 飲み込まれてしまいそうな不思議な感覚がする。姫子も周りの人も黒い瞳か、茶色の瞳しか持っていないから彼の瞳の色は新鮮だった。


 リネン類の棚が置かれている倉庫に彼と一緒に入った。そっと鍵を閉める。そこでようやく、累は何かに気がついたのか姫子の方に振り返った。来たばかりでまだ病棟の構造を把握していなかったから気づくのが遅れたのだろう。


 「院長先生が、こんなところに僕を呼んでるって嘘ですよね」


 色素の薄い瞳で彼は姫子を射抜いた。少し怒りが滲んでいるが、なぜ姫子が騙すような真似をしたのか疑問の方が大きいのだろう。


 「そんなこと、すぐどうでもよくなりますよ」


 姫子は真っ直ぐに累を見つめ返した。姫子が服を脱げば男たちは唾を飲み込まずにはいられないからだ。そして非現実な状況を現実だと飲み込むと、狂った歯車のように止まらなくなる。欲とは単純なものだ。


 姫子はするりと服を脱いだ。ぱさり、と軽い音を立てて白い制服が床に落ちる。ゆっくり累に近づいて体をしならせて彼の頰に触れた。驚いたような目が姫子を見つめた。


 「……あの、やめてくれませんか」


 累は冷静にそう言って、近くの棚からシーツを取り出すと姫子の体が見えないように隠した。


 「どうして? 私に魅力がない? 私を見て、めちゃくちゃにしたいって思わないの?」


 姫子はシーツで雪だるまみたいにされながらも、尋ねた。しかし、累は哀れなものを見るような目で姫子を見てきた。


 「自分の身体、大切にした方がいい。安売りしては駄目だよ」


 星野累は、今までの男たちとは違うと姫子は直感した。男とは欲に支配された怪物かと思っていたが、彼は違った。そんなことを言ってくれる人は初めてだった。手の届かない宝石のようで、なおさら欲しくなった。


 「ここで叫ぶわよ、あなたに乱暴されたって!」


 早くこの男が、姫子を押し倒して首を絞めてくれればいいと思った。


 「君が噂の院長先生の愛人でしょ。他の男を食い散らかしてるって知られたらまずいのはそっちじゃない?」


 「先生は私の味方よ。私が何してようが、あの人は文句言えないわ」


 姫子は累に被せられた、シーツを振り解こうとしたが先程の累の身体の安売りという言葉が引っかかって手が震えた。


 「震えてる。本当は乱暴されたいとか思ってない。むしろ怖がってる」


 累の言葉が突き刺さる。姫子は震える手を見つめていたら呼吸が荒くなってきた。暗闇が広がる。父が姫子にのしかかってきて、服を脱がせた。母には秘密にしなきゃいけないって言われた。父の手が姫子の肌に触れるのが恐ろしかった。


 怖い、怖い、怖い。嫌だ、嫌だ、嫌だ。でも拒んだら、父は姫子を嫌いになる。愛してもらえなくなる。そうしたら終わりだ。愛してもらうことでしか、姫子は自分を認められない。父の言うことを守れない姫子は悪い子だ。


 身体を差し出すしか、姫子は価値がない。身体の関係を結ぶことでしか人と真の信頼関係を築けない。姫子はパニックを起こして床にしゃがみ込んだ。呼吸がもっと早くなり、ひゅーひゅーと嫌な音が聞こえる。その音が蔵の扉から漏れ出る隙間風の音のようで不快になる。


 身体の弱い母のせいで欲を持て余した。郭遊びをするのも、愛人を囲うのも外聞が悪いとしなかった。栗花落つゆり家から多額の援助を受けていたし、病弱な妻を一途に愛するいい夫でありいい父であると評判だったから。


 姫子が床にうずくまって過呼吸になっていると、累が背中を掠ろうとしてきた。


 「触らないで!」


 姫子は咄嗟に叫んでいた。先程までこの男に肌に触れてもらいたかったというのに。ぴたりと累の手は止まった。


 「ゆっくり呼吸して。大丈夫だから。絶対に収まるから」

 

 累の声に合わせて、意識してゆっくり呼吸をすると過呼吸は収まった。


 「様々な男性と関係を持つのは君の場合、自傷だと思う。自分のこと大切にして」


 そして累は姫子に服を着るように促し、背を向けた。姫子はそれに従うしかなかった。何だか、彼を崇拝者の一人に加えようという思いはもう湧いてこなかった。それどころか、彼に特別なものを感じ始めていた。


 累は姫子を欲の対象として見なかった。そこに信頼感を感じる一方で、自分に魅力がないのではないかと不安になった。だから父も離れて行った。辰巳たつみも裏切った。


 姫子は服を着終わると鍵を開けた。この部屋に男を誘っておいて、何もしないで出るのは初めてだった。


 「あの、ごめんなさい。あなたを陥れようとした」


 姫子は自分のしてきたことが恥ずかしくなった。彼に諭されまで、自分は破廉恥な行為を続けてきて驕り高ぶってきた。姫子が男たちの上に立って言いなりにしているのではなく、ただ都合よく搾取されている。


 次の日から、姫子はすっぱり崇拝者たちを捨てることにした。最後まで縋りついて懇願したのは院長先生だったが、妻子持ちであることを知っていたので「奥様に全部言ってやる」と言えばもう何もしてこなかった。

 

 それからは真面目に働いた。休憩中に男を倉庫かどこかに連れ込んで、傷を埋めるような自傷をしなくなった。元々、手先は器用な方だと思っていたから慣れれば素早く仕事をこなすことができた。


 院長先生の贔屓がなくても、姫子は評価され始めた。見習いの中では一番、丁寧に素早く仕事をすると先輩看護婦からも褒められるようになった。


 「私、気が利くって褒められるのよ。リネン類の消毒も手早くやれるようになったし…」


 「…それをどうして僕に言うの?」


 昼休憩の時間になると姫子は累を探し出して、一緒に弁当を食べる。勝手に姫子が付き纏っているだけとも言うが。


 「褒めて欲しいってわからない?」


 「僕に…?」


 累はただの経験の浅い研修医よりも、その道のベテランである先輩看護婦や医者などに褒めてもらう方がよっぽどいいと考えているようだ。


 「真面目に仕事しているようで何よりだよ。もう自分を傷つけるようなことしないようにね」


 あまり直接褒めているとは思えない言い方に姫子は頬を膨らませた。


 「ところで、どうして昼休憩になると僕にくっついてくるのかな」


 そう言って累は箸で弁当の白米を掴んだ。失礼かもしれないが、彼が綺麗に箸を使えることに驚いた。異国の風貌から、彼が箸を使えるはずがないと勝手に決めつけていたらしい。


 「あなたのお弁当が貧相だから、おかずを分けてあげるためよ」


 姫子は照れ隠しを含めながら、累の弁当の白米の上に卵焼きを乗せた。累の弁当はいつも質素だ。白米と梅干し、漬物が基本で野菜の胡麻和えなどが入っていればいい方だ。


 「弁当にいちいちご馳走を詰め込んでられないんだ。そう言う君はいつも豪華だ」


 「女中たちが作ってくれるわ」


 姫子はそう言って煮物の芋をまた累の弁当に乗せた。累は何も言わずにおかずを食べた。くれるのならもらっておこうという考えらしい。姫子はまた累の弁当に竜田揚げを乗せた。少しの下心があるとすれば、彼が姫子に興味を持って欲しかった。


 「僕にあげてばかりだと君の弁当が無くならないか」

 

 「男の人ってたくさん食べるでしょ。私は少食だからいいの」


 昼休憩の細々とした交流は続いた。そのうち、彼は姫子に親しみを感じ始めたのか、お互いの身の上話をするようになった。

 彼は元々、港町の女郎屋の鳳蝶あげはちょうという遊女を母に持ち父の顔は知らないが異国の船乗りだろうということになった。累の母は相手が何処の国の人かもわからないのに勝手にルイと名付けてしまったらしい。

 累という字は漢字が書けない母に代わって楼主が当て字をつけてくれたらしい。見た目だけでなく名前からも累が苦労することを予想してのことだ。


 女郎が子供を産むことは稀だ。そして生まれても男の子なら、里子に出してしまうのが普通らしいが累は容姿が珍しかったのと幼い頃は女の子に見紛うほどだったらしいから、金になると踏んだ楼主がそのまま見世で禿たちと同じく育てたらしい。


 しかし、累の育った女郎屋は客の火の不始末で燃えて無くなったらしい。その時に、母も火に巻かれて亡くなったそうだ。楼主はそろそろ累を陰間として売り飛ばし、見世の再建の資金に充てようとした。


 そんな時に偶然、遺伝子学とやらを研究している医者が容姿を珍しがって累を欲しがり買い取ったそうだ。


 「それが僕の養父の崇峰たかみねさん。養父に憧れて医者を目指した」


 養父のことを語る累の横顔は輝いていた。憧れるような父を持てたことを羨ましく思う。


 「すごく立派な理由ね。尊敬するわ」


 姫子はそんな綺麗な理由を持っていない。純粋に誰かに憧れる、そんなことはなかった。特に父に関しては。昔は父からの暴力は愛ゆえだと信じていた。でも、それは累の言葉によって壊された。

 

 「君の方が凄いんじゃない。女性が働くって反対も多かっただろうに」


 「お祖父様が社会勉強ならって許してくれたの。本当は師範学校に行きたかったけど…今となったら外に出れるなら何でも良かったんだって思ってる」


 姫子は辰巳の存在を隠した。何故だがそうしなければいけない気がした。辰巳がいなければ、祖父を説得することはできなかったはずなのに。辰巳の存在を隠したことに罪悪感が湧いたが、そもそもあの人だって郭遊びをしている。姫子のわがままを聞いたのだって罪滅ぼしに違いない。


 姫子は小さい頃、父から母の代わりにされたことを話した。今でも蔵の中に閉じ込められてしまったら過呼吸になるだろう。父は姫子を蔵の中に呼び出して、自分の欲の限りを尽くしたから。その話を累は静かに聞いてくれた。

 

 「私、遊女になりたかった。沢山の人に愛されたら自分の存在価値を確かめることができるって思ってた」


 「お座敷商売は生半可な気持ちでやるものじゃないけど…。今の君なら、その遊女になりたいって願いが過去の傷ついた経験からの自暴自棄と自傷であることはもうわかるよね?」

 

 祖父や母が、遊女を卑しい職だと卑下するのか昔はわからなかった。何故なら、姫子にとってその職業は幸福であり天職であるよう思えてならなかった。しかし、本当の女郎屋育ちの累は現実を知っていた。

 梅毒などに罹ることもあるし、上級の遊女でなければ一夜に何人も相手にすることもある。


 「あなたが言ってくれなかったら、私…自分のことがわからずにたくさんの人に縋って自分をすり減らしていくところだった。だから、ありがとう」


 弁当のおかずを分けるのは、ささやかな感謝の印である。そして姫子のことを少しでも彼が好きになってくれはしないか…という下心からだ。

 

 ある日、姫子はついに累に胸のうちを明かした。


 「私、あなたのことが好き」


 しかし、累は姫子の気持ちを信じてくれなかった。傷を癒すことと、好意を誤認していると言われた。傷ついたので、姫子はそれから毎日昼休憩になると累に告白した。分けていた弁当のおかずだって、女中がつくってくれたものを横流ししているだけと気付いてからは女中の反対を押し切って自分で作るようにした。


 祖父は花嫁修業の一環だと思ったらしく、「感心、感心」と褒めてくれた。女学校で一通り料理は習っているから簡単だと思ったがこれが意外と難しかった。累には「急に卵焼きが不恰好になった」と言われた。


 しばらく毎日、好きだ好きだと言い続けたらやっと累は折れてくれた。ようやく姫子の気持ちが嘘ではないと伝わった。


 「私にここまで好きだと言わせておいて、ずっと振り続けてたなんて信じられない」


 「君の勝ちだよ。どうやら僕も君が好きらしいし」


 その言葉を返してもらったとき、姫子は今が人生で一番幸福だと思った。休日の日は、累の家に遊びに行った。


 タエが口裏を合わせてくれるから、抜け出すのは簡単だった。タエと一緒に出かけたことにすればいい。タエは「私はどこかで時間を潰しますから、お嬢様は楽しんできてください!」と言ってくれた。タエにだけは、好きな人ができたことを言ってある。


 彼は養父の家から離れ、長屋で一人暮らしをしていた。壁一面に巨大な本棚で占めていて、分厚い医学書がずらりと並んでいた。養父が研究ばかりしていて養父の家にいるころから、店屋物が多かったそうだ。


 「私が作ってあげるわ」


 姫子は累に料理を振る舞ってみたかった。女中たちが、胃袋を掴むといいと話していたのを聞いていたから。


 「包丁の持ち方が危なっかしいな」


 累はそう言いながらも微笑ましそうな顔をして見守ってくれた。出来上がった料理は普段栗花落家の食卓に並ぶものと比べれば貧相だったし、見た目も悪かったが累は食べてくれた。それが一番、嬉しかった。

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